第拾肆話「散らぬための一番槍」
カラミーテの描いた盤上の戦術を現実のものとするため、竹子はただちに部隊の主要メンバーと志願兵たちを招集した。
長机の上に広げられた地図。その周囲には、イルミナを筆頭に、ビアンカ、ディローザ、メリッタ、ピナーレの姿がある。
さらにその後ろには、集まったばかりの志願兵たち――本日招集可能だった五名の女たちが、緊張した面持ちで控えていた。
剣術師範の娘、カノン。十六歳。「婦女子を戦場に出せぬ」と猛反対する父を振り切り、木剣一本を抱えて屋敷を飛び出してきた。
猟師の娘、オルペア。十九歳。先の戦いで父を喪い、森の獣道を熟知する猟弓の使い手。
そのほか、冒険者ギルドの受付嬢、亜人の混血の娘、旅の踊り子――皆、竹子が城下を歩いて見出し、あるいは自ら志願してきた者たちである。
竹子は地図の一点を指差し、淡々と作戦の全容を語った。
「敵をこの森へ誘い込む。ビアンカの弓とメリッタの罠で足を止め、ディローザたち伏兵が側面から陣形を崩す。そのための最も重要な役割――敵の目を引きつける『囮』と、撤退時の『殿』は、私が務める」
その言葉が落ちた瞬間。静まり返っていた室内に、最初に響いたのはカラミーテの冷ややかな声だった。
「竹子様が囮になること自体は、戦術として理にかなっております」
カラミーテは手元の扇子をゆっくりと弄りながら、竹子を見据えた。
「……ならば問題ないのでは?」
「いいえ。問題は、その後です」
「その後?」
「竹子様が死んだ場合、全員の指揮系統が崩壊いたします」
カラミーテは扇子で盤上の一点を指した。そこには、先ほど竹子自身が「囮」として置いた駒があった。
「盤面で言えば――こういうことです」
パチン、と扇子の音が響く。カラミーテは盤上から竹子の駒を取り上げ、脇に置いた。
「隊長を失った盤面で、残された駒たちがどう動くか。……お分かりになりますか?」
竹子は無言で盤面を見た。柵は残っている。罠も残っている。だが、それらを指揮する中心が消えている。
「兵は各自の判断で動き、統率は乱れ、罠は無駄に消費され、最悪の場合――」
カラミーテは目を伏せた。
「――全員が、あなたの後を追うことになります」
カラミーテの指摘に竹子が答えるより早く、今度はメリッタが身を乗り出した。
「……却下です」
「なぜだ?」
「あなたが囮になった場合、敵があなたを殺さないという保証がどこにもないからです」
「それは当然であろう。戦場なのだから」
「当然ではありません! あなたが死んだら、私が作った道具を誰が使うんですか!」
メリッタは苛立たしげに眼鏡の位置を直した。
「私の発煙筒はまだ試作段階です。実戦で使うのは今回が初めてなんですよ。あなたが死んだら、正確な実験結果のデータが取れないでしょう!」
「だからどうしたと言うのだ」
「……それに」
「?」
「せっかく、私を必要だと言った人が……こんなところで死ぬのは……その、非常に、非効率です」
そっぽを向きながら早口で捲し立てるメリッタ。だが、その油まみれの手は、机の下でぎゅっと作業着の裾を握りしめていた。
「私はね、武人さん。あなたに『兵站を制する者が戦を制する』と言われた日から、三日三晩、寝ずに補給計画を練り直したんです」
「三日三晩、だと?」
「ええ。あなたのために作った兵糧の運搬計画も、負傷者搬送の経路も、全部あなたが指揮を執ることを前提に組んでいるんです」
メリッタは眼鏡の奥で、初めて竹子を真っ直ぐに見た。
「私の計画を、あなたの死で台無しにされるのは……その、非常に、非効率です」
竹子はわずかに目を瞬かせた。素直に「心配している」と言えない偏屈な技術者なりの、不器用な抗議だった。
「ほな、うちがもっと細かく探ってきましょか?」
続いて声を上げたのは、部屋の隅に控えていたピナーレだった。
「何?」
「敵がどんな奴らか、うちがもっと調べます。敵の指揮官の癖、酒を飲む時間、見張りの交代時間、馬の数。なんでも調べ尽くします」
「ピナーレ、そこまでしなくとも――」
「それが分かれば、敵の『目』が読めます。囮をそこまで危険に晒さんでも済みますやろ?」
ピナーレは真剣な瞳で竹子を見た。
「うちは剣では戦えません。だから、情報で戦うんです。あなたを死なせへんために」
次々と上がる異論。だが、理屈ではなく、最も純粋な感情でそれに噛みついたのはディローザだった。
「だめ」
ディローザは竹子の前に立ち塞がり、きっぱりと言い放った。
「ディローザ?」
「タケコ姐さん、だめ」
「私は隊長だ」
「だめ」
「……」
「姐さんが死んだら、ディ、いや」
獣人の少女の黄金色の瞳が、竹子を真っ直ぐに射抜く。それは、竹子の中に潜む「死への覚悟」を、誰よりも本能的に察知した獣の嗅覚だった。
「ディが囮になる!」
「ならぬ」
竹子は短く切り捨てた。
「お前はまだ若い。未来がある」
「姐さんも若い」
「私は――」
「姐さんも、ディローザと同じくらい若い!」
ディローザの叫びが、部屋の空気を揺らした。
竹子は何かを言いかけたが、ディローザからそっと目を逸らせた。
――しん、と部屋が静まり返った。
誰も、次の言葉を継げなかった。カラミーテの理屈も、メリッタの照れ隠しも、ピナーレの提案も、すべてが「隊長の死」という一点に集約されて、部屋の空気を重く沈めていた。
その沈黙を、破ったのは。
「……ふざけないで」
バンッ! と、机を叩く激しい音が室内を震わせた。
立ち上がっていたのは、ビアンカだった。エルフの長い耳が怒りに震え、その美しい顔は蒼白になっている。
「ビアンカ殿?」
「囮? 殿? ……ああ、そう。あなたは『大義』とか『武士道』とかっていう、立派な理由を持っているんだったわね」
ビアンカの声が震えている。彼女は竹子を睨みつけ、そして、その後ろで青ざめているカノンたちをも指差した。
「こいつら全員、竹子が死んだらどうなると思ってるの!?」
「っ……」
「あなたが囮になる。あなたが殿を務める。そして、あなたが立派に死ぬ。……じゃあ、残された私たちはどうするの!?」
ビアンカの脳裏にフラッシュバックしていたのは、かつて所属していた部隊の最期だった。
――「名誉のために散れ」と告げた隊長の背中。
――その号令で、無謀な突撃に散った部下たち。
――そして、生き残ってしまった自分に「なぜ隊長を止めなかった」と詰め寄る、部下たちの家族の慟哭。
あの日から、ビアンカは「立派に死ぬ指揮官」を、この世で最も憎むようになった。
「私が一番我慢ならないのは、死を美化する指揮官よ!」
ビアンカは、道場で木剣しか振ったことのないカノンや、本物の軍隊とは戦ったことのないオルペアたちを振り返った。
「この子たちは戦場の素人よ! あなたがここで立派に死んで見せたら、指揮官を失ったこの子たちがどうなるか分からないの!? また誰かが死ぬのを、ただ黙って見ていろと言うの!?」
悲痛な叫びが部屋に木霊した。
誰もが息を呑み、沈黙が降りた。
――と、その沈黙を、震える小さな声が破った。
「……竹子様」
声を上げたのは、剣術師範の娘・カノンだった。まだ十六歳の少女は、木剣を握る手を震わせながら、それでも真っ直ぐに竹子を見上げていた。
「あの……私は、剣術は父から習いましたけど、本物の戦は、初めてで……」
「うむ」
「もし竹子様が、囮としてお倒れになったら……私、どうすれば、いいんですか」
幼く、率直な問い。それは、この場の誰も口にできなかった、志願兵たち全員の心の声だった。
「私、竹子様が『帰るぞ』と言ってくださるから、剣を握れるんです。竹子様がいなくなったら……私は、また、屋敷の奥に戻るしか、なくなります」
カノンの瞳から、透明な涙が一粒零れた。
竹子は、その少女をじっと見つめた。
己が死地に赴くこと。それが結果として、残される者の心にどれほどの絶望と呪いを残すか。かつて会津で少年たちを見送り、生き残ってしまった竹子自身が、誰よりもその痛みを理解していた。
「……その通りだ」
竹子は反論しなかった。怒ることも、大義を説くこともせず、ただ静かにビアンカの悲鳴、カノンの戸惑いを受け止めた。
「命を使い潰し、死を強要する。それが武士道であるのなら、それは腐っている」
「……だったら!」
「だからこそ、私は、誰一人死なせぬために戦う」
竹子は顔を上げ、黒曜石の瞳で真っ直ぐにビアンカを、そして仲間たちを見据えた。
「死んで潔しとする武士道は、私の故郷と共に置いてきた。私は死ぬために囮になるのではない。誰一人、死なせぬために一番槍へ行くのだ。……だから、安心しろ」
竹子の声には、一切の迷いも、死への陶酔もなかった。あるのは、己の行動原理――全員を生かすという純粋で強固な意志だけだった。
「…………」
ビアンカは言葉を失った。かつての無能な隊長とは違う。彼女は自らの命を捨てる気など毛頭なく、ただ全員を生かすための役割として前へ出るのだ。
「……勝手にしなさい」
ビアンカは顔を逸らし、舌打ちをした。だが、その手はしっかりと、愛用の長弓を握り直していた。
「私が弓で援護するからには、死ぬことは許さないわよ。もし無様に死にかけても、見捨てて逃げてやるんだから」
憎まれ口を叩くエルフの狙撃手に、竹子は深く頷いた。
「……殿は、どうするおつもりですか」
静かに問うたのは、カラミーテだった。竹子は少し考えてから、答えた。
「殿は、私は務めぬ」
「ほう?」
「囮と殿の両方を一人で背負うのは、貴女の言う通り、指揮系統の崩壊を招く。……殿は、二人体制で頼みたい」
竹子はビアンカとオルペアの二人に視線を向けた。
「ビアンカ、オルペア。撤退時、二人で最後方の弓を張ってくれ。追撃してくる敵を、遠間から確実に足止めしろ」
「……ええ、それが私の役目でしょうね」
「わ、わたし、ですか……頑張ります……!」
猟師の娘・オルペアが、震える手で猟弓を握り直した。カラミーテが、盤上の駒を二つ、殿の位置へと静かに置いた。
「これで、竹子様が万一倒れられても、二人が最後の弦を張り続けます。指揮系統は、私が引き継ぎます」
理屈で諭すカラミーテ、不器用に心配するメリッタ、情報を武器にするピナーレ、真っ直ぐに慕うディローザ。
そして、震える手で剣の柄を握るカノンや、不安げに猟弓を抱き寄せるオルペアたち。
まだ互いのことすら、完全には分かっていない。
それでも、この場にいる誰一人として、誰かを死なせるために集まった者はいなかった。
「では、行こう」
竹子が静かに言った。
「全員で帰るための戦を始める」
誰も、応とは答えなかった。
だが、竹子を見つめる十一人全員が、それぞれの武器に手を添えていた。
剣に、弓に、扇子に、レンチに、獣の爪に、そして――言葉に。
窓の外では、二つの月がゆっくりと傾き始めていた。
あと一日。遊撃隊十七名。初陣の朝が、静かに近づいていた。




