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小室泰六(SHERLOCK)― Londonの遺恨、夢の中の十三番目の鐘  作者: 東曌


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第八話 報告書を書いた男

第八話 報告書を書いた男


 ハロルド・ピアースの住所を探し出すのに、二日かかった。


 かつて警察の巡査部長だった男は、数年前に退職し、ロンドンの中心部から少し離れた住宅地で暮らしていた。グレゴリー元警部が教えてくれた情報は古く、最初に訪ねた住所には、すでに別の家族が住んでいた。二人は近隣の住民から話を聞き、ようやく新しい住所を突き止めたのである。


 その家は、こぢんまりとしていたが、よく手入れされていた。玄関先には鉢植えが並び、窓辺には白いカーテンが掛かっている。ホームズが呼び鈴を鳴らすと、しばらくして、白髪の男が扉を開けた。


「ピアースさんでしょうか?」


「そうですが。何か?」


「シャーロック・ホームズと申します。こちらは友人のワトスンです。十年前のアーサー・ヴェイル失踪事件について、少しお話を伺いたいのです」


 男の顔から、わずかに笑みが消えた。


「ヴェイル事件……。ずいぶん昔の話ですな」


「ええ。だからこそ、当時の記録について確認したいのです」


 ピアースは二人を見比べ、やがて扉を大きく開いた。


「どうぞ。私の記憶が、どこまで役に立つかは分かりませんが」


     *


 居間には、古い書棚と、使い込まれた机があった。机の上には新聞と手紙が置かれ、その隣に、革表紙の小さなノートが積まれている。


 ピアースは二人に椅子を勧め、自分も向かいに座った。


「私は、あの事件の最初の報告書を書きました。記録を見つけられたのですね?」


「はい。あなたが書いた報告書には、マーサ・ベルの証言について、十二時の鐘が鳴り終わったあとに、もう一つ鐘のような音を聞いた、と記されています」


「そうでしたか」


「ところが、後に作成された事件概要には、『十三回の鐘を聞いた』と書かれていました。この表現について、何か覚えておられますか?」


 ピアースは、しばらく目を閉じた。


「はっきりとは覚えていません。ただ、私が最初に聞いた話は、あなたのおっしゃったとおりだったと思います。彼女は、鐘を数えたとは言っていませんでした」


「では、十三回という表現は、あなたが書いたものではないのですか?」


「最初の報告書には書いていません。しかし、その後の事件概要を誰がどのようにまとめたのか、私には分かりません。私の報告書が上へ回されたあと、別の担当者が事件全体を整理したはずですから」


 ホームズは静かにうなずいた。


「その際、あなたに確認はありましたか?」


「覚えていません。あったとしても、十年も前のことです。私は当時、毎日いくつもの事件を担当していました。すべてを記憶しているわけではありません」


 ワトスンは、ピアースの表情を注意深く見ていた。彼は何かを隠しているようにも、単に昔の記憶をたどっているようにも見えた。


 ホームズは、急いで結論を出さなかった。


「もう一つ、お尋ねしたいことがあります。事件の夜、書斎の暖炉のそばに、片方の手袋が残されていたと記録されています。発見したのは誰だったのでしょう?」


「それも、報告書には記録されていなかったのですか?」


「発見者の名前はありませんでした」


 ピアースは眉を寄せた。


「確か……屋敷の者が最初に見つけたのではなかったかと思います。しかし、誰だったかまでは覚えていません。私は現場で見たものを記録しましたが、すべての品物を自分で発見したわけではありませんから」


「その手袋が、アーサー・ヴェイルのものだと確認した人物は?」


「それは……」


 ピアースは言葉を切った。


「エドマンド氏がそう言ったのではなかったでしょうか。ただ、これも記憶です。記録を見ずに断言することはできません」


「ありがとうございます。断言できないことを、断言できないとおっしゃってくださるだけで十分です」


 ホームズはそう言ったが、ピアースは少し居心地が悪そうに身じろぎした。


「私は、警察官として当然のことをしていただけです」


「その当然のことが、十年後にも必要になる場合があるのです」


     *


 しばらくして、ピアースは立ち上がり、書棚から一冊のノートを取り出した。


「正式な記録ではありませんが、当時、私は個人的な覚え書きを残していました。すべての事件についてではありません。気になったことや、あとで確認しなければならないことを書き留めていたのです」


 彼はノートをめくった。


「ヴェイル事件の記録があるかどうかは分かりませんが、少し探してみましょう」


 ホームズとワトスンは、黙って待った。


 ノートには、事件の日付や人物名、短い備忘が記されていた。ページの端には、後から書き加えたらしい数字もある。ピアースは何冊かを確かめ、ようやく一つの頁で手を止めた。


「あった……。これです」


 ホームズはノートを受け取らず、まずピアースに続きを促した。


「何と書いてありますか?」


 ピアースは、眼鏡を掛け直して読み上げた。


「『ヴェイル家。家政婦、十二時の鐘のあとに別の音を聞いたと話す。出所不明。本人は回数を数えていない。屋敷の者、手袋をアーサーのものと認識』……」


 彼はそこで読み上げるのをやめた。


「最後の部分は、少し気になりますね」


 ホームズが言った。


「手袋をアーサーのものと認識、とあります。誰が認識したのでしょう?」


「名前がありませんな」


「あなた自身が、手袋の持ち主を確認したのですか?」


「いいえ。少なくとも、私が本人の持ち物だと確かめた記憶はありません」


 ピアースはノートを見つめた。


「どうやら、誰かがそう説明したのを、私はそのまま書いたのでしょう。あるいは、現場にいた者の話をまとめたのかもしれません」


「つまり、あなたの覚え書きも、直接確認した事実と、誰かから聞いた情報が混在している可能性がある」


「そういうことになります」


 ホームズは、しばらく考え込んだ。


 最初の報告書は、鐘の音について慎重だった。だが、手袋については、持ち主の確認に至る過程が曖昧なままだった。そして、ピアースの個人的な覚え書きにも、誰が手袋をアーサーのものと認めたのかは記されていない。


 この二つの記録は、同じような問題を示していた。


 誰かが見たものと、誰かがそうだと説明したもの。その境目が、記録の中で失われていたのである。


     *


「ピアースさん」


 ホームズは、机の上のノートを指さした。


「もう一つだけ。アーサー・ヴェイルが失踪する前に、警察へ連絡を取ろうとしていたという話はありませんでしたか?」


 ピアースは顔を上げた。


「警察へ?」


「彼は帳簿を調べていたそうです。仕入れの記録に食い違いがあった。何かを確かめようとしていた可能性があります」


「帳簿のことは、覚えていません。しかし……」


 ピアースは言葉を探した。


「事件のあと、エドマンド氏が、弟は何かを心配していたようだ、と話した記憶があります。具体的に何を心配していたのかは、聞かなかったと思います」


「それは、事件の前の話ですか。それとも、失踪したあとですか?」


「失踪したあとです。少なくとも、私がその話を聞いたのは、事件が起きてからでした」


 ホームズはうなずいた。


「分かりました。では、事件の前にアーサーが警察へ何かを伝えようとしたという証拠は、今のところないわけですね」


「ええ。私が知らないだけかもしれませんが、少なくとも私の記憶にはありません」


 ワトスンが尋ねた。


「エドマンド氏は、弟の失踪について、どのように説明していましたか?」


「弟は自分の意思で姿を消したのだ、と。書斎が内側から施錠されていたことや、窓が閉まっていたことから、誰かが侵入して連れ去ったとは考えにくい、と話していました」


「その説明を、あなたは信じたのですか?」


 ピアースは、少し考えてから答えた。


「信じたというより、当時の証拠からは、それが一つの可能性だと考えました。少なくとも、殺人を立証できる証拠は見つかりませんでしたから」


 ホームズは、その言葉を聞いて、ゆっくりとうなずいた。


「あなたは、アーサーが自分の意思で去ったと断定したわけではないのですね」


「そうです。私は、証拠から分かる範囲で報告したつもりです」


「それならば、最初の捜査記録と、後にまとめられた事件概要を区別して考える必要がありますね」


 ホームズは立ち上がった。


「ピアースさん、貴重な記録を見せていただき、ありがとうございました」


 ピアースはノートを閉じ、少し疲れた顔で笑った。


「十年も前の事件が、今になってまた問題になるとは思いませんでした」


「私も、もう解決したと思っていました。しかし、解決したと思うことと、事実がすべて明らかになったことは、必ずしも同じではないようです」


     *


 帰り道、ワトスンはしばらく黙っていた。


 やがて、彼はホームズの横顔を見ながら尋ねた。


「君は、ピアースを信用するのかね?」


「彼の言葉を、すべて事実だと決めつけるつもりはない。彼自身が、十年前の記憶には曖昧な部分があると認めている。しかし、彼の話と現存する記録が一致する部分はある」


「最初の報告書に、十三回という表現がなかったことだね」


「そうだ。そして、手袋の持ち主についても、彼が直接確認したという記録はない」


 ホームズは歩みを緩めた。


「ワトスン、私たちは今、事件を解いているというより、事件について作られた説明を一つずつ調べているのかもしれない」


「説明を調べる?」


「そうだ。最初は、アーサーが失踪したという事実があった。そのあとで、書斎が内側から施錠されていたこと、手袋が残されていたこと、鐘の音が聞こえたことが記録された。そして、それらの事実を結びつける説明が作られた」


「アーサーは自分の意思で去った、という説明だね」


「そのとおりだ。だが、説明は事実そのものではない。説明に都合のよい証拠だけを見ていると、都合の悪い事実が見えなくなる」


 ワトスンは、少し考えてから言った。


「では、次に調べるべきなのは、エドマンドが説明したことと、実際に確認されたことの違いだろうか」


「それも必要だ。しかし、私はもう一度、あの家の書斎を調べたい」


「書斎を?」


「そうだ。扉が内側から施錠されていたことは、誰が確認したのか。鍵はどこにあり、誰が拾ったのか。窓が閉まっていたという記録は、どの時点の状態を指しているのか。十年前の報告書には、まだ確認できていないことが残っている」


 ホームズは、通りの向こうに見える教会の塔を見た。


「鐘の音は、事件の夜に起きたことの一つにすぎない。だが、書斎が閉ざされていたという事実は、アーサーがどうやって姿を消したのかを考えるうえで、避けて通れない」


     *


 その夜、ベイカー街の居間で、ホームズはピアースの覚え書きを写した紙を机に置いた。


 彼は、その内容を三つに分けて整理した。


 第一に、マーサは十二時の鐘のあとに別の音を聞いたが、その出所は分からなかった。


 第二に、手袋はアーサーのものだと認識されていたらしいが、誰がそう確認したのかは分からなかった。


 第三に、アーサーが帳簿について何を知っていたのか、事件前に誰かへ相談していたのかは、まだ明らかになっていなかった。


 ホームズは、その三つの項目をしばらく見つめていた。


「ワトスン、私たちは十年前、分からないことを、分からないまま残しておくべきだったのだろう」


「しかし、捜査には結論が必要だ。いつまでも分からないと言っているわけにはいかない」


「そのとおりだ。だが、結論を出すことと、疑問を消してしまうことは違う」


 ホームズはペンを置いた。


「明日は、書斎をもう一度調べる。扉と窓、鍵の位置、そして暖炉の周辺だ。誰かが出入りできたかどうかだけでなく、当時の記録が何を確認し、何を確認していなかったのかを調べたい」


 ワトスンはうなずいた。


 十年前の事件は、すでに一つの物語として完成していた。


 弟は姿を消した。書斎は閉ざされていた。手袋が残されていた。鐘は十三回鳴った。


 しかし、その物語を支える記録を一つずつ確かめていくと、確かな事実と、誰かの説明と、後から加わった解釈が、同じ文章の中に混じり合っていることが分かってきた。


 ホームズは、最後にもう一度、ピアースの覚え書きを見た。


 そこには、短い一文があった。


 ――本人は回数を数えていない。


 その言葉は、十年前の事件を解く鍵になるのかもしれなかった。


 だが、まだ鍵穴の形さえ分からない。


 ホームズは紙を折り、事件の資料とともに封筒へ収めた。


 明日、彼らは再びヴェイル家の書斎へ向かう。


 そこで見つかるものが、事件の答えに近づけるのか。それとも、これまで信じてきた説明を、さらに複雑にするのか。


 それは、まだ誰にも分からなかった。

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