第參拾陸話「三日目の白旗」
朝霧の中、物見櫓の鐘が一度鳴った。
――帝国軍陣中より白旗掲揚。
街の広場が、しん、と静まった。
既に街の民の全員が、この報せの意味を知っていた。
三日耐え抜いた。ただそれだけの事実が、彼らの胸を静かに満たしていた。
だが、誰も声を上げなかった。まだ――終わっていない。
白旗を掲げた敵の総大将が、これからあの城門の前に立つ。そこで、あの人が――あのタケコ様が、何を答えるのか。街の全員が、それを息を殺して待っていた。
城門の内側、S字の隘路の入口に竹子は立っていた。
その隣に、辺境伯イルミナ。
二人の背後、S字の陰に隠れる位置に、カラミーテ、ピナーレ、そしてビアンカ。ビアンカは長弓を手に、既に矢を番えていた。もし万一、あの白旗が偽りであれば、その一射であの伯爵の眉間を貫くために。
城壁の上、両側の矢座に、オルペア、コーディア、リドリー、そして守備隊。
城壁下の広場に、ディローザが大剣を地面に突き立て、両手を柄頭に乗せて、じっと外の方角を見つめていた。
路地の陰に、ラピエラとコルニャ。屋根の上に、サーリーが呪いの触媒を握って身を潜めている。
フジとチネルは、病院の入口で、いつでも走り出せるよう身構えていた。
ペルトは病院の階段の上で、狐面を額に上げ、静かに息を整えている。
街の民は、広場の奥、老騎士ジャンベの大盾の後ろに集められていた。トレクが、パンの籠を抱えたまま、大盾の陰から、じっと、城門の方を見つめている。
ローズが肩に載せた小鳥が、静かに遠くの空へ舞い上がった。空からの目である。
――誰も、油断はしていなかった。
白旗の下でこそ、刃は最も光る。それを、この街の全員が既に知っていた。
街道の彼方から、三つの影がゆっくりと歩んできた。
中央、絹の外套を纏った初老の紳士――メビック伯爵。
両脇に、供の将校が二名。武装は、儀礼用の短剣のみ。
彼らは、狭められた城門のS字隘路の入口、竹子の五間ほど手前で立ち止まった。
メビックは、白旗の柄を両手で握り直した。
そして、深く一礼した。
「――タケコ殿。この度は、勝手ながら、白旗をお納めいただきたく、参上仕った」
その声には、既に、政治家の含みはなかった。老いた、一人の戦士の疲れた声であった。
「――どうぞ、お顔をお上げくだされ」
竹子が、静かに応じた。
メビックは、ゆっくりと顔を上げた。
その視線が、まず、竹子の背にある夜叉霧に、次に、その柄に浮かんだ翠緑の文様に、そして最後に、竹子の隣に立つ、少女の顔をした辺境伯に、順に注がれた。
彼は、深く息を吸い、そして、供の将校二名にも、そして自軍の陣にまで届く朗々とした声を張り上げた。
「――帝国皇帝陛下の御名代、リンフォイル・フォン・メビック伯爵、参上仕った」
その声は、あくまでも、公式の、老獪な政治家の声であった。
「フラットペイン辺境伯、イルミナ・ティル・フラットペイン様。並びに、その筆頭護衛官、タケコ・ナカノ殿。我が皇帝陛下より、貴殿らに正式なる降伏勧告をお伝えする」
城壁の上、街の民の間に微かな緊張が走った。
しかし、竹子は動かなかった。
――そう、来るであろう、と、既に彼女もカラミーテも読み切っていた。
メビックは、懐から絹に包まれた勧告状を取り出し、両手でそれを掲げた。
「一、フラットペイン領は、帝国の直轄領として、これを併合する。二、辺境伯イルミナ様は、その爵位を保持したまま、帝都へ移り、皇帝陛下の宮廷にお仕えいただく。三、筆頭護衛官タケコ殿は、その武勇を惜しみ、帝国軍の名誉ある一将として、これを迎える。四、娘子隊は、これを解散し、各員、帝国内の適切な職に、これを配する」
彼は、勧告状を掲げたまま竹子とイルミナを見上げた。
「――これが、我が皇帝陛下の寛大なるお申し出である」
その声は堂々とし、かつ老獪であった。
竹子は、傍らに立つイルミナに軽く会釈すると、深く息を吸い、そして応じた。
「――帝国皇帝陛下の御高慮、まことにかたじけなく承り申した」
その口調も、公式の武人の応答であった。
「されど」
竹子は、一歩前へ出た。
「一、フラットペイン領は、初代辺境伯よりこの地の民と共に、その土を耕し、その水を分け合い、その精霊樹の枝葉の下で、五代を生きてまいり申した。これを併合するとは、この地の五代の民の魂を、皇帝陛下の御手に差し出すに等しく、お受けいたしかね申す」
「二、辺境伯イルミナ様は、この地の民の主にあられる。帝都の宮廷でお仕えするより、この地の民の傍らに留まる方が、遥かにその爵位に相応しく、これもお受けいたしかね申す」
「三、タケコ・ナカノは、故郷を失い、この地に流れ着いた身。その武勇を、皇帝陛下の御軍にお迎えいただくとは、恐悦この上なき申し出。……されど、私の武勇は既にこの地の、辺境伯イルミナ様に捧げ申した。二君に仕える不忠、武人のなすところにあらず」
「四、我が娘子隊は、はみ出し者の寄り合いにござる。帝国内の適切な職に配していただくとは、その一人一人がこの街を離れれば、再びはみ出し者に戻るということ。……この地に居を得た者たちを、再び街から追い出すに等しく、これもお受けいたしかね申す」
竹子は、深く一礼した。
「――皇帝陛下の、御高慮に対する我が回答は、以上でござる」
城門前が、しん、と、静まった。
供の将校二名は、思わず剣の柄に指が触れた。
だが、メビックは動かなかった。
彼は、勧告状を掲げたまま続けた。
「――タケコ殿」
「うむ」
「今一度、お尋ねいたしたい」
彼の声は、あくまで公式の老獪な政治家の声であった。
「貴殿の申し立て、皇帝陛下の御耳に正しく届けるためにも、確認せねばならぬ。……貴殿方は、この街を皇帝陛下の御手に委ねぬと、そう申されるか」
「――然り」
「六百の、我が兵の死を無にいたすと、そう、申されるか」
「――否」
竹子の声は、ここで微かに変わった。
「六百の御命を、無にいたす気はござらぬ。あの御命はこの街の民、一人一人の胸に刻まれてござる」
「――……」
「されど、その六百の御命の償いのために、この街の五代の民の魂を差し出せと申されるならば、それは、六百の御命を、二重に汚す振る舞いになり申そう」
メビックは、勧告状を掲げたまま、しばらく無言でいた。
城壁の上で、カラミーテが扇子の陰で微かに目を細めた。
――上手い。隊長様は、あの伯爵に退がるための階段をお作りになっている。
「六百の御命は、我らの街に伏せてござる」
竹子は、深く頭を下げた。
「この街の民、一人一人が、あの六百の御命に、生涯、頭を下げて、生きて参る所存。……それが、我らがこの街を、皇帝陛下の御手に委ねぬ、その代わりに、我らが、皇帝陛下の御軍の御命に、お返しする唯一の道でござる」
メビックは、しばらく竹子の下げた頭を見つめていた。
やがて、彼は勧告状を静かに懐に、戻した。
そして、供の将校二名に聞こえるほどの、しかし、あくまで公式の、口調で告げた。
「――承った」
「――閣下」
「タケコ殿の御回答、我が皇帝陛下の御耳に正しくお届け申す」
供の将校二名は「はっ」と、頭を下げた。彼らの表情には諦めきれぬ無念があった。
だが、この公式の勧告を正式に拒絶された、という事実そのものが、彼らの主君の退陣の正当な理由となる。皇帝陛下への報告書に、正式な勧告と正式な拒絶が明記される。
それが、六百の死者に対する、老獪な政治家の責任の取り方であった。
メビックは、そこで供の将校二名に静かに告げた。
「――諸君。この先の会話は、私と、タケコ殿の私的な対話である」
「――は?」
「五間、退がっていてくれ」
「――閣下、しかし」
「よい」
メビックの声は、静かで、しかし絶対の意志を秘めていた。
「私は、六百の兵を失った。その責を老兵として、この地の武人に、私的に詫びておきたい。……我が主君の御軍の御名にかけては、既に正式な勧告を伝え、正式な回答を受けた。ここから先は、我が主君の御名を汚さぬ、私、一個人の心情の話である」
供の将校二名は、しばらく躊躇った。
だが、老いた主君のその揺るぎない声に、彼らは深く頭を下げ静かに五間退がった。
城門前に、メビック伯爵と竹子とイルミナだけが残った。




