第參拾漆話「六百の命、一人の命」
ここから先の会話は、公式の記録には残らない。
「――辺境伯、イルミナ様。この度の非礼、深くお詫び申し上げる」
「メビック伯爵」
イルミナは、澄んだ声で応じた。
「非礼とは、いかなる意味でございましょうか。あなたは、あなたの主君の命により、この地に参られた。その大義に、非礼はございません」
「――!?」
メビックは、はじかれたように顔を上げた。
「戦において、あなたは、あなたの立場を全うされた。そして今、白旗を掲げ、この土地の民の命を、これ以上散らせぬために御自ら足を運ばれた。……その御決断こそ、伯爵閣下の真の御立場でございましょう」
少女辺境伯の言葉は、静かに老いた伯爵の胸を深く突き刺した。
メビックは、しばらくその少女の顔を見つめた。
――この娘は、まだ二十歳にもならぬはずだ。
だが、この娘の口から出た言葉は、彼が、五十を過ぎてようやく学んだ老獪な外交の作法そのものであった。しかも、その作法の底に真心があった。
メビックは、悟った。
――この街は、ただ、あの薙刀の女一人で守られているのではない。
この街には、この少女――辺境伯がいる。
そして、この二人の背後には、まだ、彼が見ていない幾多の柱がある。
「――イルミナ様」
メビックは、頭を下げた。
「あなた様の御言葉、この老兵の胸に、深く刻み申した」
そして、彼は顔を上げ、次に竹子に視線を向けた。
「――タケコ殿」
「うむ」
「私は、貴殿を評価している」
メビックの声に、初めて政治家ではない、一人の老いた戦士の響きが、明確に混じった。
「三日の攻城で、我が軍は千三百の損害を出した。うち死者、六百に届く。……対して、貴殿方の戦死者は」
「――街の職人組合の頭の、息子、一名」
竹子が、静かに、引き取った。
「スコットという名の、若い徒弟の少年であった。フジとチネルが、全力を尽くしたが間に合わなんだ」
「……」
「その他、守備隊に重傷者、数名。私の娘子隊には、幸いにして戦死者は、出ておらぬ。……が、そのスコットも、我が領の民であり、家族である。ゼロとは申さぬ」
メビックは、深く、目を閉じた。
「――お一人、失われた」
「うむ」
「……六百対一である」
「その勘定はしておらぬ」
竹子の声は、抑えた低さのまま、しかし、明瞭であった。
「戦は、勘定ではござらぬ。あの若者の命は、六百と釣り合うものではない。スコットは、戦の最中でも笑顔を絶やさず、周囲に気遣いの声を掛けながら、水を運び、小麦を運び、パンを焼き、そして怪我人の移送まで手伝っていた。毎朝、パンを運ぶ弟の背に大きく『いってらっしゃい』と手を振っていた。その手が、もう二度と振られぬ。その一つが、この街の失ったものである」
メビックは、しばらく竹子を見上げていた。
やがて、彼は、白旗の柄を地面に突き立てた。
そして、両手をその柄に添え、ゆっくりと片膝をついた。
メビックは、片膝をついたまま、竹子とイルミナを見上げた。
「――タケコ殿。一つだけ貴殿に問いたい」
「うむ」
「なぜ、貴殿は、南路の救護所の前で、我らの兵を殺さずに退けられたのか」
城門前が静まった。
街の民の全員、娘子隊の全員、供の将校二人、そして、以蔵――丘の上から、この会見を遠く見つめていた以蔵の耳にまで、その問いは届いた。
竹子は、しばらく無言で老いた伯爵を見下ろしていた。
やがて、彼女は口を開いた。
「――メビック伯爵。あなたの兵は、我らの兵と同じように、母から生まれ、同じ大地を踏んで、この日、この街の路地で我らと刃を交え申した」
「……」
「あなたの兵の背にも、母がおる。子がおる者もあろう。あの、私が武器を折った兵の中の一人は、まだ、頬に、少年の面影を残しておった」
「……」
「私は、故国で我が同胞を幾百失い申した。その、幾百の一つ一つに、母がおり、父がおり、子がおり、婚約者がおった。……そのことを、私は、この身をもって知っておる」
竹子の声は、静かに、しかし、朝の空気を鋭く切り裂いた。
「ゆえに、私は、殺さずに退けられる兵は殺さずに退ける。それが、あの日燃え落ちる城で、私が、同胞たちの骸を踏み越えてこの領に流れ着いた、その唯一の意味である」
「――……」
「あなたの兵の一人一人にも、私の同胞と同じ命が宿っておる。その命を、無為に散らせば、私は、私の同胞に顔向けができぬ」
メビックは、片膝をついたまま顔を伏せた。
その、老いた肩が微かに震えていた。
「――タケコ殿」
「うむ」
「……私は、貴殿を評価しておった」
「……」
「今日、この瞬間から、私は、貴殿を敬慕する」
城門前が、しん、と、静まった。
メビックは、顔を上げた。その頬に、老いた戦士の、涙が一筋伝っていた。
「貴殿は、我が兵の命を、我が兵の家族の元へ、送り返してくださった。……この恩、老いた戦士の、生涯を、賭してでも返させていただく」
「――返さずとも、よろしい」
竹子は、静かに応じた。
「返すべきは、私にではない。あなたの兵の一人一人が、生きて家族の元に帰り、その家族の顔を見ることができた。それが既に返答である」
「――……」
「あなたの兵の家族に、伝えていただきたい。この街の、あの職人組合の頭に、息子を返せなんだ。その代わりに、あなたの兵の家族が、我が息子を抱きしめる夜が来ることを。……それが、あの若者――スコットへのせめてもの供養である」
メビックは、深く、頭を下げた。
地面に、額を押し当てるほどに、深く。
「――承知、仕った」
その声は、掠れ震えていた。
だが、朝の街道の隅々にまで、確かに届いた。
メビック伯爵は、ゆっくりと立ち上がった。
駆け寄った将校二名が、老いた主君をそっと支えた。
「――タケコ殿」
「うむ」
「一つだけ、老兵の忠告をお聞き願いたい」
「聞こう」
メビックは、竹子の目を真っ直ぐに見つめた。
「本国より、既に次の軍が進発しております」
城壁の上のカラミーテが、扇子の陰で微かに目を細めた。
――やはり、そうか。
「総大将ブロックス。サードル・ブロックス将軍」
メビックの声は、静かに続いた。
「――本軍、二万」
守備隊の一人が、思わず息を呑んだ。
「あの男は、私とは違う」
メビックは、深く息を吐いた。
「私は、政治家である。ゆえに、貴殿の義に頭を下げることができた。だが、ブロックスは政治家ではない。あの男は――理論家である」
「……」
「あの男は、身分制を憎み、封建制を憎み、いかなる特別な者も認めぬ。武士道、騎士道、貴族制――これらを全て人類を停滞させる、旧弊、と呼ぶ。あの男にとって、貴殿の『義』は旧弊の最たるものとして、否定されるであろう」
竹子の指が、僅かに夜叉霧の柄に触れた。
「……」
「あの男は、決して悪ではない。あの男自身、身分制の犠牲者である。平民の生まれで、才能一つで、二万の軍を率いる位置まで這い上がった。その過程で、あの男は無数の『無能な貴族』の不条理をその目で見てきた」
「――ゆえに、正義を掲げる、と」
「――……」
「そうか」
竹子は、静かに頷いた。
夜叉霧の柄に浮かんだ翠緑の文様が、彼女の掌の下で脈打った。
――私を、亡霊のままにした、あの新政府軍と、同じ思想を持つ男が来る。
その予感は、既に彼女の胸の中にあった。だが、こうして老いた伯爵の口から、明確な形で聞かされてみると、その重みは、想像を遥かに超えていた。
メビックは、頭を下げた。
「――我が主君に、私は、報告いたす。『フラットペイン領は、辺境伯イルミナ様、および、その筆頭護衛官タケコ殿のご統治のもと、極めて堅固に守られている。これ以上の攻略は、我が国の兵の命を無為に散らせるのみ』と」
「……」
「そして、我が主君に進言いたす。『ブロックス将軍の進軍を、止めていただきたい』と。……ただし、この進言が通るか通らぬかは、老兵の私には確約できぬ」
「――伯爵閣下」
イルミナが、静かに応じた。
「あなた様のその御進言だけで、我らは、既に、深く感謝申し上げます。通るか通らぬかは、天の采配でございます。あなた様の御立場で、御口に出していただいたこと、そのこと自体が、我らへの、最大の贈り物でございますから」
メビックは、イルミナの、その言葉に、しばらく無言で応じた。
やがて、彼は、懐から小さな銀の紋章を取り出した。
「――辺境伯様。これをお納めいただきたい」
「これは……」
「私、メビック家の、私個人の家紋でございます。この紋章を我が家の使者に見せれば、いつなりとも、この老兵と、直接連絡が取れる。……もし、ブロックス将軍との戦で、我が家にできることがあれば」
「――閣下」
「たとえ、我が主君の命に、背くことになろうとも」
メビックの声は、静かで、しかし、絶対の意志を秘めていた。
「私、この老兵の首、一つで、フラットペイン領の民の命が、救えるならば、いつなりとも差し出す用意がある」
イルミナは、震える手でその銀の紋章を受け取った。
「――かたじけなく、頂戴、いたします」
城壁の上の民の間から、微かな啜り泣きの声が上がった。
トレクが、パンの籠を抱えたまま、静かに、頷いていた。
――兄ちゃん、兄ちゃんの命は、この老いた伯爵様の、頭を下げさせた。兄ちゃんは無駄には、死なんかった。
メビック伯爵は、供の将校二人と共に、ゆっくりと街道を戻っていった。
その背に、竹子は、深く一礼した。イルミナも、辺境伯として深く頭を下げた。
街の民の全員が、その背に頭を下げた。
白旗が、朝の風に静かに翻っていた。




