第參拾捌話「静けさに震える扇」
丘の上。
以蔵は、じっと、その会見を遠く見つめていた。
傷ついた左肩に手を当てたまま、彼は、しばらく無言でいた。
やがて、口の端が僅かに上がった。
「――ふぅん」
彼は、静かに笑った。
「メビックの伯爵さん、あの女に、額、擦り付けたか。……老兵は、退き際を知っちょる」
「以蔵殿」
傍らの若い勤王党の兵士が、震える声で問うた。
「――我らも、退きますか」
「退く」
「本国へ、戻りますか」
「戻らん」
「――え」
「わしゃ、ブロックスの軍に合流する」
以蔵は、丘の上に立ち上がり、傷ついた肩を庇いながら傍らの馬に跨った。
「あの女、次にもっと厄介な相手と、刃を合わせることになる。……その時、あの女の背骨が、折れるか、通るか」
「……」
「わしゃそれを見ちょる。ぜよ」
以蔵は、馬の腹を軽く蹴った。馬が、静かに歩み始めた。
「――生きちょれや、会津の女」
彼は、フラットペインの街の方角を、一度だけ振り返った。
「わしが、見届けるまで、な」
朝の風が、以蔵の合羽を静かに、撫でた。彼の姿は、やがて、地平の彼方の、丘の陰に消えていった。
***
街の広場では、既に、街の民による、簡素な弔いが始まっていた。
あの、若い徒弟の少年の亡骸は、白い布に包まれ、街の墓地へ、静かに運ばれていく。
その先頭を、少年トレクが、パンの籠を胸に抱えたまま歩いていた。
彼の隣に、ディローザが大剣を鞘に納めたまま、大きな体を精一杯折り曲げて歩いていた。
「トレク」
「うん」
「にーちゃんの、パン、街のみんな、食べたよ」
「うん」
「みんな、『美味しかった』って、言ってた」
「うん」
「にーちゃん、街を、守ったんだよ」
「――うん」
少年は、パンの籠をぎゅっと抱えた。
彼の目から、涙はもうこぼれていなかった。その代わりに、彼の背筋は、まっすぐに伸びていた。
その光景を、竹子は街道の脇から無言で見送った。
その隣に、リドリーが大柄な体を精一杯伸ばして立っていた。彼女はもう俯いていなかった。
「――隊長」
「うむ」
「私は、明日から南路の窓に盾を立てます」
「うむ」
「二度とあの少年に、あの兄の代わりをさせません」
「――頼むぞ」
竹子は、静かに、頷いた。
夜叉霧の柄の翠緑が、午後の陽を受けて脈打っていた。
その頃、老騎士ジャンベは、コーディアと共に、街の練兵場の隅に立っていた。
彼の手には、四十年前の大盾。
コーディアの手には、彼女の槍。
「――ブルームの、娘御」
「はい」
「あんたの祖父上に、伝えてくれるか」
「はい」
「わしの盾は、あんたの祖父上の声で、四十年下がらずに済んだ。今度はわしの盾で、あんたの背中を支えさせてくれと」
コーディアは、しばらくこの老兵を見つめ、頭を下げた。
「――お願い、いたします」
「――おうよ」
ジャンベは、大盾を両手で掲げた。
その盾の、四十年前の傷だらけの表面が、午後の陽を受けて光った。
コーディアの握る槍の穂先も、応えるかのようにキラリと光った。
城壁の上の指揮所では、カラミーテが、駒盤の帝国駒を全て脇に払っていた。
その代わりに、彼女は駒盤の東の端に、一つの新しい駒を静かに置いた。
黒く、大きく、他の駒とは明らかに違う質の木札。
――サードル・ブロックス、二万。
その駒を、彼女は扇子越しに、しばらく見つめていた。
「――隊長様」
背後から入ってきた竹子に、彼女は振り返らずに呟いた。
「はい」
「私、正直、少し震えております」
「……」
「メビック伯爵は、老獪な政治家でございました。ゆえに、私の盤面が通用いたしました。……ですが、次のお方は、私と同じ盤面の読み手でございます」
カラミーテは、ゆっくりと振り返った。
その顔に、いつもの上品な微笑みはなかった。
「私の盤面が通用しない相手が来ます。……あるいは、私の盤面を真っ向から、上から、押し潰しに来る相手が」
「――カラミーテ殿」
「はい」
「あなたは、震えてよい」
竹子は、静かに応じた。
「私も、震えておる」
「――隊長様」
「以蔵に頬を斬られた夜より、私は震えっぱなしである。だが震えながらでも、私はこの夜叉霧を握れる」
竹子は、夜叉霧の柄をそっと撫でた。
「あなたも、震えながらでよい。その扇子を握ってくれ。……震えぬ者に盤面は読めぬ」
カラミーテは、しばらくこの隊長を見つめた。
やがて彼女は、扇子を静かに握り直した。
その手は、微かに震えていた。
しかし、その目には、既に次の盤面の最初の一手が見えていた。
「――かしこまりました、隊長様」
「うむ」
「震えながら、握らせていただきますわ」
***
夜。
精霊樹の下、イルミナは、静かに、祈りを捧げていた。
その傍らに、竹子が一人立っていた。
夜叉霧を手に、月の光を背に受けて。
「――タケコ様」
「はい」
「次に来られるお方は、あなたが元の世界で戦われた方々と、同じ御思想の方だと伺いました」
「……はい」
「怖い、ですか」
竹子は、しばらく無言でいた。
やがて、彼女は静かに応じた。
「――怖い」
イルミナは驚いたように竹子を見上げた。
この人が、こんなにもはっきりと「怖い」と口にする。
それは、彼女の知る中野竹子の初めての告白であった。
「以蔵は、私の胸を抉った。あの男の言葉は、私の背骨に深く突き刺さり、まだ抜けておらぬ」
「……はい」
「だが、次のお方は、私の胸ではなく、私の存在を否定しに来る」
「――存在」
「私が、この街であなたを守っていること、その意味そのものをあの方は『非合理』の一言で切り捨てるであろう。……私の故国――会津の同胞たちの命が『旧弊』の一言で無価値にされる」
「……」
「その言葉を、私は、正面から受け止められるか。それが怖い」
イルミナは、しばらく竹子を見つめた。
それから、彼女はそっと竹子の袖を掴んだ。
「――タケコ様」
「はい」
「あなたが怖いなら、私が隣で震えます」
「……」
「あなたの故国の同胞様たちの命が『旧弊』と呼ばれる時、私は、辺境伯として、フラットペインの名にかけてその言葉に反論いたします」
「――イルミナ様」
「あなたの震えを、あなた一人に背負わせません」
精霊樹の白い花芽が夜風に微かに揺れた。
その一つ一つが月の光を受けて静かに光っていた。
竹子は、袖を握りしめるイルミナの手を見つめていた。
やがて、彼女は静かに頷いた。
「――かたじけない」
「はい」
「あなたと共に、震えさせていただく」
二人はしばらく無言で、精霊樹を見上げていた。
東の空の、地平の彼方で小さく雷鳴が鳴った。
夏の終わりの乾いた空に。
その雷鳴は、まだ遠かった。――しかし、確実に近づいていた。




