第拾玖話「牧羊犬と狼」
帝国辺境軍の本陣。
整然と並べられた天幕の中心に位置する司令幕舎では、重苦しい静寂が支配していた。
「――『降伏ではない、絶滅である』。フラットペインの長、およびその将は、そう吐き捨てました」
机上に広げられた地図から顔を上げることなく、リンフォイル・フォン・メビック伯爵は、使者シュワルバの報告を聞いていた。
地図の上には、フラットペインを中心とした街道と河川、周辺の村落が細かく書き込まれている。
その横には、帝国軍の兵站線を示す赤い駒。――兵数。食糧。輸送。予想される損害。
メビックの頭の中では、それらすべてが数字に置き換えられていた。
メビックは、細い息を一つ吐き出し、忌々しげに眉をひそめた。
「愚かな」
ようやく、伯爵が口を開いた。
「たった数百人の領都を守るために、領都周辺の数万の民まで戦火に巻き込むつもりか」
「そのようです」
「降伏すれば、命は助かる。生活も保証する。帝国の庇護下に入れば、むしろ今より豊かになる可能性すらある」
メビックは地図の上に置かれた小さな駒を指で摘まみ上げた。
フラットペイン。――たった一つの駒だった。
「それなのに、名だの誇りだのという曖昧なもののために、数万人の命を危険に晒す」
駒を元の位置へ戻す。
「……理解できんな」
メビックにとって、戦争とは算盤だった。いかに少ない犠牲で、いかに大きな利益を得るか。
降伏するなら殺さない。抵抗するなら殺す。その違いは、ただそれだけだ。
「……くくっ」
幕舎の隅。灯りの届かない暗がりから、低い声が漏れた。
「笑わせるぜよ」
木箱に腰掛けていた男が、ゆっくりと顔を上げる。
岡田以蔵。
帝国の真新しい軍装には袖を通さず、色褪せた黒羽織を纏っている。
膝の上には、一振りの無銘の打刀。
油布を滑らせる手つきだけは、異様なほど丁寧だった。
「誇り、じゃと?」
以蔵は刀身に映る自分の顔を眺めながら、口元を歪めた。
「武士の忠義なんぞ、ただの呪いぜよ」
油布が、刃の上を滑る。
「侍っちゅう生き物はな。上が変われば、簡単に捨てられる。ただの犬じゃ」
メビックの眉が動いた。
「……犬?」
「そうじゃ。使えるうちは飼われる。使えんなったら、首を刎ねられる。それでも尻尾を振ってついていく。哀れなもんぜよ」
「言葉を慎め、暗殺者」
メビックの声が低くなる。
「皇帝陛下直属であろうと、この前線での指揮権は私にある」
メビックは、勤王党を――以蔵という男の存在そのものを、ひどく忌み嫌っていた。
軍とは、法と規律によって動く巨大な機構であるべきだ。
しかし、以蔵のやり方は違う。陣形を無視し、闇に紛れ、ただ血の臭いを求めて敵の首を狩る。それは軍隊ではなく、ただの野蛮な殺戮だ。
さらに忌々しいことに、その力に魅せられた兵が一定数付き従っている点だ。
「私は、貴様のような暗殺剣は好まぬ。秩序なき暴力は、帝国には不要なのだ」
メビックの冷たい宣告を浴びても、以蔵は全く動じることなく、刀を鞘に納めた。チャキ、という硬質な音が幕舎に響く。
以蔵は笠の奥から、射抜くような視線で伯爵をねめつけた。
「……暗殺が嫌いかえ?」
以蔵が立ち上がると、獣のような威圧感が幕舎の空気を重くした。
「じゃが、その嫌いな人斬りを最前線の陣に置いちゅうのは、どこのどいつじゃ? 伯爵殿」
以蔵は笠の奥から、メビックを見た。
「貴様……」
「政治屋の『合理』やら『大義』やら。立派な御託を並べてはみるが――」
一歩、踏み出す。
「結局おんしらは、わしらのような汚い犬を使わにゃ、戦一つ勝てんのじゃろうが」
メビックの拳が微かに震える。言い返せなかった。被害を最小限に抑え、最速でフラットペインを陥落させるためには、敵の指揮系統を直接断つ以蔵の「暗殺剣」が、最も効率的で合理的な手段であることは紛れもない事実だったからだ。
(……この男を使い捨てる。それこそが、私の合理だ)
メビックは沸き上がる怒りを冷たい理性で押さえ込み、吐き捨てるように命じた。
「三日後」
メビックは地図へ視線を戻した。
「我が軍は圧倒的な物量をもって城下へ進軍する」
そして、以蔵を見る。
「貴様の部隊は闇に紛れろ」
「……」
「敵がそれほどまでに徹底抗戦を望むというのなら――その精神的支柱を、貴様の剣でへし折ってみせろ」
以蔵の口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「ええぜよ。存分に使うがええ」
幕舎の出口へ向かいながら、以蔵はふと足を止めた。
「……あの小生意気な女」
その声には、隠しきれない愉悦が滲んでいた。
「どんな血の匂いがするか。わしが直接、嗅ぎに行っちゃるきに」
テントの布を乱暴に払い、以蔵は夜の闇へ消えていった。
あとには、メビックだけが残された。
伯爵はしばらく、何も言わなかった。
やがて、地図の上に置かれたフラットペインの駒へ手を伸ばす。
数百人。それだけの人間を守るために、数万の命を危険に晒す。
愚かだ。そう思う。
だが――。
「……牧羊犬が狼を使う、か」
メビックは小さく呟いた。
群れを守るためなら、狼の牙すら利用する。
それが、彼の考える合理だった。
三日後。
帝国の軍靴が、あの小さな街を踏み潰す。
その足音に混じる不協和音を――今はまだ、誰も気に留めてはいなかった。




