第廿參話「霞掛け」
白一色の世界だった。
東の森に陣を敷いた帝国先遣隊の兵士たちは、伸ばした自らの手の先すら見えぬ濃霧の中で、得体の知れぬ恐怖に震えていた。
日の出と共に湧き上がった霧は、尋常な濃さではない。隣に立つ戦友の顔さえ白い靄に霞み、声だけが不気味に反響する。
「おい、伝令はまだ戻らんのか!」
「西の陣と連絡が取れません!」
「誰か本陣へ向かわせろ!」
指揮官の怒号が響く。だが、走り出した兵士の足音は、森の奥へ吸い込まれた数秒後――奇妙な短い叫びと共に、ふつりと途絶えた。
何が起きているのか、誰にも分からない。
ただ一つ確かなことがある。
この白い闇の中に、「何か」がいる。
「ひっ……!」
不意に、若い兵士が悲鳴を上げた。
風が吹き抜け、霧が僅かに晴れた一瞬。
木の枝の上に、弓を構えたエルフの女がしゃがみ込んでいるのが見えた。
ビアンカ。
その冷たい緑の瞳が、指揮官の眉間を正確に射抜いている。
ヒュンッ――!
風を裂く音。次いで、指揮官の頭部が弾け飛んだ。
それが、号砲だった。
霧の奥から矢が矢継ぎ早に飛び出し、次々と兵の喉、額、心臓を貫いていく。
「敵襲ゥッ!!」
悲鳴が上がったのと同時――
部隊の足元で、メリッタが仕込んだ魔導地雷が一斉に起動した。
ドォォォォンッ!!
強烈な爆発音が森を揺らし、土塊と兵士たちの身体が宙を舞う。
混乱が極みに達した陣形へ、風に乗って奇妙な色の煙がゆらりと流れ込んできた。
チネルの毒煙幕だ。
煙を吸い込んだ兵士たちが、次々と喉を掻き毟って地面に倒れ伏す。手足が痺れ、立ち上がることすら叶わない。
「退けッ! 風上へ走れッ!!」
副官が叫び、数名の兵士が獣道へ雪崩れ込もうとする。
だが。
「は、はっくしょんッ!」
「あ、痛ぇッ! なんだこの石ッ!」
「も、漏れる……ッ!」
獣道へ足を踏み入れた途端、兵士たちが奇妙な動きで次々と転倒した。
ある者は止まらぬくしゃみに呼吸を奪われ、
ある者は見えぬ何かに足の小指を激しくぶつけて蹲り、
ある者は突如襲いかかる猛烈な尿意に股間を押さえてその場にうずくまる。
サーリーの呪い。
平時であれば「嫌がらせ」程度の効果しか持たぬ、下位も下位の呪い。
だが――生死を分ける戦場において、数秒足が止まることは、絶対の死を意味する。
「もらったぁッ!!」
もがき苦しむ敵兵の横腹へ、ディローザの大剣が唸りを上げて叩き込まれた。
熊の獣人の膂力によって薙ぎ払われた兵士たちが、枯れ葉のように吹き飛んでいく。
血飛沫が霧に混じり、白い世界が、じわりと赤く染まっていった。
***
「はぁッ、はぁッ……!」
カノンは、乱戦の中で新しい刀を振るっていた。
視界が悪い。敵がどこから来るか分からない。
だが、彼女の足運びには、もはや迷いがなかった。
(腕で振らない――足で踏み、腰で回す)
竹子の言葉を、呼吸のように反芻する。
闇雲に振るわれた敵の槍を、新しい刀の鎬で滑らせるようにいなし、そのまま踏み込んで懐へ入り、斬り抜ける。
――手応え。
自分でも驚くほど、自然な太刀筋だった。
「……よし……!」
息を吐く。だが安堵する間もなく、倒れた敵の奥から、怯えきった別の敵兵が背を向けて逃げ出すのが見えた。
反射的に、足が前へ出そうになる。
(追わなきゃ――)
昨日、右腕を失った瞬間の記憶が脳裏をよぎった。
あの時も、逃げる敵を追った。追って――失った。
一瞬の躊躇。
その隙を突き、霧の中から別の敵兵が槍を構え、カノンの死角から突きかかってきた。
「あっ――」
反応が遅れる。避けられない。
死を覚悟した、その瞬間。
「にゃっ!」
頭上から降ってきた双剣が、槍の柄を鮮やかに弾き飛ばした。
コルニャだ。
体勢を崩した敵兵が、悪態をつきながら剣を抜こうとした――その時。
「ぶぇっくしょんッ!!」
敵兵が突然、顔を真っ赤にして盛大なくしゃみをした。
サーリーの呪いの範囲に、踏み込んでいたのだ。
完全に無防備となった敵の首筋へ、カノンは冷静に、腰の入った一太刀を振り抜いた。
鮮血が舞い、敵が音もなく崩れ落ちる。
「危なかったにゃ」
着地したコルニャが、猫のように目を細めた。
「助かりました……!」
「あたしじゃないにゃ。サーリーの呪いがなきゃ、相打ちだったかもにゃ」
カノンは刀を構え直し、深く息を吐いた。
――自分は、一人で戦っているのではない。
その事実が、刀を握る手にはっきりと伝わってきた。
孤立すれば、死ぬ。
だが、はみ出し者たちが互いの背中を補い合えば――これほどまでに、強い。
***
戦況は、娘子隊の圧倒的優位に進んでいた。
だが、無傷というわけには、いかなかった。
「……ぐっ!」
西の高台で予備の目を担っていたオルペアが、肩を押さえて木陰に倒れ込んでいた。
彼女の足元には、息絶えた帝国兵が転がっている。
仕留め損なったわけではない。
霧が晴れた一瞬、眼下を逃走する敵兵の顔が見えた。
――赤い縁取りの襟章。金糸の三本線。
かつての遭遇戦で、案内役だった父を無理やり連行し、見殺しにしたあの部隊の、軍服。
視界の端が、赤く染まった。
弓を引き絞る指先が、震えた。
その、ほんの一瞬の遅れ。
敵の投げナイフが、彼女の肩口へ深く突き刺さっていた。
南に設営された、搬送拠点。
運び込まれたオルペアの傷口を見て、フジは血に塗れた手で眼鏡を押し上げた。レンズにも赤い指紋が、ひとつ残った。
「……鎖骨の下、動脈ギリギリですね。ナイフを抜けば、大出血します」
「……治せる?」
付き添ってきたペルトが、不安げに尋ねる。
「普通の神聖魔法で塞ぐなら、ナイフを抜いた後、光でゆっくり組織を再生させます。ただし――血が足りなくなって、戦線復帰まで最低でも一ヶ月は寝込みますね」
フジは、淡々と告げた。
「で、私のやり方なら、今すぐ動脈と筋肉を強制的に繋ぎ合わせます。明日から、弓も引けます」
「……なら、そっちで頼む」
脂汗を流しながら、オルペアが掠れた声で言った。
「ただし、ご存知かと思いますが……」
フジの目が、暗い光を帯びる。眼鏡の奥で、瞳孔がわずかに開いていた。
「死ぬほど痛いですよ。ショック死する、かもしれないくらい」
「待って!」
横からチネルが駆け寄ってきた。その手には、濁った液体の入った小瓶が握られている。
「私の麻酔薬を飲んで! 父が研究していた、痛みを和らげる薬です。これなら、痛みを半分以下に抑えられるはず!」
オルペアは無言で小瓶を受け取り、一気に飲み干した。
「……やれ」
「いきますよ」
フジの手から、青白い燐光が立ち上る。
刺さっていたナイフを引き抜くと同時に、どくどくと溢れ出す血を無視して――その光を、傷口へ押し込んだ。
「ごっ、がぁぁぁぁぁぁッ!!」
麻酔が効いていてもなお、オルペアの体が弓なりに跳ねる。
強制的な細胞結合。肉が煮え、神経が繋がる、凄まじい激痛。
だが、チネルが必死に体を押さえつけ――数分後。
傷口は、完全に塞がっていた。
「……はぁ、はぁ……」
オルペアが荒い息を吐きながら、自身の肩に触れる。痛みは、ある。だが確実に、動く。
「すごい……本当に、塞がった……」
「チネルさんの薬のおかげですよ」
フジが息を吐き、額の血を拭った。
「私一人じゃ、患者が暴れて上手くいきませんから」
「い、いえ! 私はただ……」
治癒師と、薬師。
市井では反目さえする、決して交わることのなかった二つの技術が――この野戦病院で、完璧な医療体制を築き上げていた。
***
「そこまでだ! 深追いするなッ!!」
霧が晴れ始めた森に、竹子の凛とした声が響き渡った。
生き残った帝国兵たちは、もはや戦意を喪失し、武器を放り出して本陣の方角へ我先にと逃げ出していた。
その背を追おうとしたディローザやラピエラが、竹子の声でピタリと足を止める。
「勝てぬ戦いを追わすな。退路を確保し、陣形を整えろ!」
竹子は夜叉霧の血糊を懐紙で拭い、静かに鞘を被せた。
重傷者を出したとは言え――勝利と呼んでよい戦果だった。
敵先遣隊三百のうち、森の中に横たわる死体と、動けなくなった重傷者は、およそ二百。
対する娘子隊の損害は、重傷一名、軽傷数名。
戦死者は、ゼロ。
……だが、竹子の胸中に、素直な安堵はなかった。
この程度で、帝国が退くはずがない。
むしろ、これほど鮮やかに勝ちすぎたことが――何か、悪しきものを呼び寄せてしまう気がしてならなかった。
薙刀の柄を、竹子はそっと、握り直した。
***
同じ頃。
東の森から数里離れた平野に敷かれた、帝国軍本陣。
「……なんだと?」
総司令官・メビック伯爵は、手元に届けられた報告書に、己の目を疑った。
「先遣隊三百が……壊滅、だと? 敵の数は? 伏兵がいたのか!?」
「そ、それが……」
血まみれで逃げ帰ってきた伝令兵が、ガタガタと震えながら答える。
「霧でよく見えませんでしたが……敵は、せいぜい二十人足らず。しかも、女子供ばかりで……毒煙や、謎の呪い、地雷で陣形を崩され……あっという間に……」
「馬鹿なことを言うな!」
報告書を握る指先が、白くなるほど強張った。紙が、乾いた悲鳴を上げる。
「二十人の女に、我が精鋭が二百も殺されたというのか!?」
誰も、答えなかった。
天幕の外で、風が布地を鳴らす。
その音だけが、やけに大きく響いた。
――怒りではなかった。
メビックの背筋を伝ったのは、得体の知れぬ戦術に対する、明確な「戦慄」だった。
正攻法が通じない。これまでの軍事の常識が、まるで通用しない相手が、そこにいる。
「……くくっ」
静まり返った天幕の中で、低く、しゃがれた笑い声が響いた。
天幕の入り口に、寄りかかっていた男。
闇を纏うような真っ黒な合羽、無銘の打刀を腰に差した、痩せぎすの男――
岡田以蔵。
「二百が斬られたか。……面白うなってきたのう」
以蔵は自身の刀の柄を、まるで愛しい者の頬でも撫でるようにそっと擦り、狂気にも似た飢えた目を細めた。




