第壹話「介錯の先にあったもの」
最初に見えたのは、空ではなく揺れる木々だった。
硝煙の匂いはしない。耳を劈くような大砲の轟音も、銃声も、怒号も聞こえない。
木漏れ日が落ちる柔らかな下草の上に、竹子は仰向けに倒れていた。
頬を撫でる風は清浄で、どこかで名も知らぬ小鳥が甲高い声で鳴いている。
「……夢、か」
掠れた声が、自分自身の喉から漏れた。
竹子はゆっくりと身を起こし、己の体を見下ろした。
反射的に胸へ手が伸びた。新政府軍の鉛玉に撃ち抜かれ、確かに致命の臓器を砕かれたはずの場所。
しかし、薄衣には血の染みひとつなく、焼けるような激痛も跡形もない。
――否、それだけではなかった。竹子は己の手を、まじまじと見つめた。柳橋に向かう朝、母の手を借りて素早く行った男装。その際に爪に食い込ませた土埃も、掌にできていた竹刀胼胝も、まるで娘時代に戻ったかのように、綺麗さっぱり消え失せている。
続けて、首筋にそっと指を這わせる。妹・優子の震える刃が触れたはずの首にも、傷跡ひとつ残っていなかった。
別の体だ。あるいは、生まれ直した体か。
ただ、傍らには彼女の魂である薙刀「夜叉霧」だけが、静かに横たわっている。
竹子は無造作にそれを手に取り――息を呑んだ。
愛刀の姿が、異様であった。反りや長さ、柄の馴染み具合は間違いなく己の夜叉霧のもの。だが、刃の様子が違う。鈍色の鋼であったはずの刀身が、陽光を弾き、不思議な虹色の光沢を帯びていたのだ。見つめていると、刀そのものが脈打つように、静かな熱を放っているようにすら感じられる。
周囲を見渡す。
生い茂る木々の葉の形も、木肌の色も、竹子の知る会津の山のものとは違う。見上げた空の色すら、どこか異国の絵画のように濃く、深く澄んでいた。
自分の知る日本ではない。
そして何より、体の芯から湧き上がる明確な違和感。
生きている。
その事実だけが、竹子には耐え難かった。
「なぜ……なぜ、私だけが」
木霊するような小鳥のさえずりが、今の彼女には酷く無慈悲に聞こえた。
優子は。母上は。共に散ると誓った同胞たちは。
白虎隊の少年たちは。そして、あの業火に包まれた城の中で、今も耐え忍んでいるであろう主君・松平容保は。
彼らが血を流し、泣き、苦しんでいるというのに。
なぜ自分だけが、このような無傷の体で、見知らぬ穏やかな森の中に放り出されているのか。
「あぁ……っ!」
竹子は地に膝を突き、両手で顔を覆った。
嗚咽は声にならず、ただ肩だけが激しく震えた。悔しさと、申し訳なさと、そして己の命が長らえてしまったことへの激しい羞恥。
生き延びるなど。あまりにも恥ずべきことだった。
こんな無様な生き恥を晒すくらいならば。
「……お許しください。私は、皆様の元へ参ります」
竹子は静かに立ち上がり、夜叉霧を構えた。
美しい虹色の輝きを放つ切先を、己の喉元へピタリと当てる。
思い切り突けば、今度こそ命は絶てる。武士としての名誉を守り、亡き同胞たちへ顔向けができる。
両手に力を込め、目を閉じた。妹の顔が瞼の裏に浮かぶ。
夜叉霧の切先が、わずかに震えた。
――その時だった。
何かが衝突したような轟音が森の静寂を破った。
続いて、男たちの荒々しい怒号と、馬のいななきが遠くから響いてくる。
耳を澄ませば、その騒乱の奥から、恐怖を必死に押し殺したような、若い女の短い悲鳴が聞こえた。
竹子の手が、ピタリと止まる。
開いた瞳に、鋭い光が宿った。
『――武士たるもの、いかなる時も弱きを助け、義を重んじよ』
幼き頃より父に叩き込まれた会津武士の矜持が、血肉の底から湧き上がってくる。
こんな得体の知れない場所であっても、己の命を絶つのはいつでもできる。だが、今あそこで起こった悲鳴を見捨てれば、それこそ武士の道に背くことになる。
「死ぬのは……あの声を助けてからでも、遅くはない」
竹子は喉元から夜叉霧を離すと、刃を返し、悲鳴の上がった方角を見据えた。
白鉢巻を締め直し、地を蹴る。
会津の亡霊となった女は、死を求める足を止め、騒音の主たちが待つ街道へと真っ直ぐに駆け出していた。




