第拾捌話「白い旗、黒い影」
本日二度目の投稿
第三章開幕です。
抜けるような青空の下、城門へと続く一本道に、不釣り合いな純白が翻っていた。
白旗である。
フラットペイン城下へとやってきた帝国辺境軍・メビック伯爵の使節団は、武器を掲げることなく、悠然と門前に陣取った。
「三日だ。三日以内に、この領地の無条件降伏を要求する」
使者として進み出た男――シュワルバ・チューブラックは、通達の記された羊皮紙を巻き直しながら、冷ややかな声で告げた。
仕立ての良い帝国軍服。整えられた髭。感情を表に出さない、官僚特有の冷たい目。戦場に立っているというのに、まるで書類の決裁をしに来た男のようだった。
「メビック伯爵は、無益な流血を望んでおられません」
シュワルバは淡々と続けた。
「賢明なるフラットペインの皆様におかれましては、ご理解いただけるはずです。無謀な抗戦こそが、己が領民を殺す大罪なのだと」
――無駄な抗戦は、領民を苦しめるだけだ。
その言葉が、城門の前に立つ竹子の鼓膜を鋭く貫いた。
視界が揺れた。
喉の奥に、焦げた血と硝煙の匂いが込み上げてくる。フラットペインの穏やかな風が、一瞬にして、炎に包まれた会津若松城の熱風へとすり替わった。――「無駄な抗戦は民を殺す大罪」――同じ言葉を、あの時も、新政府軍の使者は言った。――そしてそれは、確かに、正しかったのかもしれない。
竹子の脳裏に、あの朝、懐紙に書いた辞世の句が浮かびかけて、消えた。
頬に、汗が伝う。あるいは、涙だったかもしれない。だが、竹子は、震えそうになる手を気力で押さえ込み、夜叉霧の柄を静かに握り直した。
「……使者殿に、一言問う」
静寂の中、竹子の凛とした声が響いた。
横で見守るイルミナが、不安げに竹子の横顔を見つめている。
「降伏の後、この土地の名は残るのか」
シュワルバが眉を上げた。
「……何?」
「この土地に生きる民の、誇りは残るのか」
シュワルバは本当に意味が分からないという顔をした。
そして、事務的に答えた。
「辺境伯領などという古き名は消えます」
イルミナの指が、かすかに震えた。
「降伏後は、サッ・ローンド帝国の一自治区として再編される。当然、信仰も、慣習も、すべては我が帝国の法に従っていただくことになる。それが、大国に庇護されるということです」
竹子は黙ってシュワルバを見つめた。
この男に悪意はない。少なくとも、本人にはそのつもりがないのだろう。
彼にとっては、ただの制度変更なのだ。
地図の上に引かれた線を消し、新しい名前を書き込む。多田それだけのこと。
だが、その線の内側には、人がいる。家がある。墓がある。先祖から受け継いだ土地がある。
そこで生まれ、そこで死んでいく人々の記憶がある。
それらすべてを消しておいて、「庇護」と呼ぶ。
竹子は、ゆっくりと目を閉じた。
そして――開く。
「ならば、それは降伏ではない。絶滅である」
空気が凍りついた。
シュワルバの顔から余裕が消え、不快感が露わになる。
「伯爵に伝えよ。フラットペイン辺境伯領は、この地に、この名で、在り続けると」
「……」
シュワルバの唇が歪んだ。
やがて、小さく舌打ちする。
「承知しました。では、三日後に」
シュワルバが踵を返す。
その瞬間だった。使者団から離れた位置に立っていた「影」が、僅かに動いた。
誰も、その男には近づかなかった。近づけなかった。
兵たちは意識的に彼から視線を外し、まるで「そこには誰もいない」ように振る舞っている。それが、この男の格を、雄弁に物語っていた。
顔を隠すように深く被った陣笠。闇を纏ったような漆黒の道中合羽。
腰に差した無銘の打刀。柄巻きの一部は擦り切れ、鮫皮の下地が覗いている。何百回、いや、何千回、この柄を握ってきたか知れぬ、使い込まれた刀であった。
男の右手の指の関節には、無数の細かい切り傷の跡があった。刀の鋩子で自分を傷つけたような、あるいは、他人を斬った際の血飛沫を、幾度となく浴びてきたような。
真新しい帝国の軍装の中で、その男だけが、まるで古い墓場から掘り起こされたような異質な空気を纏っていた。
男が、ゆっくりと顔を上げた。
笠の奥、暗い影の中に沈んでいた口元が、三日月の形に歪む。
声は、なかった。
風の音すら止んだような一瞬の静寂の中、男の唇だけが、滑らかに動いた。
――ほ う、え え 匂 い が す る ぜ よ。
――敗 者 の、血 の 匂 い が な。
読唇術の心得があったわけではない。
だが、竹子にはその言葉が、耳元でねっとりと囁かれたように、痛いほど鮮明に理解できた。
男の纏う空気。その立ち姿。そして、血の底から這い上がってきたような、昏い眼差し。
竹子の背筋を、かつて経験したことのない悪寒が駆け抜けた。
間違いない。この男は――。
手の中で、夜叉霧が微かに震えた。
男は、声なき哄笑を笠の奥に隠したまま、ゆっくりと使者の後を追って背を向けた。
青空の下。遠ざかって行く白旗を見つめながら、竹子は、夜叉霧の柄を握り直した。
隣で、イルミナが小さく息を吸った。
「タケコ様……私、怖くはありません」
イルミナの声は、震えていた。震えていたが、確かに前を向いていた。
「フラットペインの名が消えると言われて、初めて分かりました。私が守りたいのは、領地でも、家名でもなく、この土地に生きている人たちの、明日の朝の顔なのです」
「……ああ」
「その顔を、地図の上の線と一緒に消させはしません」
竹子は、少しだけ笑った。
――絶滅か、抗戦か。
――散るか、生きるか。
三日。与えられた時間は、それだけだった。
城下の遠く、東の空には、既に薄い煙が立ち上り始めていた。帝国本隊の炊煙であった。




