其の弐「昼寝の猫と、鳥使いと、薬師の亡命」
【コルニャ、ローズ、チネル編】
昼下がりの隊舎の縁側。
「にゃー」
小柄な獣人が、日向で丸まっていた。
コルニャ、二十六歳。見た目は十五、六歳の少女にしか見えない猫獣人。特技は寝ること。副次的な特技もまた寝ることだが、今日の彼女がここで寝ているのは、単なる怠惰ではなかった。
「……コルニャさん、また、そこで寝てたんですか」
通りかかったカノンが呆れ声を出す。
「ここ、日当たり最高にゃ」
「そこ、メリッタさんの机の下じゃないですか」
「机の下も最高にゃ。魔導具の熱で、暖かいにゃ」
「昨日、怒られてませんでした?」
「怒られたにゃ」
「今日は」
「今日も怒られる予定にゃ」
「わざとですか」
「わざとにゃ」
コルニャは目を閉じたまま、尻尾だけをぱたりと動かした。
「……あいつが怒鳴ると、鳥が飛ぶにゃ」
「鳥?」
「屋根の。裏山の。街の。……そういう鳥が、みんな一斉に飛ぶにゃ」
カノンが首を傾げる。
「それが、どうしたんですか」
「鳥が飛ぶと、次の日雨が降るにゃ」
「え」
「メリッタが怒鳴った翌日は、必ず雨にゃ」
カノンは目を丸くした。
「……気象、読んでたんですか?」
「にゃー」
コルニャは眠そうに頷いた。
「昔、山で生きてたにゃ。山では、雨を読めない獣は死ぬにゃ」
山で生まれ、山で親を亡くし、山を下りて街へ辿り着き、そして今、机の下で丸まっている彼女。
彼女が机の下を選ぶのは、暖かいからだけではなかった。そこがこの隊舎の中で、最も風向きが読める場所だからだった。
「……ちゃんと役に立っていたのですね」
カノンが呟く。
「にゃ?」
「なんでもないです。……あの、コルニャさん」
「にゃー」
「私、今日、右腕の鍛錬します。……もしよければ、見ててくれませんか」
繋ぎ直された右腕を、カノンはそっと握った。
コルニャは薄目を開けて、少しだけ首を傾けた。
「見ててやるにゃ。……でも途中で寝るかもにゃ」
「はい。寝ててください」
「にゃー」
カノンは、少しだけ笑って、庭へ出て行った。
***
その縁側の反対側、井戸の脇では、また別の声が響いていた。
「はいはい、順番ですよー」
ローズが小鳥たちに餌を撒いていた。
『こっち、寒いよ』
「本当? じゃあ、こっちにおいで」
『あっちに猫がいる』
「ああ、コルニャさんです。大丈夫、あの人は襲わないから」
『あっちの塀の向こう、知らない人がいた』
「え?」
ローズが手を止める。
「どんな人?」
『黒い服。刀。ずっとこっちを見てた』
ローズの背筋が、ぞくりと粟立った。黒い服。刀。それは、フラットペインの兵の装備ではなかった。
「……いつから、いたの」
『さっきから。もう、いない』
「もう?」
『匂いが消えた』
ローズはしゃがみ込んで、小鳥の頭をそっと撫でた。
「……教えてくれて、ありがとう」
『どういたしまして』
ローズは急ぎ足で、竹子を探しに走り出した。
誰も知らない。ローズの「テイマー技能」が、この隊で最も広く、最も速い斥候網を張っていることを。
誰も知らない。ローズが十歳の時、村を野盗に焼かれ、生き残ったのは彼女と、飼い犬一匹だけだったことを。
その犬が「怖い、逃げよう」と教えてくれたから、ローズは生き延びた。
だから彼女は、動物を「使役」しない。――ローズ、十七歳。F級冒険者でテイマー。
世間一般のテイマーと違い、動物と話す。命を助けてくれた恩を、返し続けているだけなのだ。
***
その頃、隊舎の厨房では、一人の女が薬草を刻んでいた。
チネル・ミラウド。二十二歳。かつては帝国領・北方の薬師一族の娘であった。
まな板の上には、青紫の花弁を持つ薬草――「眠り草」の生葉。
その隣には、乾燥させた白い根――「痛み止めの根」。
そして、慎重に別の小瓶に隔離されている、赤黒い粉末――「即効性の神経毒」。
彼女の手つきは、料理人のそれではなく、外科医のそれだった。
「……チネル」
通りかかったフジが、興味深そうに厨房を覗き込んだ。
「その粉」
「触らないでください、フジさん」
「触りません。……舐めていいですか」
「絶対に駄目です」
フジは、少し残念そうに肩を落とした。
「じゃあ、質問だけ。それ致死量どのくらい?」
「大人一人分で、耳掻き一杯」
「……おぉ強い」
「一族の秘伝です」
チネルは静かに薬草を刻み続けた。その手は、少しだけ震えていた。
三年前まで、チネルは帝国領で暮らしていた。父は、戦傷者の激痛を和らげる薬の研究をしていた。
だが、帝国の軍部は、その父の技術を欲した。「痛みを和らげる薬」ではなく、「痛みを感じず、死を恐れない薬」を作れと。
拒んだ父と一族は、処刑された。
チネルだけが、地下の薬草棚の裏に隠されて、生き延びた。
彼女は父の遺した処方箋の束を胸に抱え、国境を越えて、フラットペインへ逃げてきた。
「私の薬は、人を眠らせます。人の痛みを止めます。……でも、フジさんの魔法は、逆ですよね」
「はい。私は、痛みで治します」
「変な組み合わせですね、私たち」
「変な組み合わせですね」
二人は少しだけ笑った。
「――ですが」
チネルは、刻んだ薬草を小さな麻袋に詰めた。
「戦場では、両方が必要です。生かすための痛みと、生かすための鎮痛。私と貴女で、この隊の全員を、絶対に死なせません」
「はい。絶対に、死なせません」
フジは頷いた。
厨房の窓から、午後の光が二人の手元に差し込んでいた。
その光は、一族の血で赤く染まった三年前のチネルの記憶を、今日だけは、静かに拭ってくれていた。




