#37 明らかなる無知
しかし、ディナルの安堵とは裏腹に……
「シエラ様! よくぞいらしてくださいました!」
「ククノチシアの狩人総出で用意いたしました馳走の数々、是非ともご賞味いただければ!」
「あっ、シエラ様だ! かわいー!」
『ちょっ、ちょっと皆、落ち着いて……あははは……』
そのシエラこそが、今まさに問題の種となっていたのだ。
トラブルや諍いの類ではない。だが彼女の妖精族内での立場というものが、平穏な街散策をストップさせてしまっていることは事実であった。
老人から小さな子供まで、老若男女問わずエルフの全員がシエラにへと押しかける。かつて在った心の拠り所――自分達の王を失ったことによって、それが今彼らの中では彼女へと置き換わっているのだ。王の血を継ぐ、正当な次なる王の器たる存在に。
「凄い人だかりですねディナル様。……いや、エルフだかり?」
「やはり、相当に慕われているのだな、シエラ殿は」
そんな風にもみくちゃになった街の広場の様子を少し離れた……というより、シエラに迫る他の者達によって押し出されてしまったその場にて眺めていたディナルとリーナは、笑顔の絶えない空間につられるように微笑んでいた。
「ここに来る前は、もっとこじんまりとした場所だと勝手に想像していたよ」
「まぁ、里って言うくらいでしたからね。私もそんなイメージでした」
シエラに群がっている者らは、ぱっと見でも五百人は超えている。今いる小さな広場が八割ほど埋まってしまうほどである。
もちろん、これでククノチシアのほとんどが集まっているわけではない。ミシャリーゼ達のように、他の場所にて楽しんでいる者も大勢いるのだ。
これだけの大所帯。それがこのような森の奥にて形成されているのだから、ずっと樹海の外……人国にて過ごして来た二人にとっては、未だに信じられない光景だった。
「……世界って広いんですね。毎日城に籠って働いていた時には、想像すら出来ませんでした……地図で見るそれだけが全部で。本当のそれなんて知ることもなくて……」
妖精の樹海はあまりにも広い。小国数個分という広大な面積を誇るこの森は、これまでどのような強国であっても踏み入ることのなかった完全なる未知の世界。
誰も知らない。誰も見たことがない。そして、それを知ろうと足を踏み入れた人間は、もれなくその命を落としている。実際、ディナル達もミシャリーゼがいなければ……一ヶ月前のあの日、おそらくは大熊プヴォロに命を駆られていただろう。
それほどの危険地帯。そこに生ける誰もが、糧を得て明日へ進むために日々命をかけて暮らしている殺伐とした場所…………そんなイメージを抱くのが、普通なのだ。こんな、このような楽しげな雰囲気を味わえるような場所や時間などがあるだなんて、来るまでは信じることなんてできなかった。
「それでも、この場所だって森のほんの一部分に過ぎないのだろう。エルフの里だって他にもあるみたいだし、堕鬼族のそれも……そして、今もなお戦いの続いている場所……が――――」
「……? ディナル様、どうしたんです?」
そのように語るディナルが、そこまで言うと突然固まってしまう。続けて発さんとしたそれも完全に止まり、まるで彼の時間だけが止まってしまったかのように動かない。
(そうだよ……『戦争』してるんだよな……? 今、妖精族と堕鬼族って……)
それは、猛獣や樹窟で見た魔物としか未だ戦闘経験のないディナル達だからこそ、実感なく忘れかけていたこと。この楽しい雰囲気に流されるがまま、頭の中から消えかけていたもの。
己が師、ミシャリーゼ・ルーロとシエラの間に交わされた契約――共に戦うという、その内容。堕鬼族との種族間戦争は、おそらくまだ続いているはずなのだ。
だというのに、まるでそれが集結し、全てが丸く収まったかのようなお祭り騒ぎ。意識した瞬間、そんな考えがディナルの中で妙な気持ちの悪さへと変わっていく。
(俺が知らないだけで、今は停戦しているのか……? それとも、このような催しが出来るほどの余裕が妖精族側にあるのか……はたまた、この日だけは特別ということなのか……?)
考えれば考えるほど、様々な疑問と推測がどんどん浮かんでくる。それほどまでに、今この状況が奇妙なものに思えてならなかった。
「…………」
そんな自分自身の突然変わった思考に、本人が一番驚いてしまっていた。
何を疑うことがあろうか。だがしかし、何も知らない故に考えてしまっている。本当は、戦争なんてやってないんじゃないかと。
そのようなことがあるはずないのは重々承知している。それでも、与えられた情報と実際目の当たりにし、体感している現実との間には、確かに大きなギャップがあった。埋めて自己完結するには、あまりにも大きすぎる隔たりが。
「――様…………ディナル様!」
「……っと、すまない」
「大丈夫ですか? いきなりぼーっとしちゃって、気分でも悪いんですか?」
「いや、そうじゃないんだ。本当に」
思考の奥深くに身を投じていたディナルが隣にいるリーナの声に気付いたのは、四回目の声掛けから少しばかり遅れてからだった。
「……俺も思っただけだ。本当に、何も知らないんだなって」
この森の事を、まるで分かっていない。それを痛感するには、十分すぎるほどの時間を過ごして来た。
ただ強くなるために、ひたすら教えを乞うた。それだけに没頭した。肉体的限界の突破のみに時間を費やし、人国の時から変わり果てた環境については、特に深く考えてこなかったのだ。
確かに、この樹海に来てからディナルは瞬く間に強くなった。今までよりも体がよく動くし、戦闘の幅も、立ち向かえる敵の強さというものもどんどん高まっている…………だが、それだけでは駄目なのだ。
もっと知らなければならない。この場所で起こっていること……それを、出来る限り。ディナルは群衆を眺めながら一人、確定しているわけでもない情報に対する不安と共にそう意識することとなった。




