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【会津の烈女】 介錯された会津藩士の娘、辺境伯令嬢に拾われる ~薙刀一つで新・娘子隊を作ります~  作者: 真野真名
第五章 半旗の城下 〜パンの匂い、晩夏の遠雷〜

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第肆拾話「広場の夜」




 その日の日暮れ。


 街の広場で、全員が集う簡素な夕食が始まった。


 派手な祝勝の宴はなかった。誰もそんなものを望まなかった。

 大鍋の粥と、根菜の煮込みと、スコットが最後に運んでいたパン。


 そのパンを、街の全員が一切れずつ、静かに噛みしめた。


 ニコデムの妻がそのパンを焼いていた。

 息子の残した生地の最後の一塊を、その母はこの夕食のために焼いたのであった。


「――美味しい」


 誰かがそう呟いた。


 誰の声かは分からなかった。だがその一言に、街の全員が静かに頷いた。


 ディローザが大きなパンを両手で掲げて、鼻先を寄せた。


「――トレクの、にーちゃんの、パン、あったかい」


「――ディローザ姐ちゃん」


「うん」


「兄ちゃんのパン美味しい?」


「うん」


「よかった」


 少年はパンの籠を膝の上に置いたまま、顔を綻ばせた。


 その笑顔は、朝の墓地では見せなかった笑顔であった。




 広場の一角では、老騎士クラベスが、鹿毛の老馬フラルディオンの背を撫でながら、街の若い守備兵たちに語っていた。


「――よいか、諸君。本日の、あの伯爵様の退陣。……あれは、貴殿らの槍の穂先が成した業ではない」


「――え?」


「あの伯爵様は、貴殿らの穂先ではなく、あの、スコット殿のパンの匂いに負けたのだ」


「――クラベス殿ォッ! 酔うておいでですかァッ! 意味がわかりませんぞォ」


 アサラトの声が飛んだ。


「――酔うてなど、おらぬ! これは、老兵の真剣な教えである!」


 クラベスは、槍を握らずに、両手を大きく広げた。


「よいか、諸君。戦というものは、剣だけで決まるものではないぞ。槍でも、弓でもない。最後に人間を戦わせるものはな――パンの匂いじゃ」


 トレクが不思議そうにクラベスを見上げた。


「あのさ、パンの匂いがどう戦に?」


「腹が減れば、家を思い出す。家を思い出せば、帰りたくなる。帰りたくなれば――戦は、終わる」



「クラベスおじいちゃん」


 トレクが、パンの籠を抱えたまま老兵を見上げた。


「うん?」


「じゃ、兄ちゃんのパンの匂い、あの伯爵様に届いたの?」


「――届いた、と、わしは信じておる」


「……ほんと?」


「ああ、ほんとうだ」


 クラベスは少年のパンの籠に手を添えた。


「あの伯爵は、貴殿の兄上のパンの匂いを嗅ぎ、そして、御自分の兵の母親たちが焼いていたパンの匂いを、思い出した。……それが、あの伯爵の退陣の真の理由である」


「……」


 少年はしばらく老兵を見つめた。


 それから彼は、自分のパンの籠の中に鼻を近づけた。


 彼の細い肩が微かに震えていた。


「――兄ちゃん」


 その一言だけ少年はパンの籠の中で呟いた。


 ルーテが竪琴の弦を爪弾いた。

 その、深く澄んだ音色が夕暮れの広場に静かに広がっていった。




 広場の別の一角では。


 コーディアが若い守備兵たちと、そして老兵ジャンベと一緒に地面に車座になって座っていた。


 ジャンベの大盾は、車座の中央に置かれていた。


「――ジャンベ様」


「なんじゃ、ブルームの娘御」


「明日から、この盾、練兵場にお運びしてもよろしいですか」


「無論である」


「槍衾の後ろに、この盾を置きたいのです。皆さんが槍を突く時、この盾の四十年前の傷を見て、自分たちの槍の意味を確かめる、そんな練兵場にしたいのです」


 ジャンベは、コーディアの持つ槍を見つめた。


 それから彼は頷いた。


「――貴殿の祖父上の声が聞こえるようじゃ」


「……」


「『まだ下げるな』、と」


 コーディアは頷き、槍を握り直した。


 その傍らで、若い守備兵の一人が震える声で呟いた。


「――俺、明日からこの盾を見ながら槍を握ります」


「俺も」


「俺も」


 車座の全員が静かに頷いた。


 その光景を、少し離れた場所からリドリーが大柄な体を精一杯伸ばして見ていた。


 彼女は、もう、俯いていなかった。


 その隣で、フジがいつものように、リドリーの背筋の伸び方をじっと観察していた。


「――リドリーさん」


「はい」


「あなたのその姿勢……昨日までと脊椎の角度が七度違う」


「――七度」


「はい」


「治癒師殿の目にはそう見えるのですか」


「はい」


「――ならば、それは良き変化ですか」


「はい」


 フジは眼鏡をそっと押し上げた。


「良き変化です」


 リドリーはしばらくこの治癒師を見つめた。


 そして、微笑んだ。


「――かたじけない」


 フジは、答えなかった。


 ただ、静かに頷いた。


 その頷きが、この口下手な治癒師の精一杯の祝福であった。




 広場のまた別の一角では。


 ラピエラが、コルニャの膝の上に頭を乗せて寝転がっていた。


「――にゃ」


「なに?」


「ラピエラ。王都時代こんな風に誰かの膝で寝たことあったにゃ?」


「――ないな」


「にゃ」


「殴られないよう、屋根の上か縁の下で寝ていた」


「にゃ?」


「猫みたいやろ」


「犬派のくせに」


「ああ、犬派さ」


「でも、今、あたしの膝で寝てるにゃ」


「――そだな」


 コルニャは、大きな尻尾をゆっくりと揺らしながら、ラピエラの頭をそっと撫でた。


「にゃ、ラピエラ」


「なに」


「街、あったかいにゃ」


「だな」


「あたし、この街好きにゃ」


「あーしも」




 二人の頭上、屋根の上でサーリーがしゃがみ込んでいた。


 彼女の小さな指先には、呪いの触媒の護符が握られていた。


 だが、彼女はその護符をそのまま袋に戻した。


 今夜は呪いは要らない。


 彼女は屋根の上から、広場の街の民の笑顔と、涙と、そしてパンの匂いを見下ろしていた。


「――お父さん、お母さん」


 彼女は護符を撫でた。


「……今日だけは、呪わなくても、守れたよ」


 夜風が彼女の後れ毛を優しく揺らした。




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