第廿伍話「イルミナの決意」
フラットペイン城館の一室。
薄暗い部屋の中で、チネルが差し出した小瓶から、独特の薬草の匂いが漂っていた。
「少し、沁みますよ」
チネルの小さな指先が、竹子の頬に刻まれた一筋の赤い線――以蔵の刃が残した傷跡に、緑色の軟膏を丁寧に塗り込む。ひんやりとした痛覚の麻痺が広がったところで、今度はフジが静かに手をかざした。
「いきます」
フジの手から発せられる青白い光が、チネルの薬草と反応して淡く輝く。
細胞を強制的に繋ぎ合わせるフジの荒療治も、チネルの麻酔薬が前もって沁み込んでいれば、激痛を伴うことはない。数分のうちに、竹子の頬にあった傷は、かすかな白線を残すのみとなった。
「……すまない。助かった」
竹子が短く礼を言うと、フジは眼鏡の位置を直し、まっすぐに竹子の目を見た。
「隊長。一人で抱え込まないでください。私たち医療班は……二人がかりで、あなたを絶対に死なせませんから」
「はいっ……! 絶対、死なせません!」
二人の強い言葉に、竹子はほんの少しだけ口元を緩め、「頼りにしている」と告げた。
安堵した二人が部屋を退室すると、室内には再び、重苦しい静寂が舞い戻った。
竹子は一人、卓上に置かれた『夜叉霧』を見つめていた。
頬の身体的な痛みは、確かに消えた。
だが、以蔵の言葉が、見えない刃となって、胸の奥底を抉り続けている。
『おんしも主君に呪われて、まだ彷徨う亡霊じゃろうが!』
『会津の忠義なんぞ、ただの呪いぜよッ!!』
無意識のうちに、自身の肩を強く抱きしめていた。
――あの男の言う通りではないのか。
自分は異世界に流れ着き、イルミナという新たな主君を得て、娘子隊という居場所を作った。だが、その根底にあるのは、「主君のために戦って死ぬ」という、会津で果たせなかった目的の、ただの、すり替えではないのか。
同胞たちが血の海に沈む中、自分だけがおめおめと生き残り。
別の世界で、「忠義」ごっこをしている。
自分は今もなお、燃え盛る鶴ヶ城から一歩も前に進めていない、亡霊のままなのだ――。
孤独な泥濘に足を取られそうになった、その時。
控えめなノックの音が、部屋の空気を震わせた。
「タケコ様。入ってもよろしいですか」
扉の向こうに立っていたのは、フラットペイン辺境伯、イルミナだった。
彼女は護衛も連れず、静かに部屋へ足を踏み入れると、竹子の顔に落ちる深い影を、真っ直ぐに見つめた。
「領主様、こんなむさ苦しい部屋に――」
竹子が慌てて立ち上がり、頭を下げようとした、その瞬間。
イルミナは竹子を制し、自ら冷たい床の上に、静かに片膝をついた。
「なっ……! 領主様、そのような!」
「どうか、そのまま聞いてください」
狼狽する竹子の前で、イルミナは懐から、上質な絹の布に包まれた小さな箱を取り出した。
その手が、微かに震えていた。
蓋を開けると、中には、長い年月を経て黒光りする「木片」が一つ、鎮座していた。何の変哲もない木切れに見える。だが、そこからは微かに、しかし脈打つような魔力の波動が感じられた。
「これは……」
イルミナは一度、静かに息を吸った。まるで、その先の言葉を口にする覚悟を、自らに問うように。
「初代フラットペイン辺境伯が、あの精霊樹の枝が最初に折れた時に切り出した、木片です」
イルミナは、祈るように両手でそれを包み込んだ。
「代々、当主のみが持つことを許された、この地と民を守護する誓いの証。……我が家の、魂とも呼べるものです」
「そのような重宝を、なぜ、私の前に……」
竹子の声が、掠れた。
辺境伯家の家宝。それを、他家の――しかも異郷から流れ着いた一介の家臣に見せるということが、どれほどの意味を持つか。武家に生まれた竹子には、痛いほど分かる。分かるからこそ、恐ろしかった。
イルミナは、痛ましいものを見るように、そっと目を伏せた。
その長い睫毛が、微かに震えている。
「タケコ様。……この決断に至るまで、私は幾晩も眠れませんでした」
絹の箱を包む指先に、ゆっくりと力が籠もった。
「家宰にも、まだ告げてはおりません。おそらく、家中の重臣たちは血相を変えて反対するでしょう。『他家の、しかも異界の武人に、フラットペインの魂を渡すなど言語道断』と」
その声は、しかし、震えてはいなかった。
「それでも、私は決めたのです」
イルミナは、ゆっくりと顔を上げた。その青い瞳の奥に、涙とは違う、静かで熱い光が灯っていた。
「戦場で貴女が傷を負ったと聞いた、あの夜のこと」
声が、僅かに揺れた。
「先の戦で散った兄上が――夢枕に、立ってくださったのです」
息が、詰まる。
「兄上は、何も仰いませんでした。ただ、この箱をご自身の胸に抱いて、静かに微笑んで……そして、私の背中を、そっと押してくださった」
イルミナの指が、絹布の上を優しく撫でた。まるで、そこに亡き兄の掌が、まだ残っているかのように。
「兄上ならば、フラットペインの魂を託すに値する武人を、自らの魂で見極められたはず。……兄上が背中を押してくださったのなら、それはもう、間違いのない答えなのだと」
竹子は、息を呑んだ。
この少女は、亡き兄の遺志を、まだ諦めていない。
いや――兄と共に、今も辺境伯家を守り続けているのだ。
「タケコ様。あなたがご自身の過去に苛まれ、何かの亡霊として戦っているのだとしても……私にとって、フラットペインにとって、あなたは絶望を切り裂いてくれた『光』です」
その言葉は、以蔵の刃よりも深く、竹子の胸の奥底に届いた。
「血の繋がりがなくとも、異郷の生まれであろうとも。今、この地で血を流し、皆の前に立ってくださっているあなたにこそ、これを持つ資格がある」
イルミナは、両手で捧げるように箱を差し出した。
「我が家の魂を、あなたに、託します」
差し出された、木片。
それは、亡霊としての死に場所を求める竹子に、この世界で「生きる意味」を突きつける、あまりにも重い碇だった。
「……領主様」
竹子は、その場から動けなかった。
武家の掟が、頭の中で警鐘を鳴らしている。他家の家宝を賜るなど、あってはならぬこと。ましてや、自分は――。
「私は」
竹子は、掠れた声でこぼした。
「私は今も、あの火の海に、同胞を置き去りにしたままです」
握りしめた膝の上の拳が、白くなる。
「主君に忠を尽くせず、共に死ぬことも許されず、ただ一人、別の世界へ流れ着いた身。この先も一生、その罪の意識から逃れることはできない。……きっと、死ぬまで、亡霊のままです」
そのような者が。
そのような者が、辺境伯家の魂を預かってよいはずが――。
「はい」
イルミナは、微笑んだ。
柔らかく、しかし、決して揺るがぬ微笑みだった。
「その痛みは、誰にも消せないものでしょう」
イルミナは、ゆっくりと首を横に振った。
「私は、あなたの呪いを解こうとは思いません。それは、あなたが同胞たちと共に築いた、何より大切な絆の証だから」
――絆の、証。
その一言が、竹子の胸を貫いた。
呪いだと思っていたものが。
忘れられぬ痛みだと思っていたものが。
この少女には絆に、見えている。
「ならば、その過去ごと、私たちが引き受けます」
イルミナの声は、静かで、しかし絶対の意志を秘めていた。
「亡霊のままでも、構いません。どうかこれからも、私たちの光でいてください」
竹子は、奥歯を強く噛み締めた。
呪いは、解けない。一生、背負って生きていくのだ。
だが、この重荷を抱えたまま、この少女を守るために薙刀を振るうこと。
それが、今の自分の、すべてだった。
いや。
それこそが。
鶴ヶ城で果たせなかった忠義に代わる、竹子がこの異世界で見出した、新たな「道」なのかもしれなかった。
「……謹んで」
竹子は、両手を床につき、深く深く、頭を垂れた。
「――お預かり、いたします」
震える手で、精霊樹の木片を受け取る。
その一瞬、木片から、微かに温かい何かが伝わってきた気がした。それは、初代辺境伯から代々受け継がれてきた祈り。そして、夢枕に立った、イルミナの兄の、無言の託宣。
(……確かに、承りました)
竹子は心の中で、見知らぬ先代たちへ、そして亡きイルミナの兄へ、静かに頭を下げた。
そして、傍らの『夜叉霧』を、両手で恭しく手に取った。
柄の中央、自身の手が最もよく触れる位置、そこへ、木片をそっと押し当てる。
瞬間。
木片が、淡い翠緑の光を放った。
固い黒檀の柄が、まるで水面のように波打ち、木片は音もなくその中へ吸い込まれていく。
直後、夜叉霧の柄の表面に、精霊樹の枝葉を模した美しい文様が、金の象嵌のように浮かび上がって定着した。
邪魔になる、出っ張りはない。
だが、掌を通して、かつてないほどの温かく澄んだ力が、柄から竹子の全身へと流れ込んでくるのが分かった。
誰かの、掌の温もりに似ていた。
それは、幼き日、竹子の頭を撫でてくれた母の掌。
それは、初陣の前夜、肩を叩いてくれた父の掌。
それは、最後の別れの朝、「生きて」と背を押してくれた、同胞たちの掌。
燃え落ちる鶴ヶ城で、二度と触れられぬはずだった、あの温もりが。
今、確かに、この柄の中に、在る。
「……あぁ」
竹子の目から、一筋の涙が零れ落ちた。
それは、以蔵に頬を斬られても、頬の血が乾いても、決して流れなかった涙だった。
竹子は、柄に浮かび上がった文様を、指先で静かになぞった。
温かい。
亡霊としての重荷は、消えない。
これからも、消えることはないだろう。
だが、その一歩を踏み出すための、力強い大地が。
その一歩を、独りで踏み出さずに済む、温かな掌が。
今、確かに、彼女の足元と、その手の中に、在った。
「タケコ様」
イルミナが、静かに立ち上がった。
その頬にも、いつの間にか、一筋の涙が伝っていた。
「……ありがとう、ございます」
辺境伯が、家臣に頭を下げる。
それは本来、決してあってはならぬこと。
だが、この一室で交わされた契りは、身分も、生国も、生死の境界すらも越えた場所にあった。
竹子もまた、深く、頭を垂れた。
窓の外では、日が傾き始めていた。
朱に染まる光が、柄に浮かぶ翠緑の文様を、そっと照らし出していた。




