第參拾伍話「盾とパン」
三日目の夜。
帝国軍陣地では、焚き火が一つ、また一つと消えていた。
荷馬車が動く。負傷兵が運ばれる。武具がまとめられる。誰も「撤退」とは口にしなかった。だが、兵士たちは感じていた。
明日の朝、この街に向かって進む者は、もういない。
一方、フラットペインでは、誰も眠っていなかった。勝ったからではない。生き残った者たちが、ようやく、自分たちが生き残ったことに気づき始めていたからだ。
そして、まだ眠らずにいた少年が一人。パンを焼き釜を見ていた。
――兄の代わりに。
***
星が薄く残る空の下、竹子は一人、城壁の最上階に登っていた。
夜叉霧を手に、東の街道を見下ろす。地平の彼方、帝国本軍の野営の焚き火が、昨夜より明らかに数を減らしていた。
――退く準備、か。
竹子は、静かに息を吐いた。
背後から、軽い足音。振り返らずとも、それが誰かは、既に彼女の耳が知っていた。
「――お早いですわね、隊長様」
カラミーテだった。手には、湯気の立つ湯呑を二つ。
「かたじけない」
湯呑を受け取り、二人はしばらく無言で東の空を見つめた。
やがて、カラミーテが、扇子で口元を隠しながら静かに言った。
「メビック伯爵、朝一番に白旗を掲げてこられます」
「――読めるか」
「ええ。あの陣の焚き火の数と、荷馬車の動きを、ローズさんの鳥が逐一報告してくれておりました。……あのお方、既に、この街を落とすことを諦めておられます」
「そうか」
「隊長様」
「うむ」
「メビック伯爵は、老獪なお方です。あのお方は、白旗を掲げた瞬間、あなた様の口から、一つ、答えを引き出そうとなさるでしょう」
「答え、とは」
「――『なぜ、あなたは我らの兵を殺さずに退けたのか』」
竹子は、湯呑を口元に運ぶ手を止めた。
カラミーテは、扇子を静かに閉じた。
「南路の病院前で、あなた様が敵兵の武器だけを折って退けられたこと。あの一件は、既に伯爵の耳に届いております。……あのお方の胸中、今、随分と荒れておられるはずですわ」
「……荒れる、とは」
「老いた戦士が、若い戦士に負けを認める時の荒れ方でございます」
カラミーテは、静かに続けた。
「あのお方は、勝てぬから退くのではございません。あなた様の義に、勝てぬから退かれるのです。……ですから、隊長様。今日の会見、どうか、あのお方の戦士としての矜持だけは、傷つけずに、退がらせて差し上げてくださいませ」
「――政治家としての甘さは、突いてよい、と」
「はい」
カラミーテは、微かに微笑んだ。
「政治家の顔は、突かせていただきます。それが、この街の、次の百年のための外交の下拵えでございますから」
竹子は、しばらくこの副隊長の横顔を見つめた。
そして、静かに頷いた。
「――承知した」
城壁の下では、既に街の民が動き始めていた。
トレクが、パンの籠を胸に抱え朝の炊き出しの列に並んでいる。その少し前、ディローザが大きな手で子どもたちに水を配り、老騎士ダフが薬湯の鍋の前で「これは、酒ではございませぬぞぉ」と誰にともなく呟いている。
クラベスは、鹿毛の老馬フラルディオンの背を撫でながら、街の若い守備兵たちに何やら熱心に語りかけていた。
「――よいか、諸君! 本日、白旗が上がるかもしれぬという報せである! だが、油断は禁物であるぞ! わしの若い頃はのう――」
「――隊長」
その傍らを通りかかったコーディアが、槍を担いだまま、老騎士に軽く頭を下げた。
「その若い頃のお話、うちの祖父もよく話してくれるんです。あの辺境の砦を、独りで一日支えた大盾兵の話」
「――ぬ!? ジャンベのことか!?」
「はい。祖父は、その方の下で荷駄運びをしていたと聞いています。『あの盾があったから、あの日、俺は逃げずに、荷を守れた』と、いつも」
クラベスの目が、瞬時に涙で潤んだ。
「――お、おう、そうか、そうか! 貴殿の祖父上は、あの荷駄の……ジャンベ! ジャンベェッ! 起きろォッ! 荷駄の若造の孫娘が、来ておるぞォッ!」
大盾に凭れて豪快に居眠りしていたジャンベが、飛び起きた。
「――なっ、なんじゃ、敵襲か!?」
「違うわァッ! 貴殿の昔の部下の、娘御であるッ!」
「――部下ォ!?」
ジャンベは、寝ぼけ眼でコーディアを見つめ、それから、目を丸くした。
「……お前さん、まさか、あのブルームの孫娘か」
「……はい」
「――ぬ、ぬぉぉぉぉぉ!!」
ジャンベは、大盾を担いだままコーディアの前に片膝をついた。
「あんたの祖父上は、わしの命の恩人じゃァッ! あの日、わしが盾を下げそうになった時、後ろから『まだ、下げるな』と、震える声で叫んでくれたのが、あんたの祖父上ぞォッ!」
「……」
「四十年、あの声を忘れたことはなかったァッ!」
コーディアは、しばらく、この老兵を見下ろしていた。
それから、彼女は槍をそっと地面に置き、老兵の前に両膝をついて、丁寧に一礼した。
「――祖父の代わりに、お礼を申し上げます。あの日、盾を下げずにいてくださって、ありがとうございました。大好きだった祖父が生きて帰れたのは、あなた様のおかげです」
ジャンベの、大きなごつごつとした手が震えた。
彼は、大盾をそっと地面に置いた。
そして、コーディアの肩にその震える手を置いて、初老の男が、朝の広場で声を殺して泣いた。
――四十年、彼はあの盾を下げなかった。四十年、彼は誰にも「ありがとう」と言われる機会がなかった。
その光景を、トレクがパンの籠を抱えたままじっと見ていた。
彼の隣で、ディローザが大きな手で、少年の頭をそっと撫でていた。
「――ディも、なんか、涙、出るね」
「……ディローザ姐ちゃん」
「うん?」
「俺の兄ちゃんも、あんな風に、誰かに、『ありがとう』って、言われてほしかった」
「うん」
「言われる前に、死んじゃった」
「……」
ディローザは、しばらく小さな少年の頭を撫で続けた。
それから、彼女は自分の膝を折り、少年と目線を合わせて、真面目な顔で言った。
「トレク」
「――」
「ディが、言うよ」
「え?」
「トレクのにーちゃん、ありがとう。街のため、パン、運んでくれて、ありがとう。ディ、忘れない」
トレクは、パンの籠を、ぎゅっと、抱えた。
彼の目から、大粒の涙が次から次へとこぼれ落ちた。
「――ディローザ姐ちゃん、俺、パン、もっと、運ぶから」
「うん」
「兄ちゃんの分も、運ぶから」
「うん」
「俺、絶対、剣は、握らないから。絶対、パン、運ぶから」
「うん」
ディローザは、少年を大きな両腕で、そっと抱きしめた。
その光景を、竹子は、城壁の最上階から無言で見ていた。
夜叉霧の柄に浮かんだ翠緑の文様が、朝の光を受けて確かに脈打っていた。
「――カラミーテ殿」
「はい」
「私は、間違っておらぬな」
「……はい」
カラミーテは、扇子を握りしめたまま、静かに答えた。
「……間違って、おられません」
その語尾が、微かに震えていた。




