第貮話「辺境伯令嬢イルミナ」
木々の隙間を縫うようにして森を駆け抜けると、にわかに視界が開けた。
そこは切り立った崖に挟まれた街道だった。
竹子の目に飛び込んできたのは、凄惨な戦場であった。
古びてはいるが装飾の凝った馬車が横転し、その周囲で数人の兵たちが血を流して倒れている。まだ息のある三、四名の護衛が、円陣を組んで必死に馬車を守ろうとしていたが、それを取り囲む者たちの数は二十を下らない。
囲んでいる男たちは統一された軍装を着ておらず、粗末な革鎧に、手入れの行き届いていない大剣や斧を下げている。剥き出しの悪意を浮かべたその佇まいは、新政府軍のような正規兵ではなく、略奪を目的とした野盗の類であることを示していた。
「――おのれ、不届き者が」
竹子の胸に、ふつふつと怒りが湧き上がる。
その時、横転した馬車の陰から、一人の少女の姿が見えた。
金髪碧眼。異国の美しい衣は泥と煤に汚れ、酷く痛々しい。まだ十六に届くかという若さの少女は、恐怖に身体を震わせながらも、決して涙を流さず、毅然とした眼差しで敵を睨みつけていた。
「おい、そこまでだ小娘! 諦めて身柄を差し出せば、痛い思いはさせねえぜ!」
「くっ……我が家が、貴様らのような盗賊に屈することはありません!」
少女の声は震えていたが、芯の通った強さがあった。
だが、野盗たちの先頭に立つ薄汚れた男が、下卑た笑みを浮かべて片手を掲げた。
「なら、護衛ごと灰になりな!」
男が不可解な言葉を叫んだ瞬間、何もない手の平の先に、突如として赤黒い炎の塊が出現した。それは見る見るうちに膨れ上がり、周囲の空気を歪ませるほどの熱波を撒き散らす。
――な、んだ、あれは。大筒でもなく、火の玉が虚空から現れただと? 妖術の類か!
竹子は驚愕した。だが、驚きに足を止める時間はなかった。その火の玉が、護衛ごと少女を目がけて放たれようとした、まさにその瞬間。
「――弱きを助けよ、と父上は仰った!」
考えるより先に、竹子の身体は地を蹴っていた。
弾雨の降る死地を突き進んだあの脚力が、見知らぬ異世界の大地を爆発的に捉える。
「あぁ!? なんだてめえ――」
男が気づいた時には、すでに竹子は間合いの内側に踏み込んでいた。
放たれた火球が、ごうごうと音を立てて竹子に迫る。
竹子は退かず、ただ己の「気迫」を刃へ込めた。極限まで練り上げられた闘気が、目に見える波紋となって夜叉霧の刃を包み込む。
「おおおおおッ!!」
――一閃。
気迫を乗せた薙刀の軌跡が、迫り来る火球を真っ向から両断した。
爆発は起きなかった。劈くような硬質な金属音と共に、赤黒い炎はまるでガラス細工のように粉々に砕け散り、光の粒子となって霧散していく。
「な、に……!? ま、魔法を、剣で斬り裂いただと……!?」
野盗の男が、絶望的な悲鳴を上げた。
馬車を守っていた護衛たちもまた、信じられないものを見たというように目を見開いている。
「呪文の詠唱もなしに……魔力障壁すら張らずに、炎を斬った……?」
「あり得ない……あんな芸当、高位の魔法騎士でも不可能だぞ……!」
彼らが口走る『魔法』という言葉の意味を、竹子は理解していなかった。だが、目前の敵が激しく動揺しているという事実だけで十分だった。
竹子は着地と同時に、夜叉霧の柄を滑らせて間合いを伸ばした。
返す刃で、呆然とする男の胸元を深く薙ぐ。鮮血が街道の土を汚した。
「怯むな! 相手は女一人だ、囲んで圧し殺せ!」
我に返った野盗たちが、一斉に竹子へ襲いかかる。
しかし、統率の取れていない烏合の衆など、戦火の会津を生き抜いた竹子の敵ではなかった。
薙刀の絶対的な間合い。突いては引き、薙いでは返すその無駄のない演武のような立ち回りに、野盗たちは近づくことすらできない。瞬く間に三人が地に伏すと、残った者たちの戦意は完全に瓦解した。
「ひ、化け物め……! 引け! 退却だ!」
野盗たちは、命からがら森の奥へと逃げ散っていった。
静寂が戻った街道に、竹子の静かな呼吸だけが響く。
夜叉霧の血を鋭く払い、鞘に納めると、竹子はゆっくりと馬車の方を振り返った。
「ひっ……!」
生き残った護衛たちが、顔を引き攣らせて武器を構え直した。彼らは竹子へ刃を向けたまま、少女を庇うように立ち塞がる。
見慣れぬ異国の装束、そして常識外れの力で魔法を打ち砕いた謎の戦士。野盗よりもよほど恐ろしい怪異に見えたのだろう。無理もないと、竹子も足を止めた。
「やめなさい。剣を収めるのです」
緊迫した空気を破ったのは、護衛の背後にいた少女の凛とした声だった。
少女は護衛の制止を振り切り、泥に汚れたドレスの裾を翻して前に進み出た。警戒を解いていない護衛たちの前を通り過ぎ、竹子の数歩手前で立ち止まる。
間近で見る少女の瞳には、恐怖ではなく、確かな理性が宿っていた。
「助太刀、感謝いたします。私はイルミナ・ティル・フラットペイン。見知らぬ異国の戦士よ、あなたのお名前を伺っても?」
毅然とした態度。自らの名を名乗り、相手に礼を尽くすその姿に、竹子は武家の娘としての矜持を見た。
竹子はその場に片膝をつき、薙刀を傍らに置いて深く頭を下げた。
「私は会津藩士、中野竹子と申します。通りすがりの者ですが、義を見てせざるは勇無きこと。お怪我がなくて何よりです」
「アイヅ……ナカノタケコ、様? 聞き慣れぬ響きですが、美しいお名前ですね」
イルミナは不思議そうに小首を傾げた後、周囲の惨状と、傷ついた護衛たちを見渡した。
馬車は横転しているが、車輪は無事であり、馬もなんとか二頭が生き残っている。
イルミナは竹子に一礼すると、その場に倒れ伏している負傷した兵のそばに膝をついた。
「姫様……いけません、お下がりを……」
「喋らないで。ひどい出血……誰か、止血の布を!」
イルミナは躊躇うことなく、自らのドレスの裾を力任せに引き裂いた。美しい絹の布を重ね、兵の流血する傷口に押し当てて固く縛る。泥と血で白い手が汚れることなど、微塵も気にしていない様子だった。
必死に家臣の命を繋ぎ止めようとするその姿。自らの身なりや立場よりも、部下の命を重んじる気高き振る舞い。
竹子はその光景に、小さく息を呑んだ。
身分に驕ることなく、下の者を慈しむ。それはまさに、竹子が幼き頃より教え込まれた理想の主の姿であり、敬愛する主君・松平容保にも通じる慈愛であった。
応急手当を終え、息をついた少女は、血に濡れた手のまま立ち上がり、真っ直ぐに竹子の方へと向き直った。間近で見る少女の瞳には、恐怖ではなく、確かな理性が宿っていた。
「ナカノタケコ様。ご覧の通り、我が方は護衛の多くを失い、この先を進むにはあまりにも無防備です。もしあなたに行く当てがないのであれば、どうか私どもの馬車に同乗していただけないでしょうか」
それは懇願であると同時に、恩人への最大限の誠意を込めた誘いであった。
竹子は顔を上げ、じっとイルミナの瞳を見つめ返した。ここがどこなのか、己の身に何が起きたのかは皆目見当がつかない。だが、今は目の前の命を安全な場所へ送り届けることが先決だろう。
「……承知いたしました。微力ながら、道中の護衛を引き受けましょう」
竹子は立ち上がり、横転した馬車を起こすべく歩み寄った。
見知らぬ世界、見知らぬ言葉、そして「魔法」と呼ばれる不可思議な力。
竹子と辺境伯令嬢イルミナの奇妙な旅は、こうして幕を開けたのであった。




