第拾陸話「箒を持った治癒師・フジ」
街道の向こうに、城下町の輪郭がぼんやりと浮かび上がってきた。
二つの月はすでに西へ傾き、東の空には夜明けの薄い青が滲み始めている。
ディローザの大きな背中で、カノンは意識を失ったまま揺られていた。竹子の晒し布で幾重にも巻かれた右肩は、それでもなお、赤黒く滲み続けている。
誰も、口を開かなかった。「勝った」と言えば、少女の右腕を勝利の代償として肯定してしまう。「負けた」と言えば、逃げ帰った敵斥候たちを勝者にしてしまう。
どちらの言葉も、この夜の一行には相応しくなかった。
木剣を振り続け、マメだらけになっていた少女の手。父の反対を押し切り、竹子の背中に憧れて必死に研鑽を積んできた、その剣士としての未来。
命が助かったとしても、彼女が再び剣を握る日は二度と来ない。その残酷な現実が、誰の目にも明らかだったからだ。
城門の衛兵が松明を掲げ、一行を迎え入れる。
その時、竹子は不意に立ち止まった。城門の脇――大神殿の境内前で、ひとりの少女が、不貞腐れたように竹箒を動かしていたのだ。
ボサボサの黒髪。腰まで届く長さだが、まるで櫛を通す気力がないかのように、あちこちに寝癖の跡が残っている。
神殿の見習い服は、本来は清潔な白のはずだが、その裾には土埃と、そして――竹子の目には、乾いた血の跡のように見えるものが、うっすらと染み付いていた。ボサボサの黒髪。腰まで届く長さだが、まるで櫛を通す気力がないかのように、あちこちに寝癖の跡が残っている。
少女――フジ・パンサード。齢十九。
彼女はぼんやりと竹箒を動かしていたが、ふと鼻をひくつかせた。
濃密な血の匂い。
その瞬間、彼女の動きが、ぴたりと止まった。
ぬらり、と、無機質な動きで首だけがこちらへ向く。そして、その陰気に伏せられていた瞳の奥に、恐ろしいほどの光が宿った。
それは、獲物を見つけた獣の目ではなかった。久しぶりに触れられる素材を目の当たりにした、職人の目だった。
「……あの。その小脇に抱えてる血まみれの包み。もしかして、腕ですか?」
「な、なんだお前は!?」
警戒するビアンカを余所に、竹子は冷静に答えた。
「そうだ。カノンの右腕だ」
「よかった。じゃ、それくっつきますね」
「ええ? つくのか!?」
メリッタが素っ頓狂な声を上げた。
フジは不思議そうに首を傾げる。
「だって、腕があるんですもの」
「いや、そういう問題ではなくてだな!」
「無かったら、生やすところから始めないといけませんから」
「生やす!?」
「はい」
フジは淡々と答えた。
「でも少しずつです。骨を伸ばして、肉をつけて、神経を繋いで……伸びたら塞がった傷口をまた削って、そしてまた伸ばして……」
「ちょっと待て」
「ずーっと痛いですけど」
「ずーっと!?」
「ええ。大変ですよ」
淡々と語られる地獄のような治療プロセスに、その場にいた全員が戦慄した。
「そんなのを大変の一言で済ますな!」
フジはそんな周囲の反応など気にも留めず、カノンの傷口を観察している。
「あ」
そして突然、フジの視線が竹子の膝へ移った。
「……あなた」
「む?」
「その膝」
「膝がどうした」
「曲がりにくくないですか?」
竹子が眉を寄せる。
「……子供の頃、稽古で痛めた。多少は曲げにくいが、問題はない」
「見せてください」
「何?」
「触らせてください」
「いや、今はそっちではなく――」
「靭帯が少し歪んでる気がします」
「ちょっと!」
メリッタが怒鳴った。
「今はこっち! カノンでしょうが!」
「えー……」
「えー、ではない!」
「でも、こっちの方が気になります」
「気にするな!」
「……ちぇっ」
フジは不満そうに唇を尖らせた。
だが、すぐにカノンへ向き直る。
その顔から、先ほどまでの気の抜けた表情が消えた。
「傷口洗ってみないとわかりませんが、これならくっつきそうですね」
「つくのなら、今すぐやってくれないか。灯りも用意する」
竹子が頼むと、フジは露骨に嫌そうな顔をした。
「えー。こんな往来じゃ迷惑ですよ。血で汚れますし」
「め、迷惑だと! 仲間の腕が――」
「じゃ、そこに神殿の中へ」
「神殿はちょっと……中に入れると司祭様に怒られちゃいますから」
「そんな事を言ってる場合か!」
焦るビアンカを、フジはぼんやりとした声で制した。
「止血も出来ているし、時間には余裕があります。それに、もし傷口が潰れてたら、骨を削って整えたりしないといけませんから。落ち着ける場所がいいです」
「……ならば、我々の隊舎へ運ぼう!」
「では、ラピエラさん。先に隊舎に戻ってイルミナ様に伝言を。あと、お湯、晒しなどの準備もお願いします」
竹子の後を継いで、カラミーテがシーフのスキルを持つラピエラに指示を飛ばす。
***
数分後。隊舎の一室。
長机の上にカノンが寝かされ、フジが布包みから右腕を取り出していた。
普段の陰気でコミュ障な雰囲気は消え失せ、傷口を見つめるフジの目は、別人のように鋭く、冷徹な治癒師のものに変わっていた。
「……切り口、剣にしては綺麗ですね。骨の一部に欠けはありますけど、整形処置は要りません。これなら多分、元通りに動きますよ」
「ほ、本当か……?」
ディローザが半信半疑で身を乗り出す。だが、フジはすでに自分の世界に入っていた。
「じゃ、治しますね。……ちょっと痛いですけど、我慢してください」
フジはカノンの右腕と、肩の切断面と丁寧に位置を合わせた。骨と骨、血管と血管、神経の断面が、あたかも玩具の部品を嵌めるように、ぴったりと重なる。
その位置合わせの正確さは、まるで彼女の目には、常人には見えぬ何かが視えているかのようだった。
「……よし。ズレなし。じゃ、いきますね」
フジは両手をかざした。
通常、リヴァーチュ王国の治癒魔法は、暖かな金色の光と、鎮痛の香気を伴う。神殿の祝福を受けた癒しの術は、患者を眠らせながら、優しく傷を塞ぐものだ。
しかし、フジの手から立ち上ったのは冷たく、暗い、青白い燐光だった。
まるで沼の底から立ち昇る鬼火のような光が、カノンの切断面に絡みつき、うぞうぞと蠢く。
その光は、癒すのではなかった。――強制するのだった。
肉に、骨に、神経に、「元通りに繋がれ」と、暴力的に命じるのだった。
「――っ! ぎ、あぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!??」
意識を失いかけていたカノンが跳ね起きんばかりに体をのけぞらせ、絶叫した。
グツグツと肉が煮えるような音。ゴリゴリ、ギチギチと、骨と骨が強制的に噛み合わさり、神経が引き千切られながら再結合していく凄まじい肉体変化。
「ひっ……! な、何か痛みを和らげる方法は……!」
あまりの凄惨な光景にコーディアが顔を覆う。
「無理です。強制的に神経と骨を繋ぐので。これでも最適化してるんですよ。私、自分で試しましたから」
「試したぁ!?」
「ええ。自分の指を何度か切り落として。どう繋げば一番早いか」
「い、痛くなかったのか!?」
「最初はね」
「最初!?」
「そのうち、自分の痛みは遮断できるようになりましたから。ふふっ」
「「「…………」」」
あまりなフジの発言に、部隊の全員がドン引きした。
「よし、血管繋がった。次は肉芽の強制結合……腱の伸縮を確認……」
フジは患者の絶叫など意に介さず、恍惚とした表情で魔法を注ぎ込み続けた。
数分後。
激痛のあまり失神したカノンの右腕は――傷跡ひとつ残らず、元通りに接合されていた。
やがて、カノンの右手の指先が、小さく、ぴくぴくと動いた。
「あっ……!」
動いた。本当に、元通りに繋がっている。
息を呑んで見守っていた仲間たちが、安堵のあまりへたり込んだ。
「……ふう。完璧な関節の嵌まり具合。美しいです」
フジは満足そうに息を吐き、いつもの陰気な表情に戻った。
「これで終わりです。……やっぱり、引きますよね。神殿でもそうでした」
フジは自嘲気味に俯いた。
「患者が痛がるからって、いつも途中で『拷問だ!』って魔法を止められて……」
治療中の態度から一転して自信なさそうに、言葉を選びながら語り出した。
「中途半端にしか治せないから、結局『役に立たない気味悪いやつ』って治癒師失格の烙印を押されて……ずっと、床掃除させられてたんです……」
フジは握りしめた両手を膝の上で組み合わせた。
「……昔ね」
「うむ」
「私、妹がいたんです」
隊員たちが顔を上げた。
「三つ下の。生まれつき、心臓が弱くて、ずっと寝たきりで。……私、あの子を治したくて、神殿に入って」
「……」
「でも、通常の治癒魔法じゃ、あの子の心臓は、少しずつ弱っていくのを止められなくて。だから私、もっと強い魔法を、もっと痛くていいから確実に治せる魔法を、独学で研究したんです」
「それが、その魔法か」
「はい。……でも、完成した時にはもう、あの子は」
フジは口を噤んだ。竹子は、それ以上を問わなかった。
「――私、あの子を痛がらせてでも、生かしたかったんです。眠るように綺麗に死なせてあげるより、泣き叫んでも、憎まれても、生きててほしかった」
フジは俯いたまま、小さく笑った。
「変ですよね。治癒師なのに、患者を痛がらせたがるなんて」
竹子は、静かに首を振った。
「変ではない」
「え?」
「私の故郷にも、似た考えの医者がいた。『痛みで済むなら、それは幸運だ。取り返しのつかぬのは、痛みではなく、失うことだ』と。……お前は、その医者と同じことを言っている」
フジは目を見開いた。
「命を落とし、剣士としての未来を永遠に奪われる痛みに比べれば、これしきの激痛など安い代償だ。痛みに耐えてでも仲間の未来を救えるのなら、お前のその力は、間違いなく至高の技である」
竹子は、フジの血まみれの両手を、両手で強く包み込んだ。
「お前は妹を、その手で生かせなかったと言うたな」
「……はい」
「ならば、今日ここで、お前は妹の代わりに、この娘を生かした」
フジの瞳が、揺れた。
「妹御は、お前のこの手を、誇りに思っているだろう」
「……っ」
フジは俯いた。長い前髪の隙間から、ぽつり、ぽつりと、静かな滴が床に落ちた。
「……ぐすっ」
「泣くな。……いや、泣いてもよい」
「泣いてません……ちょっと、埃が目に入っただけです……」
それは、あまりにも下手な嘘だった。
「お前の力は本物だ。……我が部隊に来い」
竹子の真っ直ぐな瞳と、決して自分を気味悪がらないその熱い言葉に、フジの胸がドクンと鳴った。
「あ、あの……」
その時、意識を取り戻したカノンが、汗びっしょりの顔で掠れた声を上げた。
「……あった」
「カノン!」
カノンは、震える右手で、そっと自分の左腕に触れた。次に、恐る恐る、右手で自分の頬に触れた。
温かい。昨日までと同じ、自分の右手の温度だった。
「私……腕……ある……。動きます……!」
フジはハッとしてカノンを振り返り、コミュ障らしく目を逸らしながらボソッと言った。
「……しばらくは、無理しちゃダメですよ。強く剣を振ると、腕、飛んでっちゃうかもしれませんから」
「えっ!?」
カノンが真っ青になり、竹子たちもギョッとして固まった。
「嘘です」
フジは悪びれもせず、ぽつりと言った。
「「「…………」」」
全身の力が抜けるような沈黙の後、隊舎の中にどっと安堵の笑い声が響き渡った。
(絶対に……絶対に戦場で怪我だけはしないようにしよう……!)
隊員全員の心に、これまで以上の固い決意が刻まれたのは言うまでもない。
***
その日の午後、イルミナは神殿の司祭の前に立っていた。勝手にフジを連れ帰ったことへの詫びと、彼女を正式に部隊の治癒師として譲り受ける交渉のためである。
「フジ? ああ、あの不気味でまともな治療もできん役立たずですか?」
老司祭は鼻で笑った。
「結構ですとも! あんな落ちこぼれ、どうぞお引き取りください。……まあ、一応は当神殿が育てた『資産』ですので、それ相応のモノはいただかねばなりませんがね」
暗に金を要求する肥え太った司祭に、イルミナは優雅な微笑みを崩さなかった。
「ええ、喜んでお支払いいたしますわ。……こんな『至高の宝』を、たったそれだけの金貨で譲っていただけるのですから」
異端の治癒師。フジ・パンサード。
彼女の治療は、死ぬほど痛い。だが、その腕は、本物だった。




