第零話「慶応四年、八月二十五日」
慶応四年八月。会津・鶴ヶ城下に、秋の気配はなかった。
空を分厚く覆うのは黒々とした硝煙であり、風が運ぶのは焦げた土と血の匂いばかりである。
薩摩、長州を中心とする新政府軍が怒涛の如く押し寄せ、会津藩は今や風前の灯火にあった。
新政府軍の砲撃は昼夜を問わず続き、会津の兵は日に日に倒れていく。
わずか二日前の八月二十三日。凄惨な戦況を決定づける悲報がもたらされていた。
飯盛山にて、城下から上がる黒煙を鶴ヶ城の炎上と誤認した十代の少年たち――白虎隊が、主君に殉じて凄絶な自刃を遂げたのだ。
まだ元服を迎えたばかりの、あるいはそれすら迎えていない幼き命たちが散ったという事実は、会津の者たちの胸に、もはや決して退くことはできないという悲壮な決意を刻み込んでいた。
そして今日、八月二十五日。
柳橋の畔に、二十余名の女たちの姿があった。
断髪し、男装に身を包み、白鉢巻をきつく締めた彼女たちは、のちに「娘子隊」と呼ばれる者たち。
その陣頭に立つのは、中野竹子。齢二十一。
「――行くぞ」
竹子の凛とした声が、砲声の響く空気を切り裂いた。
手には、彼女の魂とも言える名刀、薙刀「夜叉霧」。傍らには、母のこう、そして妹の優子が、同じく決死の面持ちで控えている。
勝てぬ。
そんなことは誰より竹子自身が知っていた。
薙刀で、銃に勝てる道理はない。
それでも退けば、会津武士の名は終わる。「武士の家に生まれた娘」として、「会津の女」として、ここで背を向ければ累代の名を汚すことになる。白虎隊の少年たちが見せた忠義に、泥を塗ることになる。
「前へ!」
突撃の号令と共に、女たちは弾雨の降る死地へと駆け出した。
新政府軍の兵たちが、驚愕に目を剥く。「女だ!」「女の部隊だぞ!」という声が上がるが、容赦のない一斉射撃が彼女たちを襲う。
「退くな! 斬り込め!」
竹子は疾風の如く敵陣へ踏み込んだ。白刃が一閃する。夜叉霧が唸りを上げ、銃を構えようとした兵の胴を薙ぎ払った。血飛沫が舞う。返す刀で二人目の切先を跳ね上げ、喉元を突く。
極限まで練り上げられた竹子の気迫は、一瞬だが確かに、新政府軍の銃列の一角を乱した。
二人、三人と兵が後ずさる。だが、それは砂粒ほどの綻びに過ぎず、隊列全体が揺らぐことはなかった。一瞬乱れた銃列は、瞬く間に立ち直っていく。
乾いた銃声が響いた。
直後、竹子の左胸に、焼けるような衝撃が走った。
「あ……」
呼吸が止まる。鉛玉が、薄衣を貫き、致命の臓器を確かに破壊した感触。
力が抜け、竹子は崩れ落ちるように地に膝をついた。夜叉霧を取り落としそうになるのを、必死に指先で堪える。
「姉上ッ!」
悲痛な叫びと共に、妹の優子が駆け寄ってきた。その顔は涙に濡れ、激しく歪んでいる。
「……泣く、な……優子……」
口から溢れる血を飲み込みながら、竹子は妹を見上げた。
新政府軍の兵たちが、討ち取った首を求めて迫りつつあるのが気配でわかる。女とはいえ、いや、女だからこそ、敵に首級を奪われ、晒し者にされるような無様な真似は絶対に許されない。
「私の首を……敵に、渡してはなりませぬ……。介錯を……」
「嫌です! 姉上、姉上ッ!」
「早く……しなさい……っ!」
血を吐きながらの叱責。それは姉として、そして戦陣の長としての最後の命令だった。
優子は嗚咽を漏らしながらも、震える手で刀を抜き放った。その刃先が、狂おしいほどの葛藤で微かに揺れている。
竹子は目を閉じ、静かに首を垂れた。
「優子……見事であった……」
刃が風を切る音が聞こえた。
首筋に、白刃の冷たさが触れた、その瞬間。
――なぜ。
痛みが、来なかった。
致命傷の苦しさも、首を刎ねられる激痛も、一切がない。
地面の感触が消え、不思議な浮遊感が竹子を包み込んだ。耳の奥で、聞いたことのない荘厳な鐘の音が鳴り響く。
――なぜ、痛みが無い。なぜ、私はまだ「思って」いる。
目を開けることもできぬまま、意識が深い闇へと呑まれていく。
その暗闇の底へ落ちていく寸前、竹子の胸に去来したのは、自らの死への恐怖ではなかった。
――まだ終われぬ。
――まだ戦いたい。
――この身が砕けても、会津だけは……
いつか見た、主君・松平容保の憔悴しきった横顔。
そして、業火に焼かれる会津二十三万石の民の、悲痛な慟哭であった。
中野竹子の持つ薙刀「夜叉霧」は創作です。
作者不詳の無銘であったとも
また、重国や義弘、兼定の作であったとも言われております。
本作では薙刀は重要なアイテムでもあるので、勝手に号を付けさせて頂きました。
序章をアップしただけでお願いするのもおこがましいのですが、
本作を少しでも読んでやろうと思われた方、
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