第廿壹話「剣なき間合い」
残り、一日。
メビック伯爵の使者が去ってから、丸二日が経った。 フラットペイン城下町には、焦げつくような戦の気配が色濃く立ち込めていた。
急造された石塁が道を塞ぎ、視界を遮る防塁が街のあちこちに影を落としている。
しかし、どれほど死の足音が近づこうとも、民は日々の命を繋いでいかねばならない。市場には乏しいながらも泥付きの野菜や干し肉が並び、不穏な空気を少しでも掻き消すように、人々の生活の喧騒が響いていた。
その雑踏の中を、一人の男が歩いていた。
粗末な外套を羽織り、目深にフードを被った旅商人風の男――岡田以蔵である。
変装は、それなりに整っていた。安物の革靴、擦り切れた背嚢、日焼けした手甲。街道を渡り歩く行商の男に、確かに見えた。
だが、隠しきれぬものが二つあった。
一つは、外套の下にわずかに覗く、鮫皮の柄巻き。行商の男が佩くには、あまりにも実戦向きの刀であった。
もう一つは、歩き方。
右足を、常に半歩、前に置いている。いつでも抜き打ちに移れる、暗殺者の重心配分。それは、幕末の京の街を、闇に紛れて歩き回った男の、二度と抜けない習性だった。
帝国の陣から単身、偵察として潜入した彼は、迷路のように改築された街並みを冷たい目で値踏みしていた。
――防塁の切れ目、三箇所。
――弓兵を配置しやすい高所、五箇所。
――夜間、火を放てば街の四分の一が焼ける裏路地、二本。
以蔵は、視界に入る情報を淡々と頭の中の帳面に書き付けていく。しかし、その目には熱がなかった。街の防衛構造も、領民たちの不安げな顔も、以蔵にとっては路傍の石に等しい。
彼が本当に探しているのは、街の造りでも、住民の顔でもなかった。
同類の、匂い。
幕末を生き延び、この異界に流された者。自分と同じ「時代の亡霊」。それを、彼は、鼻を利かせて追ってきた。
彼の興味はただ一つ、この街の奥に潜む「同類」の首だけであった。
「大根を三本、それと葉物を。ああ、皆で食べるから少し多めにもらおうか」
麻の衣服を身に纏い、野菜の入った袋を抱える女。竹子である。彼女もまた、鍛錬の合間を縫って、娘子隊の面々に振る舞うための買い出しに出ていたのだ。
日常の風景に溶け込む彼女の姿は、どこにでもいる街の娘のようだった。
「はいよ、竹子様! この葉物、朝一で摘んだ新鮮なやつだよ!」
野菜売りの老婆が、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑った。
「毎日ありがとうねぇ。あんたたちが街の外で頑張ってくれてるお陰で、こうしてまだ商売ができてるんだから」
「……いえ。当然のことです」
「うちの孫もねぇ、『竹子様みたいな武人になる』って、木の棒振り回してるよ」
竹子は、少しだけ困ったように笑った。老婆の背後、店の陰では、四つか五つほどの男の子が、木の棒を薙刀のように構えて、真剣な顔で素振りをしていた。
ああ、この子たちのために。――この子たちの、明日の朝の顔のために、私は戦っているのだ。
竹子は袋を受け取り、代金を丁寧に手渡した。
以蔵は、歩みを止めず、竹子の背後へと近づいていく。
距離が十歩、五歩と縮まる。
その瞬間だった。竹子の背筋を、氷の刃で撫でられたような強烈な悪寒が駆け上がった。
柳橋で、鉛玉が飛んでくる直前に、幾度も感じた、あの感覚。死を数え切れぬほど間近で見た者だけが持つ、危険の第六感。武人としての本能が、竹子の全身に警鐘を鳴らしていた。
市場の喧騒が、急激に遠のいていく。周囲の話し声も、荷車の音も、まるで水底に沈んだようにくぐもって聞こえる。
ただ一つ、背後から迫る重くどす黒い「死の気配」だけが、異常なほどの解像度で竹子の全感覚を支配した。
竹子がゆっくりと振り返る。
行き交う人々の中で、外套の男だけが立ち止まっていた。
周囲を通り過ぎる領民たちは、その男を「見ていない」。いや、見えているはずなのに、無意識に視線を逸らして通り過ぎていく。まるで、そこに影が落ちているのに、その影の正体を認識したくないかのように。
フードの奥、暗がりの中で、濁った双眸が三日月の形に歪んでいた。
その目は、笑っていた。しかし、その笑いには、温もりが一片もなかった。
久しぶりに獲物を見つけた狩人の、乾いた愉悦だけが、そこにあった。
(……この男)
竹子の呼吸が止まった。
周囲の領民たちは、立ち止まった二人に気を留めることもなく、笑い合いながら通り過ぎていく。しかし、このわずか三歩の間合いの中だけは、むせ返るような血の匂いと、研ぎ澄まされた殺意が充満していた。
以蔵の右手が、外套の下に隠された打刀の柄にゆっくりと触れた。その目は、竹子ではなく、その首筋だけを見ていた。
竹子の全身の筋肉が硬直し、買い物袋を握る指が鬱血するほどに白くなる。
動けない。
いや――動いては、ならぬ。
ここで身を捩り、隠していた懐剣に手を伸ばせば、以蔵は間違いなく抜く。抜けば、竹子は死ぬ。夜叉霧を持たぬ今の私に、この男に勝てる算段はない。
だが、それはまだ、良い。問題は、その次だった。
この男が抜けば、飛沫が飛ぶ。血が舞う。
――先ほど、木の棒を振っていた、あの子の頭上に。
――「毎日ありがとうねぇ」と笑った、あの老婆の背に。
――今、隣で干し肉の値段を吟味している、名も知らぬ若い母親の腕の中の、赤ん坊の頬に。
日常を守るために戦っている自分が、日常を破壊するわけには、絶対にいかなかった。
竹子が張り裂けそうな緊張の中で目を射抜くように睨み返すと、以蔵は肩を揺らして声なき笑いを漏らした。
そして、柄にかけていた指を、スッと離す。
「――ふん。刀は抜かんき、今日は」
土佐訛りの低い呟きが、竹子の耳元にだけ届いた。
以蔵はそれきり興味を失ったように背を向け、再び雑踏の中へと歩き出し、漆黒の背中は人波に溶けるように消えた。
市場では、何事もなかったかのように値切り声が飛び交っている。
それでも竹子だけは、しばらく一歩も動けなかった。
***
詰め所へ帰還した竹子は、出迎えた娘子隊の隊員たちに、市場での出来事を一切語らなかった。
「少し、冷えるな」とだけ言い残し、自室へと籠もった。
無用の混乱を避けるためでもあり、何より、言葉にしてしまえばあの死の恐怖が現実として街を覆ってしまいそうだったからだ。
薄暗い部屋の中。
竹子は無言のまま、愛刀である薙刀「夜叉霧」の手入れをしていた。
布に油を染み込ませ、長い刀身を拭う。
一度、二度、三度。
油布は同じ場所を何度も往復した。夜叉霧は、とっくに磨き終えている。
それでも竹子の手は止まらなかった。
磨き上げられ、冷たい輝きを放つ夜叉霧の刃に、竹子自身の青ざめた顔が映り込んでいた。
ふと、竹子は口の中で、故郷の句を呟いた。
「――武士の 猛きこころに くらぶれば……」 いつもの通り、そこで言葉は止まった。
だが、今日は、いつもとは違う感覚があった。
――あの男も、同じ句を、詠めなかったのだろうか。
――あの男もまた、下の句を紡げぬまま、この地に流されてきた亡霊なのだろうか。
同族への奇妙な共感と、それを断ち切らねばならぬ武人としての覚悟が、竹子の中でせめぎ合った。
「…………近い」
誰に聞かせるでもないその呟きは、夜の静寂に吸い込まれ、重く冷たく部屋の床に沈んでいった。




