第廿貮話「はみ出し者たちの陣形」
開戦前夜。
フラットペイン城館の一室に設けられた作戦会議室では、卓上の地図を囲んで、娘子隊の面々が息を潜めていた。
窓の外には、急造された防塁と松明の列。街はすでに戦場へと姿を変えつつある。
「――東の森」
最初に口を開いたのはローズだった。
彼女は窓枠に止まった一羽のコウモリへ小さく頷き、地図を指さす。
「敵の先遣隊がいます。数は……三百くらい。明日の朝一番に動くつもりみたい」
「三百……」
誰かが息を呑んだ。
娘子隊は十七人。数だけなら――一人につき、十七人分。
「えっと、騎士や兵の方々にお手伝い頂くわけには?」
冒険者ギルド受付嬢のコーディアが手を挙げた。
「領兵は街の防衛に残って頂くことになっている」
「じゃそれなら、冒険者とかは? コーディアに頼んでもらえばいいんじゃない」
オルペアが矢羽の調整をしながらコーディアに問いかけた。
「ギルドは戦争に協力してはいけない事になっているの。それに……大半の冒険者は街を出たわ」
「ふぅ、十七倍は変わらずか」
沈黙が場を支配した。
だが、コルニャは尻尾を揺らしただけだった。
「少ない方が、ちょうどいいにゃ」
「何が『ちょうどいい』んですの?」
カラミーテが扇子の向こうから尋ねる。
「明日の朝、霧が出るにゃ」
コルニャは窓を開け、夜風に鼻先を向けた。
「水気が多すぎる。土も冷えてる。日の出と同時に、この辺りは真っ白になる。森の中なら、もっと深いにゃ」
カラミーテの目が細くなる。
「濃霧……なら、敵の目を潰せますわね」
彼女は地図へ身を乗り出した。
「ローズ。敵の陣は?」
「東の森の入口。ここです」
小さな指が地図上の一点を叩く。
「本隊との連絡は?」
「それなら――」
ラピエラが横から地図を引き寄せた。
「ここ」
赤い筆が三本の獣道を走る。
「本隊が通るなら平野を使う。でも、急ぎの伝令ならここしかないッス。道が狭くて馬は使えない。人が走るなら、絶対ここを通る」
「理由は?」
「一番、早いから」
即答だった。
カラミーテが笑う。
「いい仕事ですわ」
地図の上に、新たな印が加わった。
「では、ここを殺します」
「殺すって……」
チネルが小さく身を縮める。だが、カラミーテはすでに次の指示を出していた。
「チネル、何ができます?」
「は、はい!」
チネルは鞄から陶器の壺を取り出した。
「父の残した処方箋を元に、煙幕を作りました。目と喉を激しく刺激するものと、もう一つ……吸い込むと手足が痺れるものがあります」
「どれくらい持ちます?」
「半日ほど」
「十分ですわ」
カラミーテが壺を扇子で指し示す。
「伝令路に置けますか?」
「……できます」
「サーリー」
「……はい」
部屋の隅で小さくなっていたダークホビットが顔を上げた。
「お前は?」
サーリーはしばらく地図を見つめた。そして、おずおずと指を伸ばす。
「……ここ」
「ここ?」
「伝令が、必ず通るなら……ここに呪いを置く」
カラミーテが首を傾げる。
「どんな呪いですの?」
「……くしゃみ」
「ほう」
「あと……猛烈な尿意くらい」
一瞬、部屋が静まり返った。オルペアが吹き出しそうになり、慌てて口を押さえる。
だが、カラミーテは笑わなかった。
扇子を閉じ、地図の一点を指先でなぞる。
「くしゃみは呼吸を乱し、尿意は集中を根底から砕く。毒煙で足を止めた上に、この二つが襲えば――伝令など、まともに走れるはずがありませんもの」
彼女は顔を上げ、口元を綻ばせた。
「完璧ですわ」
「え?」
「戦場では、一秒の隙が命取り。あなたの呪いは、その一秒を作るための刃ですわ」
サーリーの目が、ほんの少しだけ輝いた。
「……役に、立つ?」
「立ちますとも」
カラミーテは断言した。
サーリーは嬉しそうに、こくりと頷いた。
その横で、メリッタが魔導式を地図へ書き込んでいく。
「なら、霧が出た瞬間に敵の側面へ魔導罠を展開する。ラピエラ、侵入路をあと二つ探して。コルニャ、風向きは?」
「朝は東から西にゃ」
「了解。なら煙幕はこっちへ流せる」
ディローザが腕を組んだ。
「敵がそこへ入ったら、あたしは?」
「あなたは中央ですわ」
カラミーテが即答する。
「霧の中から敵が出てきたところを、まとめて叩き潰してください」
「任せて!」
拳を握るディローザ。
「カノンもディローザと共に中央。オルペアは西の高台。煙幕が切れた時の予備の目ですわ。ペルトは後方で結界と治療の補助を。フジは負傷者の搬送地点を、森の南に設営してください。コーディアと残りの皆は予備隊。撤退路の確保が最優先です」
次々と指示が飛び交う。
――ここで、コーディアが手を挙げた。
「あの……一つだけ、いいですか」
おずおずとした声だった。だが、はっきりとしていた。
「この作戦、全部……霧と、風と、敵の動きが読み通りだという前提で組まれています。一つでも外れたら、私たちは三百の敵と正面から戦うことになります。それでも……行くんですか」
沈黙。
誰も答えなかった。答えられなかったのではない。皆、その問いの重さを知っていたからだ。
「外れたら、逃げるだけだ」
壁際から、竹子が短く言った。
「この作戦は賭けだ。だが賭けには、降りる道も用意してある。予備隊が確保する撤退路がそれだ。――勝てない戦いに命を賭けるな。賭けるのは、勝てると思った時だけだ」
コーディアは小さく頷いた。
完全に納得したわけではない。それでも、「降りる道」があるという一点が、彼女の背中を押した。
壁際で腕を組み、竹子は黙ってその光景を見つめていた。
誰一人として、同じ役割を持つ者はいない。だからこそ、足りないところを別の誰かが埋められる。
社会から「はみ出し者」として弾き出された者たち。誰にも必要とされなかった異端者たち。その歪な個性が、初めて一つの目的のために噛み合っていた。
まだ、完璧ではない。だが――歯車は確かに回り始めていた。
***
会議が終わり、隊員たちが休息へ散っていった頃。
竹子は一人、中庭に立っていた。 夜気を切り裂く音がする。
ヒュン。ヒュン。
真剣が空を薙ぐ音だった。メリッタが昨夜から不眠不休で叩き上げた、反りの浅い真新しい打刀である。
それを振っているのはカノンだった。
十六歳の少女は、汗で前髪を濡らしながら、何度も同じ太刀筋を繰り返していた。
「――そこまで」
竹子が声をかける。
カノンはびくりと肩を震わせ、刀を止めた。
「隊長……!」
「やりすぎだ」
「まだ、できます!」
「腕が震えている」
「……!」
カノンは右腕を見た。
一度は失った腕。フジの治療によって傷一つ残さず元へ戻った腕。それでも、あの時の感触だけは消えない。
血。激痛。自分の腕が地面へ落ちた瞬間。真剣の重みを感じるたびに、その恐怖が蘇る。
カノンは拳を握った。
「……怖いんです」
初めて、弱音を吐いた。
「明日、また失ったらと思うと」
竹子は何も言わなかった。
やがて、カノンの手から刀を取り上げる。
「腕だけで振るから怖いのだ」
「剣は腕で振るものではない。足で踏み、腰で回し、全身で運ぶ」
竹子が、ふっと構えを取った。流れるような、力みのない自然体。
「腕を失っても、身体が動けば斬れる。身体が動かなくても、心が折れなければ戦える」
カノンは黙って竹子を見つめた。
「だが、無茶をするな」
「……はい」
「生きて帰ることも、戦いのうちだ」
「はい!」
その声に、今度は迷いがなかった。
***
「――皆様、少しだけ、お時間をいただけますか」
出陣前。
広場に集まった隊員たちの間に、澄んだ鈴の音が響いた。
チリン。
振り返ると、ペルトが立っていた。
狐の耳。揺れる尾。そして、両手に握られた神楽鈴。
「私は、明日の戦いのために、皆様へ一つだけ贈りたいものがあります」
ペルトは静かに頭を下げた。
「私の信じる神々へ、皆様の武運を祈らせてください」
誰も笑わなかった。誰も、その祈りを疑わなかった。
ペルトが舞う。
チリン。シャン。
鈴の音が夜気に溶ける。狐の尾が月明かりを切り、舞の軌跡に淡い光が残った。
竹子は自分の手を握る。
「……身体が、軽い」
視界が澄んでいる。夜風の向きまで分かる。
(気のせいかもしれない。だが――それでいい。信じる者が救われるなら、それはもう術だ)
隣ではコルニャが目を細めていた。
「足音が小さくなってるにゃ」
「そういう舞です」
ペルトが微笑む。
「夜の神様は気まぐれです。でも今夜は――私たちの味方をしてくださると、約束してくださいました」
最後の鈴が鳴った。
チリン――。
静寂。
十七人が互いを見る。
孤児。異端者。復讐者。夢を追う者。居場所を失った者。そして、過去という名の傷を抱えた者。
それでも。今だけは、全員が同じ方向を見ていた。 竹子が夜叉霧を差し上げる。
月光を受けた刃が、青白く輝いた。
「娘子隊、出陣」
誰も叫ばない。誰も気勢を上げない。
ただ、一人ずつ。十七の影が、霧の待つ東の森へ向かって歩き始めた。
城門を抜ける時、暗がりに一つの人影が立っていた。
護衛もつけず、夜着の上に外套を羽織っただけの領主、イルミナだった。
彼女は何も言わなかった。大げさな激励は、闇夜に紛れる彼女たちには不要だと分かっていたからだ。イルミナはただ、すれ違う十七の背中に向かって、深く、長く頭を下げた。自分の代わりに死地へ向かう者たちへの、最大級の敬意だった。
竹子もまた、足を止めなかった。
ただ無言のまま、会釈とともに夜叉霧を掲げた。
夜気の中に、湿った土の匂いが混じり始めている。霧の気配だ。
――風は、こちらを向いている。
やがて十七の影は、夜の闇へと完全に溶けていった。




