第參拾貮話「盗賊と猫」
メビック本軍の先陣が、外周罠地帯を三分の一ほど押し進んだところで、日が傾き始めた。
罠の炸裂と狙撃で、既に三百に近い損害が、彼らの背後に伏している。だが、メビックは退かず、前へ、前へと、部隊を押し込み続けた。
その中で――以蔵は、後方の丘の上に、一人、立っていた。
左肩の傷は、まだ完全には塞がっていない。布を巻いた上から、黒い合羽を羽織り、無銘の打刀は腰に差したまま、抜こうとはしなかった。
「――ふぅん」
彼は、遠く、フラットペインの街を見下ろした。
街道の魔導罠、市街地の枡形、城壁の狙撃。それらの全てが、彼の目には、一枚の絵として繋がって見えていた。
「街を、一振りの薙刀にしちょる」
傍らで、勤王党の若い兵士が、震える声で問うた。
「以蔵殿。……我らも、前へ出ますか」
「出ん」
「え」
「わしゃ、今日は、見ちょる」
以蔵は、口の端を歪めて嗤った。
「メビックの伯爵さん、まだ、あの女の間合いを測っちょらん。あの外周は、罠地帯じゃない。あれは、竹子の一の太刀ぜよ。あれを浴びた後で、伯爵さんが、二の太刀を捌けるかどうか。……わしゃ、それを見に来た」
「見に……」
「ああ」
以蔵は、丘の上に腰を下ろし、傷ついた肩を庇いながら、街を見つめ続けた。
彼の中で、竹子は「今すぐ殺すべき相手」ではなくなっていた。
いや――正確に言えば、殺したい。斬りたい。あの女を、あの理合いで捌く女を、いつか自分の刀で、真っ二つに割ってみたい。
だが、それは今日ではない。
今日は、あの女が、この街全体を、どう振るうかを、見届ける日である。
「――生きちょれや、会津の女」
以蔵は、遠くの城壁を見つめた。
「わしが見届けるまで、な」
***
日没。
メビック本軍は、外周の三分の一を越えたところで、野営に入った。損害、三百二十。うち死者、およそ百四十。
街の指揮所では、カラミーテが駒盤の外周の帝国駒を、大きく脇に払っていた。
「――初日、まずまずですわ。想定より、二割ほど早く削れております」
「メリッタの罠、残数は」
「およそ半分、まだ残っております。二日目の朝、彼らが夜の間に迂回路を探ってきた時のために、夜間分の再敷設も、既に指示済みで」
「――ラピエラを」
「はい、既に、動いております」
夜陰。
ラピエラは、屋根の上を音もなく駆け、街の外壁を越え、帝国軍の野営地の外縁まで、ただ一人、忍び寄っていた。
背中に、コーディアからそっと譲り受けた投げ短刀を数本。腰に、王都時代からの相棒である曲がり刃の匕首。
そして、頭巾の下には、メリッタから「絶対に失くすな」と念を押された小型光魔導具。
彼女の背後、三十歩ほど遅れて、コルニャがついてきていた。
「――にゃ」
「静かに、コルニャ」
「ラピエラ、あんた、足音、消えすぎにゃ。あたし、あんたの足音、追えないにゃ」
「そりゃ、スラム仕込みさ。子どもの頃から、殴られないように歩いてたら、こうなる」
「……ラピエラ」
「ん?」
「あたし、その話を聞くたびに、あんたの頭をナデナデしたくなるにゃ」
「やめてくれ」
「猫は癒しが仕事にゃ」
「あーし、犬派」
「それ、猫に言う台詞じゃないにゃ」
二人は、影の中を進んだ。
帝国軍の斥候が一人。また一人。
ラピエラが身を滑らせるたび、敵兵が音もなく地面へ沈む。
その横で、コルニャは風に鼻を向けた。
「――待つにゃ」
「何?」
「犬がいる」
「……犬?」
「斥候犬。北側に二匹」
ラピエラは、初めて足を止めた。
「どうする」
「回るにゃ」
「分かるのか?」
「猫は犬より静かに歩けるにゃ」
「それ、何の根拠だよ」
「猫だからにゃ」
「……はいはい」
二人は、焚き火の明かりを避け、大きく迂回した。
やがてコルニャが、鼻をひくつかせる。
「――北西、五十歩」
「何かある?」
「紙の匂い。羊皮紙に、油の匂い。あと……香水」
「香水?」
「兵隊じゃないにゃ。偉そうな奴がいるにゃ」
「なるほど」
ラピエラは笑った。
「さすが猫」
「もっと褒めるにゃ」
「あとでな」
影の中を、二人は滑るように進んだ。
一時間後。
帝国軍の作戦地図と、将校名簿を懐に忍ばせ、二人は城壁内へ戻った。
「――もらってきた」
ラピエラが、指揮所の卓上に地図を広げる。
カラミーテは扇子の陰からそれを眺め、静かに微笑んだ。
「ラピエラさん。街へ来られた時は、正直、皆さんが眉をしかめておりましたけれど……」
「けど?」
「今夜だけで、評価はずいぶん変わったことでしょうね」
「……あんたが、あーしを褒めるなんてな」
「褒めるべき働きをなされたからですわ」
カラミーテは、地図から目を上げた。
「生きるために身につけた技術は、大切になさいませ。過去がどうであれ、それは貴女の力ですもの」
「……」
「ただし――使い方だけは、お間違えにならぬよう」
ラピエラは、しばらく黙っていた。
やがて頭を掻き、
「ふーん……あんた、たまーに優しいよな」
「たまに、ではなくてよ」
その言葉に、ラピエラは小さく笑った。
「……まあ、そういうことにしとく」
指揮所の隅で、コルニャが既に、ラピエラの脱いだ外套を抱え込み丸くなり、寝息を立てていた。




