第肆拾話「広場の夜」
その日の日暮れ。
街の広場で、全員が集う簡素な夕食が始まった。
派手な祝勝の宴はなかった。誰もそんなものを望まなかった。
大鍋の粥と、根菜の煮込みと、スコットが最後に運んでいたパン。
そのパンを、街の全員が一切れずつ、静かに噛みしめた。
ニコデムの妻がそのパンを焼いていた。
息子の残した生地の最後の一塊を、その母はこの夕食のために焼いたのであった。
「――美味しい」
誰かがそう呟いた。
誰の声かは分からなかった。だがその一言に、街の全員が静かに頷いた。
ディローザが大きなパンを両手で掲げて、鼻先を寄せた。
「――トレクの、にーちゃんの、パン、あったかい」
「――ディローザ姐ちゃん」
「うん」
「兄ちゃんのパン美味しい?」
「うん」
「よかった」
少年はパンの籠を膝の上に置いたまま、顔を綻ばせた。
その笑顔は、朝の墓地では見せなかった笑顔であった。
広場の一角では、老騎士クラベスが、鹿毛の老馬フラルディオンの背を撫でながら、街の若い守備兵たちに語っていた。
「――よいか、諸君。本日の、あの伯爵様の退陣。……あれは、貴殿らの槍の穂先が成した業ではない」
「――え?」
「あの伯爵様は、貴殿らの穂先ではなく、あの、スコット殿のパンの匂いに負けたのだ」
「――クラベス殿ォッ! 酔うておいでですかァッ! 意味がわかりませんぞォ」
アサラトの声が飛んだ。
「――酔うてなど、おらぬ! これは、老兵の真剣な教えである!」
クラベスは、槍を握らずに、両手を大きく広げた。
「よいか、諸君。戦というものは、剣だけで決まるものではないぞ。槍でも、弓でもない。最後に人間を戦わせるものはな――パンの匂いじゃ」
トレクが不思議そうにクラベスを見上げた。
「あのさ、パンの匂いがどう戦に?」
「腹が減れば、家を思い出す。家を思い出せば、帰りたくなる。帰りたくなれば――戦は、終わる」
「クラベスおじいちゃん」
トレクが、パンの籠を抱えたまま老兵を見上げた。
「うん?」
「じゃ、兄ちゃんのパンの匂い、あの伯爵様に届いたの?」
「――届いた、と、わしは信じておる」
「……ほんと?」
「ああ、ほんとうだ」
クラベスは少年のパンの籠に手を添えた。
「あの伯爵は、貴殿の兄上のパンの匂いを嗅ぎ、そして、御自分の兵の母親たちが焼いていたパンの匂いを、思い出した。……それが、あの伯爵の退陣の真の理由である」
「……」
少年はしばらく老兵を見つめた。
それから彼は、自分のパンの籠の中に鼻を近づけた。
彼の細い肩が微かに震えていた。
「――兄ちゃん」
その一言だけ少年はパンの籠の中で呟いた。
ルーテが竪琴の弦を爪弾いた。
その、深く澄んだ音色が夕暮れの広場に静かに広がっていった。
広場の別の一角では。
コーディアが若い守備兵たちと、そして老兵ジャンベと一緒に地面に車座になって座っていた。
ジャンベの大盾は、車座の中央に置かれていた。
「――ジャンベ様」
「なんじゃ、ブルームの娘御」
「明日から、この盾、練兵場にお運びしてもよろしいですか」
「無論である」
「槍衾の後ろに、この盾を置きたいのです。皆さんが槍を突く時、この盾の四十年前の傷を見て、自分たちの槍の意味を確かめる、そんな練兵場にしたいのです」
ジャンベは、コーディアの持つ槍を見つめた。
それから彼は頷いた。
「――貴殿の祖父上の声が聞こえるようじゃ」
「……」
「『まだ下げるな』、と」
コーディアは頷き、槍を握り直した。
その傍らで、若い守備兵の一人が震える声で呟いた。
「――俺、明日からこの盾を見ながら槍を握ります」
「俺も」
「俺も」
車座の全員が静かに頷いた。
その光景を、少し離れた場所からリドリーが大柄な体を精一杯伸ばして見ていた。
彼女は、もう、俯いていなかった。
その隣で、フジがいつものように、リドリーの背筋の伸び方をじっと観察していた。
「――リドリーさん」
「はい」
「あなたのその姿勢……昨日までと脊椎の角度が七度違う」
「――七度」
「はい」
「治癒師殿の目にはそう見えるのですか」
「はい」
「――ならば、それは良き変化ですか」
「はい」
フジは眼鏡をそっと押し上げた。
「良き変化です」
リドリーはしばらくこの治癒師を見つめた。
そして、微笑んだ。
「――かたじけない」
フジは、答えなかった。
ただ、静かに頷いた。
その頷きが、この口下手な治癒師の精一杯の祝福であった。
広場のまた別の一角では。
ラピエラが、コルニャの膝の上に頭を乗せて寝転がっていた。
「――にゃ」
「なに?」
「ラピエラ。王都時代こんな風に誰かの膝で寝たことあったにゃ?」
「――ないな」
「にゃ」
「殴られないよう、屋根の上か縁の下で寝ていた」
「にゃ?」
「猫みたいやろ」
「犬派のくせに」
「ああ、犬派さ」
「でも、今、あたしの膝で寝てるにゃ」
「――そだな」
コルニャは、大きな尻尾をゆっくりと揺らしながら、ラピエラの頭をそっと撫でた。
「にゃ、ラピエラ」
「なに」
「街、あったかいにゃ」
「だな」
「あたし、この街好きにゃ」
「あーしも」
二人の頭上、屋根の上でサーリーがしゃがみ込んでいた。
彼女の小さな指先には、呪いの触媒の護符が握られていた。
だが、彼女はその護符をそのまま袋に戻した。
今夜は呪いは要らない。
彼女は屋根の上から、広場の街の民の笑顔と、涙と、そしてパンの匂いを見下ろしていた。
「――お父さん、お母さん」
彼女は護符を撫でた。
「……今日だけは、呪わなくても、守れたよ」
夜風が彼女の後れ毛を優しく揺らした。




