第廿肆話「初太刀、引き分け」
東の森を覆っていた濃霧が、朝の風に流されて少しずつ薄れ始めていた。
先遣隊三百の壊滅。
悲鳴と怒号が遠ざかり、森には不気味なほどの静寂が戻りつつあった。
竹子は夜叉霧の切先を下げ、乱れた息を整えながらも、周囲の警戒を解かずにいた。ディローザやカノンたちも、竹子の指示通り深追いを止め、撤退の準備に入っている。
完璧な奇襲だった。
――だが。
竹子の肌が、チリチリと焼け焦げるような警鐘を鳴らしていた。
来る。
白く煙る木立の奥。
敗走する帝国兵の波を逆行するように、ただ一人、こちらへ向かって一直線に歩いてくる影があった。
鎧も着けず、漆黒の合羽を纏った痩せぎすの男。
その男がすり抜けた後には、帝国兵ですら異様な気配に呑まれ、道を譲るようにその場へ崩れ落ちていく。味方であるはずの兵が、だ。
「退けッ! ディローザ、カノン、下がれェッ!!」
竹子がかつてないほどの鋭い声で叫んだ。
だが――遅い。
「ひさしぶりじゃき――この匂い! 会津藩士の、血の匂いぜよ!」
男の姿が、ふっと霧に溶けた。
次の瞬間、竹子の目の前に、飢えた狼のような双眸が迫っていた。
チィィィィンッ!!
竹子が咄嗟に跳ね上げた夜叉霧の柄に、無銘の打刀が激突した。
凄まじい衝撃。手首の骨が、軋みを上げる。
これは、まともな打ち合いではない。
殺すこと――ただそれだけを目的に研ぎ澄まされた、極限の暗殺剣。
(速いッ……!)
竹子は舌打ちし、柄を滑らせて刃をいなす。
男――岡田以蔵は、弾かれた反動すら利用して、地を這うような低い姿勢から二の太刀を放ってきた。
一合。三合。五合。
常人には視認すらできぬ速度で、刃と刃が火花を散らす。
息が浅くなる。視界の端が、白く霞み始める。
だが、竹子は瞬き一つしなかった。
以蔵は狂ったように嗤いながら、刀を振るう。
幕末の京都を血に染めた、人斬りの剣。
対する竹子は、会津で叩き込まれた実戦薙刀の型――そのすべての応用でそれを捌いていた。
七合。十合。
互いの息遣いが触れ合うほどの距離で、以蔵が必殺の突きを放とうと、右肩をわずかに引いた。
その瞬間。
竹子は――後退しなかった。
逆に、半歩踏み込んだ。
(力を、通すな。逸らせ)
師の声が、頭の奥で鳴る。
切先を螺旋に旋回させ、以蔵の刀を絡めとるようにして軌道を逸らす。
力ではなく、理合いで相手の力を無効化する――極めて特異な防御の型。
ピタリ、と。
以蔵の動きが、一瞬だけ止まった。
「……なんじゃ、その理合いは」
狂気に染まっていた以蔵の目が、驚愕に見開かれた。
相手の力を、正面から受けずに殺す。
それは、以蔵がかつて京の路地で一度だけ相見え、そして生涯でただ一人、背筋を凍らせた剣客の型に――酷似していた。
なぜ。
なぜ、遠く離れた会津の女が、それに似た太刀筋を使うのか。
動揺が、以蔵の足筋にほんのわずかな「居着き」を生んだ。
真剣勝負において、その一瞬は――致命的な隙となる。
「シッ!」
竹子は無言のまま、夜叉霧を翻した。
銀閃が奔る。
「ぐっ……!」
以蔵が身を捩るが、避けきれない。刃が以蔵の左肩を骨まで届くほど深く切り裂き、鮮血が霧の中に散った。
勝負あった。
誰もがそう思った、その瞬間。
以蔵の顔に――悍ましい哄笑が浮かんだ。
骨まで断たれたはずのその肩を、まるで他人の身体であるかのように無視して。
「おんしも、主君に呪われて、まだ彷徨う亡霊じゃろうが!」
肩から血を流しながら、以蔵は身を沈め、下段から逆袈裟に刀を振り上げた。
「会津の忠義なんぞ、ただの呪いぜよッ!!」
――呪い。
その言葉が、竹子の鼓膜を貫いた。
脳裏に蘇るのは、燃え落ちる鶴ヶ城。
自刃していく仲間たち、その骸の間を這うようにして生き延びた自分。
そして、死ぬことすら許されず、「生きて、会津の名を繋げ」と命じられた、あの重い掟。
――自分は今も、あの過去に縛られている亡霊なのか。
竹子の心が、致命的に揺らいだ。
太刀筋が、指一本分だけ鈍る。
ザシュッ。
以蔵の刃が、竹子の白皙の頬を切り裂いた。
一筋の赤い血が、白い肌を伝って顎へと落ちる。
「隊長ォッ!!」
後方からディローザが叫び、大剣を構えて飛び出そうとした。
だが、二人の死闘は――予期せぬ形で中断されることになった。
「以蔵殿ッ!!」
霧の奥から、黒い軍服を着た帝国側の『勤王党』の兵士が駆け込んできた。息も絶え絶えに、以蔵に向かって叫ぶ。
「駄目です! 我が部隊が、敵の斥候部隊の執拗な罠と足止めに遭い、これ以上の前進が不可能です! 一時撤退を!」
そして――追い打ちをかけるように。
竹子の頭上の樹上へ、一羽の鳥が舞い降り、小さな筒を落とした。
受け取ったコーディアが、声を張り上げる。
「隊長! カラミーテさんからです! 『城壁東側に敵の別動隊が肉薄。突破口が開く恐れあり。副隊長の権限において、本隊の即時撤収を要請する』――とのことです!」
双方にとって、これ以上の局地戦は、全体を崩す死手となる。
以蔵は肩の傷から血を流しながら、チッ、と舌打ちをした。
そして、刀についた血糊を払うと、口の端を歪めて嗤った。
「――生きちょれや、会津の女。次までにな」
竹子は、答えない。
言葉で応じれば、この人斬りの土俵に足を踏み入れることになる。それを、彼女の武人としての本能が拒んでいた。
ただ無言で夜叉霧を中段に構え直し、霧の奥へと後退していく以蔵の背中を――静かに、見据えていた。
その痩せた背が、白い霧に完全に呑まれるまで。
竹子は、切先を一度も、下げなかった。
「隊長……お怪我を……」
カノンが青ざめた顔で駆け寄ってくる。
「かすり傷だ。気にするな」
竹子は頬の血を無造作に手の甲で拭い、夜叉霧に鞘を被せた。
だが――以蔵の残した「呪い」という言葉は、見えない棘となって、竹子の胸の奥底に深く突き刺さったままだった。
肉の傷より、深いところに。
「全軍、撤収。フラットペインへ帰還する」
朝の光が霧を完全に晴らした時、そこには無数の傷跡が刻まれた戦場だけが残されていた。
竹子の頬を伝った血の一筋は――まだ、乾いていなかった。




