其の肆「小さな呪いと、副隊長の目」
【サーリー、ペルト編】
夜。城下の外れ、隊舎の裏の物見櫓。
そこは、本来は見張り台のはずだったが、今は誰もいない。誰もいないはずだった。
「……憎きあの者に……箪笥の角で、小指を打つ呪いを……」
「ヘー」
「ひゃっ!?」
小さな影が飛び上がった。
振り返ると、扇子を持ったカラミーテが、櫓の梯子を上ってきていた。
「面白い力ですね」
「面白くない、です」
サーリー。齢十六。ダークホビットの占い術師。
背丈は成人の女性の腰までしか届かない。膝を抱えて座り込む姿は、幼い少女そのものだった。
だが、彼女の瞳には、彼女の年齢に見合わぬ暗い光が宿っていた。
「私の呪いは、弱いんです」
サーリーはぽつりと言った。
「小指をぶつける。鳥の糞が落ちてくる。尿意を催す、くしゃみが止まらない。……その程度なんです」
「ふむ」
「昔は、もっと強い呪いをかけたかった。両親を殺した山賊たちに、地獄を見せたかった。でも、私の力じゃ、山賊の小指を、ちょっとぶつけさせることしか、できなくて」
「……」
「山賊は、笑いながら死んでいきました。他の冒険者に討たれ。私の呪いなんて、何の役にも立たなかった」
カラミーテは、櫓の板の上に、静かに腰を下ろした。
ドレスの裾を丁寧に整えてから、扇子を膝の上に置く。
「サーリー様」
「はい」
「戦場、というものをね」
カラミーテは、月に照らされた城下の屋根を見下ろした。
「私の亡き夫は、こう言っていました。『戦場は、一手の遅れで命が一つ消える場所だ』と」
「……」
「剣客が、命を懸けて斬り合う。その瞬間に、敵が『小指をぶつけた』としたらどうなると思いますか」
「……えっと」
「一手、遅れます。そして、一手遅れた者は死にます」
サーリーが、はっと顔を上げた。
「それが、戦場というものです」
カラミーテは扇子を開き、そっと口元を隠した。
「あなたの呪いはね、サーリー様」
「はい」
「相手を殺す呪いでは、確かにない。ですが、相手の『一手』を奪う呪いです」
「……」
「戦場で、敵の一手を奪える術者は、剣客十人分の価値がありますのよ」
サーリーの瞳が、ゆっくりと見開かれた。
「本当ですか」
「本当です」
「私、役に立てますか」
「立てます」
サーリーの目に、光が戻り始めた。
だが同時に、その小さな肩は震え出していた。
「でも……両親の仇を、私は取れませんでした。今更、私が強くなったって、両親は」
「サーリー様」
カラミーテは、静かに、しかしはっきりと遮った。
「仇を取ることと、これから守ることは、別のお話です」
「……」
「私も、夫を戦で亡くしました。仇は、取れておりません。だから、私が今からできることは、ただ一つ。次に来る戦で、隣にいる誰かの夫を、妻を、両親を、失わせないこと」
「……」
「あなたの小さな呪いで、誰かの隣人が、明日を生きられるかもしれない。それは、素晴らしいことでは、ありませんか」
サーリーは、しばらく黙って月を見上げていた。
その頬を、静かな涙が伝った。
「よろしゅうございました」
「私、頑張ります。敵の膀胱を破裂させてやります」
「……そこまでは、しなくてよろしいのですよ」
「え?」
「一滴、漏らさせるだけで十分ですわ」
カラミーテは、少しだけ肩を震わせて笑った。
小さな呪いは、確かに小さい。だが、小さいからといって意味がないわけではない。――むしろ盤上の隅の一手が、盤全体の勝敗を決めることがあるということを、この副隊長は誰よりも知っていた。
「サーリー様。これから私と一緒に、盤面を読む練習をしませんか」
「盤、面?」
「戦場のことです」
カラミーテは扇子を閉じ、サーリーの小さな肩にそっと手を置いた。
「あなたの呪いを、どこで、いつ、誰にかけるべきか。私が教えて差し上げます」
櫓の上に、二つの月が静かに昇っていた。
***
櫓の上でサーリーとカラミーテが言葉を交わしていた頃。その真下の暗がりで、チリン、と乾いた鈴の音が密やかに鳴った。
ペルト、二十二歳。狐の耳と豊かな尾を持つ獣人の娘が、月明かりを浴びながら一人、静かに舞っていた。
爪先が土を擦る音。身を翻すたびに鳴る神楽鈴。彼女は旅の踊り子であり、同時に多神教である「カグラ神社」の教えを説く、歩き巫女でもあった。
――チリン。
鈴を鳴らし、地を踏みしめるたび、ペルトの脳裏には焦げた木の匂いが蘇る。
『唯一神ミヒルイの教えに反する邪教徒め!』
『獣の分際で神を騙るな! 出て行け!』
大陸の大部分において国教とされる一神教・ミヒルイ教。彼らにとって、八百万の神々を信仰し、自然の中に神を見出すペルトの存在は、許されざる「異端」だった。
石を投げられ、唾を吐きかけられた。小さな社は異端審問官の松明によって焼かれ、信徒たちは散り散りになった。神々は何も語らず、ただ沈黙したまま炎に飲まれていった。
以来、ペルトは身分を隠し、ただの踊り子として各地を放浪し続けてきたのだ。
――タンッ。
ペルトの足拍子が、夜の空気を鋭く震わせた。
舞の速度が上がる。彼女の踊りは、ただの遊興ではない。神々を下ろし、味方の身体能力を劇的に引き上げ、敵の五感を狂わせる強力な支援魔法の儀式だ。
「……ここでは、誰も私の神様を笑わない」
旋回しながら、ペルトは月を見上げて呟いた。
このフラットペインの領主イルミナも、隊長の竹子も、ペルトが狐の獣人であろうと、異端の教えを信じていようと、ただの一度も顔を顰めなかった。それどころか「綺麗な鈴の音ですね」と微笑んでくれたのだ。
迫害され、信じるものを否定され続けた歩き巫女が、ようやく辿り着いた居場所。
「明日からの戦場。私の舞で、炎の神を、風の神を、土の神を……仲間たちに降ろしてみせます」
ペルトはくるりと大きく宙を舞い、両手を胸の前で組み、空の月へ向かって深く祈りの姿勢をとった。その姿は、どこまでも静かで、神聖だった。
頭上の櫓から、その舞を見下ろしていたサーリーが、ぽつりと呟いた。
「……綺麗」
「ええ、本当に」
カラミーテもまた、扇子を畳んで目を細めた。
「彼女の神様も、きっとこの部隊を護ってくださいますわ」
銀色の月光の下、狐の巫女の祈りは、夜明けの戦場へ向けて静かに満ちていった。




