第參拾肆話「白旗の決断」
午後、三線のいずれも、辛うじて、しかし確実に、持ちこたえていた。
だが――無傷ではなかった。
北路では、コーディアの槍衾を支えていた若い守備兵の一人が倒れた。
宿屋の常連客の息子だった。
フジの荒療治で命は取り留めたものの、右足は、膝から下が動かなくなるかもしれない。
西路では、ラピエラが屋根から降り立った瞬間、暗殺者気取りの帝国魔導士が放った針を、コルニャが身を挺して受けた。
「にゃ、これくらい平気にゃ」
笑ってみせたが、針には遅効性の毒が塗られていた。
ラピエラは、ふらつくコルニャを無理矢理抱き抱え、そのまま救護所へ飛び込んだ。
解毒は、ぎりぎり間に合った。
***
そして――南路。
竹子は敵兵の武器を折り続け、殺さずに退けた。
だが。
敵の弓兵が放った一矢が、救護所の窓を貫いた。
たまたま窓辺でパンを運んでいた、街の職人組合の頭の息子――少年トレクの兄を矢が貫いた。
フジとチネルが全力で救おうとした。
救えなかった。
***
夕刻。
救護所の裏庭に、竹子は一人立っていた。
その足元に、白い布に包まれた若者の亡骸。
街の職人組合の頭が、跪き、息子の胸に手を置いていた。
頭を上げず、涙も見せず、ただ静かに掌の下の息子の心臓が、もう二度と打たないことを確かめている。
その傍らに、トレクが震えながら立っていた。
トレクは、パンの籠をまだ手から離せずにいた。兄が死んだ瞬間、彼はちょうど竹子の指揮所へパンを運ぶ途中で、その報せを聞いたのだった。
「――トレク」
竹子が、静かに少年の名を呼んだ。
「――……」
「兄上は、私が守り切れなかった」
「――……」
「済まぬ」
竹子は、深く頭を下げた。
トレクは、しばらく竹子の下げた頭を見ていた。
それから、パンの籠をそっと地面に置いた。震える手で竹子の袖を掴んだ。
「――タケコ様」
「うむ」
「兄ちゃん、俺に、言ってました」
「……」
「『タケコ様のところの、あの綺麗な、扇子の姐さんが、パンの配り方、一番効率がいい順番、教えてくれた。あんな頭の良い人たちが、街を守ってくれてるんだ。俺らも、負けたられない』って」
「……」
「兄ちゃん、俺に、パンの持ち方まで、教えてくれて……」
少年の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「タケコ様。……俺、明日も、パン、運びます」
竹子は、少年の肩にそっと手を置いた。夜叉霧を握る時とは、まったく違う優しさだった。
「――トレク」
「はい」
「兄上に、恥ずかしくないパン運びを頼むぞ」
「――はい!」
少年は、涙をぬぐいながら、しかし、はっきりと頷いた。
その背後で、リドリーが大柄な体を折り曲げて、震える声で呟いていた。
「私が……もっと早く、南路の窓に、盾を、立てていれば」
「リドリー殿」
竹子は、少年から視線を上げ、リドリーを真っ直ぐに見つめた。
「あなたの盾は、明日生きている者を守るためにある」
「――……」
「過去に、向けるな。前へ、向けよ」
リドリーは、しばらく震えていた。
やがて、彼――彼女はゆっくりと、大剣を握り直した。
今度は、俯かなかった。
「――はい。……隊長」
「うむ」
救護所の裏庭の空に、夕陽が沈み始めていた。
どこかで、老騎士クラベスの、朗々とした声が風に乗ってきた。
――「わしの若い頃はのう、これしきの負傷者、一晩で担ぎ切ったものであるぞ!」
――「クラベス殿、担ぎ切ったのは、あなたご自身ではなく、あなたの下の兵ですぞォッ!」
――「ええぃ、細かい男よのう、アサラト!」
その声を聞きながら、ディローザが、大きな両手で、街の子どもたちに水を配っていた。
「にーちゃんの、ぶんも、しっかり、飲むんだよ! ねえさんが、お水、いっぱい、汲んどけって、言ってたから!」
「ディローザ姐ちゃん、ありがとう!」
「うん! ディ、ねえさんに、ほめられる! ねえさん、絶対、ほめてくれる!」
その光景を、指揮所の窓からカラミーテがじっと見ていた。
扇子の陰から、彼女は誰にも聞こえぬ声で呟いた。
「――夫を失った時、私は、街を憎みかけました」
その呟きを、たまたま隣を通ったピナーレだけが聞いた。
「……カラミーテ様?」
「あら、ピナーレ。……何でもございません」
「……カラミーテ様」
「――ただ、思っただけですわ。あの職人組合の頭のお方に、明日、私、自分の口で、頭を下げに参ります。副隊長として、盤面を組んだ責は私にありますから」
「――そんな、副隊長一人の責ちゃいます」
「一人の責、ですのよ」
カラミーテは、扇子を静かに閉じた。
「盤面を読む者は、駒が欠けた時、必ずその責を負う。それが、副隊長という椅子ですわ」
「……」
「ですから、ピナーレ。あなたは、そんな椅子には決して座ってはなりませんよ」
「……カラミーテ様」
「明るく、外交的でいなさい。それが、あなたの、この街での一番大切なお仕事ですから」
カラミーテは、微笑んだ。
その微笑みの奥に、ピナーレは、初めて、この副隊長が夫を失った日の顔を、微かに見た気がした。
***
二日目、深夜。
メビックの本陣で、老獪な将軍は、地図の上に肘をつき、深い、深いため息を漏らしていた。
「……あの女は」
彼の口から、掠れた声が漏れた。
「あの女は、この街を丸ごと武器にしている」
「はっ……我らの想定していた籠城戦とは、まるで別物でございます」
「――違うのだよ、諸君」
メビックは、ゆっくりと首を振った。
「これは、籠城戦ではない。あの女は、城に籠ってすらいない」
「――は?」
「あの女は、外周で我らを削り、市街では、路地と槍衾で分断した。……そして、南路の救護所の前では、我らの兵の武器だけを折って、殺さずに退けた、と」
「――さ、左様でございます」
「殺さずに、退けた」
メビックは、目を閉じた。
「――なぜ、だと思うか」
「はっ……そ、それは……」
「あの女は、我らの兵の命を、これ以上、奪いたくないのだ」
側近の将校は、息を呑んだ。
「あの女の街には、既に、我らの兵の死体が、外周と市街地に、五百近く、伏している。そして、あの女の街の中でも、若過ぎる平民の男が一人、死んだと聞く」
「……」
「あの女は、その一つ一つを、数えている。両方を、数えている」
「――閣下」
メビックは、目を開けた。
「明朝、白旗の用意を」
「――……!?」
「明朝、私、自ら城門前に立つ」
「閣下! まさか撤退をお考えで!」
「交渉次第だ。……いや」
メビックは、白旗用の布を見つめた。
「おそらく、そうなるであろうな」
「しかし、我らは、まだ五千のうち四千を残しており――」
「――これ以上は、無駄に犠牲を増やすだけであろう」
メビックは、静かにしかし冷たく問い返した。
「四千の兵で、あの女の敷いた盤面を、正面から力で押し潰したいのかね」
「――い、いえ……」
「明朝、叶わぬであろうが、再度降伏を促す。……あの女の、あの街の、その義に対して、私は、私の兵の命をこれ以上無為に散らせぬ」
メビックは白布を手に取った。
「敵であろうと、義を持つ者には、こちらも礼を尽くさねばならぬ」
白い布が、彼の手の中で静かに揺れた。
側近たちは、深く頭を下げた。
メビックは、地図の上、フラットペインの街の駒に、そっと指を置いた。
「――タケコ殿、と、申したか。……老いた戦士が、明朝、あなたに一つだけ問うてみたい」




