第廿玖話「開幕の鐘と老いた誇り」
第四章開幕です。
夜明け前。
東の街道に、地平を舐めるような低い震動が伝わってきた。
城壁の物見櫓に登ったビアンカが、長い耳をわずかに動かし、目を細めた。
「――来た」
彼女の手のひらほどしかない小型の望遠鏡ごしに、地平線の彼方、まだ薄闇に沈む平原の端に、無数の松明の帯が浮かび上がっている。
帝国本軍、五千。
総指揮官、メビック伯爵。
「予定通り、東の街道から」
隣に立ったオルペアが、静かに矢筒を撫でた。彼女の指は、既に一本の矢の羽根を、迷いなく撫でている。
「――あの中に、いるかしら」
「……父上を連れて行った部隊の徽章か」
「ええ」
「いる。あの本軍の後ろに、随伴して来ている。ピナーレの情報通り」
「そう」
オルペアの声に、感情の揺らぎはなかった。以前ならば、その名を耳にしただけで指先が震えていた娘が、今は矢羽根一つ乱さず、じっと東を見据えている。
その横顔に、ビアンカは何も言わず、ただ小さく頷いた。
物見櫓の鐘が、一度、鳴った。
――籠城戦、初日、開幕。
その頃、街の広場では、既に朝の炊き出しが始まっていた。
湯気の立つ大鍋に、麦の粥と、根菜の煮込み。老いた婦人たちが柄杓で椀に盛り、少年トレクを筆頭とする「後ろで支える」子どもたちが、木箱に椀を並べて三線の各持ち場に運んでいく。
トレクが箱を抱えて走り出そうとしたその時、広場の一角から、けたたましい馬の嘶きが響いた。
「――ぶるるるるっ!!」
「どうどう、どうどうっ! 落ち着けぃ、フラルディオン! わしを振り落とす気か!」
振り仰いだトレクが、目を丸くした。
白髪を後ろに一つに束ね、擦り切れた赤い外套を纏った老人が、老いた鹿毛の背にしがみつくようにして跨っている。手には、穂先が僅かに錆びた騎兵槍。腰には、鞘の飾りが半分剥がれ落ちた古い直剣。
その後ろに、同じような装束の老人が四人。
いずれも、六十をとうに越え、七十に届こうかという顔ぶれである。
「クラベス殿ォッ! だから馬に乗るのはやめておけと申し上げたのですぞォッ!」
声を張り上げているのは、白い顎髭を胸まで垂らした痩身の老人アサラト。腰に古い長弓を提げている。
「なんの、なんの! わしゃまだ、これしきの駻馬、乗り熟せる!」
「その馬はもう三十歳を過ぎておりますぞォッ! 駻馬どころか、既に足を三本棺桶に突っ込んでおりますッ!」
「ええぃ、うるさい! わしを誰と思うておる! 旧フラットペイン騎士団第三小隊、槍騎兵長、クラベスであるぞ!」
クラベスと呼ばれた白髪の老人が、槍を高々と掲げた。
――が、その瞬間、鹿毛の老馬が、ぶるっ、と震え、クラベスは槍ごと鞍の上でぐらりと傾いた。
「ぬわああああッ!」
「クラベス殿ォォォッ!!」
慌てて駆け寄ったのは、ずんぐりとした、丸太のような胴の老人。ジャンベである。両腕を伸ばし、危うくクラベスを鞍上に押し戻す。
「わ、わしがおるうちは落ちさせませぬぞ、隊長殿!」
「おおう、済まぬ、ジャンベ! 貴様は昔から、腕っぷしだけは頼もしいのう!」
「腕っぷしだけではありませんぞ! 朝は山野で足を鍛え、夜は岡場所で腰を鍛え──」
そこへ、細身の禿頭の老人が、腰の水筒から一口呑みながら、のんびりと歩み寄ってきた。ダフ、と呼ばれているらしい。
「まあまあまあ。皆さん、些か朝から声が大きいですな。街の衆に迷惑ですぞ」
「ダフ殿は少し、朝から酒臭いですぞォッ!」
「これは薬湯です。断じて酒ではございませぬ」
「では、なぜ顔が赤いのですかァッ!」
「朝焼けの反射です」
「朝日はまだ昇っておりませんぞォッ!」
その傍らで、一番若い小柄な老人、ルーテが竪琴のような形をした、しかしその実、隠し武器仕込みの奇妙な楽器を背負ってため息をついていた。
「……皆様、そろそろ本題に入りませぬか」
「おお、そうであった!」
クラベスが再び槍を掲げ、広場に集まっていた街の民に向かって、朗々と声を張り上げた。
「聴けィ! 街の衆! 我ら旧フラットペイン騎士団、第三小隊、五名! 本日只今より、現役復帰! 城門より打って出て、帝国の先陣を蹴散らして参るゥッ!!」
――しん、と、広場が静まった。
誰も、何と反応してよいのか、分からなかったのである。
やがて、恐る恐る、パンの籠を抱えた少年トレックが、口を開いた。
「あ、あの……おじいちゃん」
「なんじゃ、少年!」
「……門、開けたら、ダメですよ」
「なんじゃとォ!?」
「タケコ様が、絶対に開けるなって、昨日、皆に……」
「タケコ殿がァ!? 我らを門内に留め置くと申されるかァッ!? 断じて、断じて、承服できませぬぞォッ!!」
クラベスの怒声に、鹿毛の老馬がまた、ぶるっ、と震えた。
「ぬぉわっ、待て、待たぬかフラルディオン!」
「ですから馬から降りて話をなさいませとォッ!」
「そもそも、クラベス殿。馬に跨る前に、あの城門を、その馬でお通りになれますか」
「……ぬっ?」
街道側の城門は、枡形改造で、既に馬車が通れぬほど狭められている。徒歩でしか通れぬ、S字の隘路と化しているのだ。
「……む、無論、通れる」
「なに、通れぬ時はわしがフラルディオンを担いで参りましょう」
「おお! ジャンベ! 貴様は昔から、腕っぷしだけは頼もしいのう!」
「腕っぷしだけではありませんぞ! 朝は山野で足を鍛え、夜は──」
「子供の前でそのような話を大声で、街の衆に迷惑ですぞ」
「ダフ殿こそ、朝から酒臭いですぞォッ!」
いよいよ本格的な戦いに突入です。
彼女たちの応援。
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