第拾伍話「初陣の夜風」
深い静寂に包まれた夜の森。
二つの月が樹々を青く照らし、青白い光の斑が下草の上に落ちている。
街道沿いの廃村――かつてフラットペインの民が住み、二十年前の国境紛争で焼き捨てられた無人の集落に、粗末な篝火が三つ、赤く揺れていた。
帝国が解き放った野盗――その実体は、フラットペイン領の街道と地形を調査するために送り込まれた斥候部隊である。総勢三十名。武装は鎖帷子、剣、弩弓、そして帝国正規軍の紋章が入った短杖――魔法兵が二名混じっている。
その篝火の光を、遠く離れた木々の暗がりから、竹子は無言で見つめていた。
草むらに伏せた頬に、夜露が冷たい。
右手に抱え込んだ夜叉霧が、微かに脈打つように熱を帯びている。まるで、この地の理に呼応し、戦を求めているかのようであった。
――柳橋の朝を思い出す。
あの朝も、こうして冷たい夜露を頬に感じながら、母と妹と、二十余名の同志と共に敵陣を睨んでいた。
あの日、隊は散った。
だが今日は、違う。
「……始めるぞ」
草むらに潜む竹子が静かに呟いた。
周囲の闇には、カラミーテの指示通りに配置についた志願兵たちが息を潜めている。
「竹子様、ご武運を」
後方で待機するカラミーテの合図と共に、竹子は一筋の風となって敵陣のど真ん中へ躍り出た。
「敵襲ぅッ! ――な、なんだ女一人だと!?」
「会津藩士、中野竹子! 参る!」
鋭い一閃。闇を切り裂いた夜叉霧の刃が、篝火の一本を叩き払った。
火の粉が夜空へ舞い上がる。
残った二本の篝火の炎に照らされ、竹子の姿が敵兵たちの視界に浮かび上がった。
「――囲め! 女一人だ!」
指揮官らしき男の声に、二十を超える敵兵が一斉に竹子を取り囲もうと動く。
だが、竹子は動かない。――動かないことこそが、囮の要諦だった。
己一人に敵の全神経を集中させれば、それだけ闇に潜む味方の姿は見えなくなる。
竹子は薙刀を回し、あえて派手に構え直した。
夜叉霧の刃が、月光を弾いて虹色に煌めいた。敵の目が、その煌めきに釘付けになる。
「今です! 敵の足止めを!」
高台からビアンカの透き通る声が響く。長弓から放たれた矢が、次々と敵の足を射抜いて行動を奪う。
「メリッタ、発煙筒を!」
「任せなさい! 試作品第一号、投擲!」
メリッタが放り投げた金属筒が、放物線を描いて敵陣の中央へ落ちた。
次の瞬間、凄まじい勢いで濃密な着色煙が爆発的に噴き出す。
煙の色は、青。夜目に映えて、視界を完全に塗り潰すはず――が、タイミング悪く、森を渡る風が逆向きに変わった。
青い煙は、敵陣を包む代わりに、竹子の潜んでいた側へ勢いよく流れ込んだ。
「……むっ!?」
「けほっ! けほッ……! め、メリッタ殿、これは!?」
煙の直撃を受けたディローザが、太い腕で目を覆いながら涙目で咳き込む。
遠くの高台から、ピナーレの悲鳴が響いた。
「そっちちゃう! 風下、竹子さん側や!」
メリッタが合図旗を振った。
「す、すみません! 風の方向、読み間違いましたぁー……!」
だが今は、その反省を口にする暇もない。
煙は失敗した。ならば。竹子は青い煙の中で、静かに笑った。
「構わん。……こちらが見えぬなら、あちらも見えぬ」
視界を奪われた敵と、視界を奪われた味方。
だが、この状況で最も利があるのは――薙刀の間合いと、闇夜の感覚を体得している側だった。
「突撃せよ!」
「うおおぉッ! けほっ、ぶっ飛ばす!」
ディローザが凄まじい怪力で大樹の幹を振り回し、混乱する敵陣の側面を叩き潰す。
予想外の煙と、側面からの理不尽な破壊力。完璧な奇襲を受けた敵部隊は浮足立ち、陣形は瞬く間に崩壊した。
十六歳の志願兵、カノンが駆け出した。
父の反対を押し切り、竹子の背中に憧れて戦場へ飛び込んできた、剣術師範の娘。
煙の向こうで、混乱した敵兵の一人が、槍を振うのコーディアの背にヤケクソのように襲いかかろうとしているのが見えた。
「コーディアさん!」
カノンが駆け寄る。
木剣が閃いた。
「なにっ!?」
敵剣士の刃を受け止める。
震える腕。だが、退かなかった。
「ここは……通しません!」
道場で何度も繰り返した型。身体が勝手に動いた。
カノンは敵の懐へ踏み込み、木剣を力いっぱい叩き込む。
「ぐっ!」
敵剣士がよろめいた。
「今です!」
コーディアが横から槍の石突きで打ち据える。
「ぐあっ!」
敵兵が倒れ伏した。
「や、やった……!」
カノンは息を切らしながら、呆然と自分の手を見つめた。
勝った。
自分が。戦場で。仲間を守った。
その瞬間だった。
「退け! 体勢を立て直せ!」
敵の指揮官らしき男が叫んだ。
煙の向こうで、戦意を喪失した敵兵たちが次々と闇夜へ逃走を始める。
「深追いするな!」
カラミーテの鋭い声が飛んだ。
「勝利条件は敵陣の制圧および斥候部隊の排除です! 追撃は不要!」
だが。
カノンの耳には、その声が届かなかった。
いや。届いていた。
それでも。
(私だって……戦える)
胸の奥が、これまで感じたことのない熱を帯びていた。
道場で父に叱られ、婦女子が剣を学ぶことを笑われ続けた十六年。
屋敷を飛び出す前夜、母は「戻ってきなさい」と言って泣いた。
でも、私は戻れない。戻ったら、私は、ただの「剣術師範の娘」に戻ってしまう。
竹子のように。自分も、もっと仲間を守れる。もっと、やれる。
一人でも多く。一人でも多く、敵を減らせば。――竹子様は、私を認めてくださるだろうか。
その、たった一つの純粋な願いが、少女の冷静な判断を致命的に狂わせた。
「待て!」
カノンは逃げる敵兵の背中を追った。
「カノン!」
竹子が叫ぶ。
「戻れ!」
だが、カノンは振り返らなかった。
あと少し。あと一人。目の前の敵を倒せば――。
「逃がしません!」
カノンが木剣を振り上げた。
その瞬間。
闇の中から、別の影が飛び出した。
「――ッ!?」
逃げていた敵兵は、追撃を誘い込むための囮だった。
闇の中から、別の影が滑るように飛び出す。
その男の身のこなしは、これまでの敵兵とは異質だった。防具も無く軽装な上に、腰には反りのある一振り。
それは、竹子のよく知る刀のようだった。
男は、抜き打ちで、木剣を一撃のもとに叩き斬った。
「戦場を舐めるな、生意気なガキがぁッ!」
「しまっ――」
太刀が閃いた。
カノンの腕を、凶刃が捉える。
鮮血が夜空へ舞った。
「あ――」
何かが地面に落ちた。
一瞬。世界から音が消えた。
「…………え?」
カノンが自分の右側を見る。
そこにあるはずのものが、なかった。
「あ……」
理解するまでに、ほんの数秒。
そして。
「ああああああああああああッ――!!」
少女の絶叫が、夜の森を切り裂いた。
「カノンッ!」
竹子の目が怒りに染まる。
一歩。踏み込む。
二歩。その距離が、一瞬で消えた。
「な――」
敵剣士が振り返る。
遅い。
「貴様ァッ!」
竹子の薙刀が閃いた。
一刀。敵剣士は悲鳴を上げる間もなく、その場に崩れ落ちた。
剣士の握っていた日本刀に似た刀には刃紋もなく、拵えも雑であった。
周囲では、すでに敵兵たちが完全に逃げ去っていた。
戦闘は終わった。
勝利だった。領境を脅かしていた敵斥候部隊は壊滅し、残った者たちも夜の闇へ逃げ散っている。
カラミーテの盤面通りの、完璧な初陣。――なのに。
「カノン!」
竹子は勝利を喜ぶことなどできなかった。
地面に倒れた少女を抱き起こす。
「息をしろ! カノン!」
「あ……ああ……」
「大丈夫だ! 死なせはせん!」
竹子は震える手で止血を試みる。
その横で、地面に落ちた少女の右腕が、青白い月明かりに照らされていた。
「竹子様……」
ビアンカが震える声で呟いた。
誰も答えなかった。
初陣は、勝利だった。作戦は成功した。敵を退けた。誰もがそう言える。
だが、竹子の腕の中で、カノンは泣き叫んでいる。
その声を聞きながら、竹子は痛感していた。――戦場に、完全な勝利などない。
「負傷者を運べ!」
竹子が叫んだ。
「全員、城下へ戻るぞ! 切断された腕を持て! 敵を深追いするな!」
その声に、誰も逆らわなかった。
勝利の歓喜は、どこにもなかった。一行は血の匂いと、少女の絶叫を抱えたまま、一刻も早く城下へ向かって夜道を駆け抜けていく。
二つの月だけが。その小さな背中たちを、静かに照らしていた。




