第拾漆話「十七人の『新・娘子隊』」
澄み切った早朝の空気が、隊舎の庭を心地よく吹き抜けていた。
カノンは最後の型を終えると、ゆっくりと息を吐いた。
右腕に痛みはない。肩を回し、肘を曲げ、手首を返し、指を握る。――動く。昨日、失ったはずの腕が、何事もなかったかのように。
カノンは縁側に腰を下ろした。膝の上には、二つの得物がある。
一つは、愛用の木剣。真剣相手に何度も稽古で使い込んだ剣は、真っ二つに斬られていた。
もう一つは、昨夜の敵剣士が残していった見慣れぬ刀だ。
カノンはその刃をじっと見つめ、ぽつりと呟いた。
「腕の差か……それとも、流派の違いか……」
「熱心なのは良いが、まだ無理はしない方が良いぞ」
背後から声がした。振り返ると、竹子とディローザが立っている。
「そうだよ。腕、飛んじゃうよ」
「ちょ、ディローザさん! やめてください! 始める時、少し怖かったんですから!」
カノンが涙目で抗議すると、ディローザは「えへへ!」と屈託なく笑った。
笑い事ではない。カノンは昨日、実際に腕を失い、そして実際に繋がったのだ。その事実が、未だに信じられないでいた。
「右腕の具合に問題はないか?」
竹子が隣に腰を下ろす。
「はい。振る分には問題ありません。ただ……」
カノンは右腕を動かして見せた。
「受ける時に、押し負けるかもしれません」
「ああ。カノン殿の剣術は、剣で『受ける』ものだったな」
竹子は深く頷いた。
「……受けないのですか?」
首を傾げるカノンに、竹子は昨夜の敵が残した刀を指差した。
「私の国では、剣先を避けるのが基本だ。打ち合う時も、真っ向から受けるより、いなす。斬られぬためには、斬られぬ場所へ身を置く。それが一番だ」
カノンは黙って刀を見た。
「私が斬られたのも……無理に受けようとしたからでしょうか」
「それもある」
竹子は刀を手に取り、鞘から抜いた。月明かりの下で、鈍い刃が光る。
「それに、この形状は斬ることだけを考えて作られている」
「……私が使っても?」
「やめておけ」
竹子は即答した。
「おそらく、お前が今まで学んできた剣術とは相性が悪い。それに、この形状は斬ることだけを考えて作られている」
竹子は刃を斜めに翳し、鎬の造りを確かめた。――と、その瞬間、竹子の眉が微かに動いた。
鎬の傾き。柄巻きの一部に残された指の跡。刃の摩耗の偏り。それらが示すのは、この刀を作った者ではなく、この刀を「叩き込んだ」師の癖であった。
抜き打ちに特化した、片手斬りの型。
この地の剣術ではない。――日ノ本の、それも幕末の頃に流行った、暗殺の剣だ。
竹子の胸の奥で、微かな警鐘が鳴った。
昨夜の敵剣士は、この地の兵ではあった。しかしその剣を教えた「師」は――もしかすると。
「竹子様?」
カノンの声で我に返る。
竹子は静かに刀を鞘に戻し、何事もなかったように微笑んだ。
「――粗悪品だ。棟が厚すぎて、無駄に重い」
カノンは悔しそうに手渡された刀を見つめた。
「ですが……私は、もっと強くなりたいです」
竹子は、その横顔を静かに見つめた。昨日、腕を失うほどの恐怖を味わったというのに、この少女は今朝、また庭に出て剣を振っていた。その事実だけで十分だった。
「ならば」竹子はふっと笑った。
「基本の足捌きや、太刀筋はいずれ教えよう」
「本当ですか!?」
「ああ。ただし、それを取り入れるかどうかは、カノン殿次第だ」
「はいっ!」
カノンの顔がパァッと明るくなる。
「……となると、カノン殿に合うまともな刀が要るな。イルミナ姫に頼んで――」
「ちょっと!」
不意に背後から声が飛んできた。山積みの書類を抱えたメリッタだ。
「私を忘れていませんか? 鍛冶士呼ばわりはお断りですけどね」
メリッタは書類を縁側へドンと置いた。
「魔導具だけじゃありません。金属加工も、鍛冶もできます。カノンさんの刀くらいなら、私が作りますよ。刃の構造は竹子さんの薙刀を参考にすればいいんですよね?」
言いながら、メリッタが敵の刀を探して視線を彷徨わせる。
「……あれ? 剣は?」
三人が庭を見る。
そこには、片手に敵の刀を持ったディローザがいた。
「ぶんっ! ぶんっ!」
「ディローザ! 危ないから振り回さないで!」
「ん? ねぇ、これ結構頑丈だよ!」
「そういう問題じゃありません!」
長閑な朝の隊舎に、メリッタの怒鳴り声が響き渡った。
***
朝食の時間になると、全員が集まった隊舎の広間は一気に騒がしくなった。
「タケコ姐さーん!」
「こらデカブツ! うちの姐さんに気安く触らんといてーな!」
背後から竹子に抱きつくディローザを、ピナーレが布巾を振り回して追い払う。
「まあまあ、朝から賑やかなことで」
カラミーテは扇子で口元を隠して上品に笑っていた。だが、その扇子の陰で、彼女は静かに息を吐いていた。
昨夜の戦、盤面の上では完璧に勝ったはずだったのに。
亡き夫が生前に残した言葉が、今更のように胸に刺さっていた。「盤面と戦場の違いは、駒に心があるか否かだ」と。それはセットアップで連敗を続けた、ただの負け惜しみではなかったのだと。
「賑やかどころじゃありませんよ! 日報も報告書も、全部『タケコ隊長』で統一しますからね!」
「食事中まで仕事をするな」
「仕事を増やしたのは誰ですか!」
メリッタは片手でパンを囓りながら、もう片方の手で猛然と羽ペンを走らせていた。
その隣では、フジがカノンの右腕をじっと観察している。
「……ちゃんと繋がってますね」
「はい」
「不思議です」
「治したの、フジさんですよね? 不安になるじゃないですか!」
カノンが叫ぶと、広間にどっと笑い声が起きた。
少し離れた席では、朝から大皿の肉を取り合って騒ぐ者たちがいた。猟師の娘・オルペアと、双剣使いの獣人・コルニャが、串焼きの最後の一本を巡って本気の睨み合いをしている。
その喧騒をまったく気にする様子もなく、黙々と食事を進める大柄な戦士大剣のリドリー。
片手間に古い呪文書を開いてページをめくるダークホビットの呪術師サーリー。
すでに食事を終え、窓辺で陽気に歌を口ずさんでいる旅の踊り子・ペルト。それに合わせて机を指で叩く、槍使いのコーディア。
誰もが違う。
武器も、種族も、年齢も、背負ってきた過去も。それでも、十七人分の声が、いま同じ屋根の下に響いている。
竹子は、その色鮮やかな風景を静かに眺めていた。
「竹子」
不意に、ビアンカが歩いてきた。その手には、小さな瓶が握られている。
「これは?」
「エルフ秘伝の油だ。夜叉霧の手入れに使え」
押し付けるように渡してくるビアンカに、竹子は「ありがたい」と素直に礼を言った。ビアンカは、なぜかツンと顔を逸らした。
「……それから。昨夜の戦いぶり、見事だった」
「そうか」
「私も、もっと強くなりたい。……弟子にしてほしい」
「弟子?」
竹子が目を瞬かせる。
「弓使いの私が、薙刀使いのお前に教わるのは変か?」
「いや」
竹子は笑った。
「だが、私は人に教えるのが得意ではないぞ」
「構わない。戦場での間合い。敵を見る目。そして――あの胆力。弓使いとして、学びたい」
真っ直ぐなビアンカの瞳に、竹子は少しだけ考え、頷いた。
「ならば、共に精進しよう」
そのやり取りを、視察に訪れていたイルミナが微笑ましそうに眺めていた。
「本当に、色とりどりの花が咲き乱れる庭園のようですわね」
イルミナは広間を一人ずつ見渡し、竹子へ視線を戻した。
「貴女の故郷にも、かつて少女たちの部隊があったのでしょう?」
「……ああ」
「ならば、これはまさに――新・娘子隊、ですわね」
一瞬。竹子の胸に、遠い記憶が蘇った。
母。妹。柳橋で共に戦った少女たち。もう、戻らない。もう、会えない。その名も、その姿も、すべて過去のものだ。
「……新しい、娘子隊」
竹子は呟き、顔を上げた。
そこには、十六人の仲間たちがいた。いや、自分を含めて「十七人」だ。
竹子は静かに笑った。
「ありがたき名付け。謹んで、お受けいたします」
その瞬間、誰かが拍手をした。一人、また一人。やがて、十七人分の拍手が、朝の隊舎にいっぱいに響き渡った。
***
その夜。
城は寝静まり、空には二つの月が浮かんでいた。竹子は一人、精霊樹の下に立っていた。
冷たい夜風が、黒髪を揺らす。
初陣は終わった。誰も死ななかった。カノンも戻ってきた。そして、十七人の仲間がいる。
それでも、竹子の胸の奥には、決して消えない記憶があった。母、妹、柳橋で共に戦い、散っていった同志たち。
竹子は夜叉霧を抱き、月を見上げた。
そして、かつて己が詠んだ辞世の句を、静かに口ずさむ。
「武士の……猛き心にくらぶれば……」
その先を、竹子はすぐには続けなかった。
過去の自分は、女の身でありながら武士として戦場へ散った。あの時は、最期は一人だった。
だが、今は違う。十七人いる。
竹子は精霊樹の枝を見上げた。
「私は、もう一人ではない」
夜風が吹き、枝が揺れる。
その先に、二輪の花が咲いていた。青白い月光を受けて、淡く光っている。まるで、遠い過去に散った者たちが、新しい娘子隊の誕生を静かに祝福しているようだった。
「……行こう」
竹子は呟き、夜叉霧を強く握り直した。
「今度こそ、誰も、置いていかぬ」
二つの月が、十七人の眠る隊舎を優しく照らしていた。
新・娘子隊。彼女たちの本当の戦いが、ここから静かに幕を開けようとしていた。




