#5 妖精の樹海、その守人
妖精の樹海――人間界から乖離しているかの如き不思議な力の流れる場所。
この世界の一割を占めるほど広大な深山窮谷で、人の手による調査も全く行われていないほどの未開の地。
体内に種族特有の魔力を有して生まれてくるこの世界の人間にとって、この森の力は多少なりとも悪影響を及ぼす。その力が大きければ大きいほど、近寄ることが困難となるわけだ。
それもあって、普通の人々はもちろん、国力を強めたいと考える者達でさえ、この場所へ侵攻することを考えることは無い。森の中で力を強めた魔物に蹂躙されることが分かっていて、不用意に手を出す馬鹿もいないだろう。
『――ん? なんだろう?』
「どうしたんだ? シエラ」
『森で荒れるものがある……『プヴォロ』と――人間が二人』
「ほぅ? 私の他にも物好きがいたもの……いや、あるいは罪人の類か?」
そんな木々で満ちた森の中で、対話する存在が在った。
片や、皮製でボロボロのロングコートを身に纏った人間。
かつてよりもほんの少しだけ癖っ気がつき、それでもなおまだまだ美しいと言える長い銀の髪を持つ女性。
未だ曇らぬ翡翠色の瞳が放つ眼光は何処までも強く、真っすぐ相手の示す方角へと向いていた。
一方、その彼女に話しかけていたのは、幼子よりも小さな体を持つ存在。
淡い緑色の光に包まれているのは、この樹海に愛されている者である何よりの証。人の姿ではあるが、どこか植物と一体化しているかのような風貌。そして、特徴的な長い耳。
愛くるしい見た目や声とは裏腹に、話す言葉は流麗で、聡明さを醸し出していた。
『さぁ? でも、本来この森で生きていける人間が辿り着ける訳のない所まで進んできてるね。両方とも、元々宿している魔力の量がそれほど多くないのかも』
「ふむ……だが、この場所に適応出来る程度の魔力量であれば、おそらくは森の一番手前辺りで命を落としてしまうはず。よほど運が良いのか……いずれにせよ、随分特殊な人間らしいな」
『……それ、あなたが言う?』
小人は呆れるように女性をまじまじと見つめていた。
ここまでで分かるように、こんな――この樹海の中でもかなり深く、力も濃い場所であっても平気で経っていられるような人間の方が、よほど珍しい……そう言いたげな視線を向けられても、女性本人は特に何とも思っていない様子であった。
「――でもまぁ誰がどうであれ、プヴォロを野放しにしておくわけにもいかないか。下手すればエルフの集落だって襲われかねないし、シエラとの”約束”を破るわけにもいかない」
『当然よ。『契約』は、絶対なのだから。……さ、そうと決まれば早速行ってみましょうか。あの程度の力の持ち主相手、あなたなら何の心配も必要ないしね――――ミシャリーゼ』
「――ディナル様!!」
「くっ……!? 森に入ったのはいいが、なんなんだこの化け物は……!」
第二王子ディナル・ゼルトースの異例の国外追放から今に至るまで、実に三日が経過していた。
長年相棒として一緒に戦ってきた愛剣……そして、家族の反対を押し切って彼へとついていくことを即決したリーナと共に、ある一縷の希望を求めて樹海へと足を踏み入れた彼らであったが、そこでとうとう相対した存在が今立ちはだかり、その二つの小さな命を刈り取らんと蠢いていた。
それは、体長五メートルは優に超えるほどの恐るべき体躯を誇る巨大な熊。
丸太のような上腕、物語などに出てくる狂暴な狼を彷彿とさせる鋭い牙に、これまでその熊が超えてきた修羅場の数を表すかの如き全身の傷。
その図体からは考えられないほどの敏捷性を誇り、放たれる一撃は木の幹をまるでか細い枝のようにへし折ってしまう。
「これが……悠久の時、人間を拒み続けてきた樹海……凄まじい洗礼だな……!」
そんな攻撃をなんとか掻い潜り、ディナルは熊へと肉薄。懐へと入った途端に向こうは攻撃を止め、即座にディナルへのしかからんと重力にその身を任せた。
なんとかそれを間一髪側方へ転がって回避すれば、今度は円舞の如き身の回転と共に蹴りが飛んでくる。間に剣を挟んで受け止めても、それすら意味を成さない。ディナルの体は大きく後方へと吹き飛ばされる。
(パワー、スピードはもちろんのことながら……異様に知能が高い……! これが、本当に動物なのか!?)
ディナルは戦慄を覚えた。まるで人間でも相手にしているかのような熊の戦いぶりに。
(とんでもないな……! あの流れるような攻撃の全てを、こいつは本能で繰り出しているというのか……!!)
彼だって、剣の腕には自信があった。驕りではない。王国騎士団の中でトップとまではいかないが、それでも実力者とされている者達との真剣勝負にて対等に渡り合えるほどの力は有している。
だが――敵わない。誰も知らない森の中に潜んでいた怪物。先人らがどうしてこの場所に立ち入る事を拒んだのかを、ディナルはここでようやっと理解したのだ。
「――私が囮になります……ディナル様はその内に……!!」
「馬鹿を言うな!! そんなことが出来るか……それに、今だけは、私に帰る場所など無い……ゼルトース王家としての誇り、意地……一人の男として、俺がこの場を引くことなど――――!!」
「よく言った。これで私も気持ちよく、お前達を助けることが出来る」
「っ、誰だ!?」
刹那、巨獣へと抗う者らはその声を聞いた。こんな危険な場にて聞けるはずもないほど穏やかで大人びている声。
落ち着くことなど不可能であるこの森にて、どうしてか底知れぬほどの安心感を与えてくれる……そんな声色だった。
「さぁて、まだ誰も殺してないみたいだし、少々痛い目見せるくらいに留めてやるとしようか――なっと!」
凄まじい速度と常人離れした動きで、森の更に奥深くから木の枝を伝ってやって来た一人の女性。銀髪を靡かせてディナルの目の前に勢いよく着地したかと思えば、その勢いを殺すことなく次は前方――熊の方へと飛び込んだ。
「なんて動き……って、あの人――」
「そらっ、苛ついているのだろうが……私の知ったことではない。失せろ」
その瞬間。懐から取り出した何やら黒い液体の入った、手でつまめるサイズの小瓶の蓋を開け、それを熊の目元めがけて容赦なく振り撒いた。
すると、熊は凄まじい雄叫びを上げて狂ったように暴れ始める。奴を襲っているのであろう強烈な臭いと鋭い痛みが、元凶たる女性を破壊せんとその体を突き動かすのだ。
だがそれも、何の意味もなさずに終わることとなる。荒ぶるその凶撃も、その人間を捉えるに至った一撃でさえ――――いとも簡単に止められてしまったのだ。
「失せろ。と、私は言っているんだ……!!」
放たれた熊の腹部への蹴り……揺らぐことのない強者であった熊の無防備な腹は筋肉あれど柔らかく、そのまま今度は自分が大きく後方へと吹っ飛ばされた熊は、訳も分からぬまま本能のままにその場を離れ、逃亡するに至ったのだ。
「さて、そちらの。怪我は無いか? ……どうした? 二人して黙り込んで」
「どうして……貴方様がここに……?」
「…………っはは……! まさか、こんな所で、また逢えるとは……!!」
首を傾げるその女性と目が合う度、リーナは驚愕と疑問が溢れ、ディナルは得も言われぬほどの喜びと再会できたことによる感動を噛みしめているようであった。
「……お久しぶりです――――ルーロ殿」
「その感じ……まさか、少年っ――ディナル王子か……!?」
天の悪戯か、それとも…………ともかくその再会は、間違いなく喜ぶべきものだ。だってそれは何がどうであろうと、ディナル・ゼルトースの縋っていた希望そのものだったのだから。




