第七話 帳簿の中の空白
第七話 帳簿の中の空白
翌日の午後、シャーロック・ホームズとワトスンは、再びエドマンド・ヴェイルの時計工房を訪れた。
工房には、歯車の触れ合う細かな音と、振り子の規則正しい往復音が満ちていた。壁に掛けられた時計は、それぞれ微妙に異なる時刻を示している。修理中の時計がいくつも作業台に並び、机の隅には小さなねじや工具が整然と置かれていた。
エドマンドは二人を見ると、手にしていた拡大鏡を置いた。
「またですか、ホームズさん。今度は何をお調べになるのでしょう」
「帳簿です」
「帳簿?」
「アーサーが失踪する前に調べていたという、仕入れの帳簿です。あなたは以前、弟が帳簿を持ち去ろうとしたとおっしゃいましたね」
エドマンドは、わずかに顔をこわばらせた。
「持ち去ろうとしたというより、あの子が帳簿を調べていたのです。あなた方が前回いらしたときにも、その話はしました」
「ええ。そこで、もう一度、正確に確認したいのです。アーサーが帳簿を持って工房を出るのを、あなたは見たのですか?」
「いいえ」
「帳簿を鞄に入れるところは?」
「見ていません」
「では、あなたが直接見たのは、弟が帳簿を開いて調べていたことだけですね」
エドマンドは不愉快そうに口を結んだ。
「そうです。ですが、あの子は何かを疑っていました。私に何も言わず、仕入れの数字を何度も調べていたのです」
「何を疑っていたのでしょう?」
「それが分からなかったから、私は問いただしたのです。しかし、あの子は、まだ確かなことが分からないと言うばかりでした」
ホームズはうなずいた。
「その帳簿を見せていただけますか」
エドマンドはしばらくためらったあと、工房の奥にある戸棚を開けた。そこから、革表紙の帳簿を一冊取り出す。
「これが当時の仕入れ帳です。すべてではありません。古いものは処分したり、別の帳面にまとめたりしていますから」
ホームズは帳簿を受け取り、机の上に置いた。
「差し支えなければ、少し時間をいただきたい」
「どうぞ。ただし、そこにある数字を見ても、商売の事情までは分からないでしょう」
「数字だけで、すべてが分かるとは思っていません。だからこそ、数字を見せていただくのです」
*
ホームズは帳簿の頁を一枚ずつめくっていった。
時計の部品には、それぞれ仕入れ先と価格が記されていた。歯車、ばね、ねじ、振り子の部品。どれも時計職人にとってはありふれた品々であり、帳簿そのものにも、最初は特別なものは見当たらなかった。
しかし、ある月の記録に差しかかったところで、ホームズの指が止まった。
「この部品ですが、同じ品物を、同じ仕入れ先から何度も購入していますね」
「ええ。長年の取引先ですから」
「ところが、こちらの頁には、同じ品物について別の仕入れ先の名前が書かれています。価格も少し違う」
「弟が見つけたのは、そのことです」
エドマンドは腕を組んだ。
「新しい仕入れ先のほうが安かった。アーサーは、そちらに切り替えたほうがよいと言っていました。しかし私は、長年付き合ってきた職人の品には品質の確かさがあると考えていました。安ければよいというものではありません」
「その判断自体は、商売として不自然ではありませんね」
「もちろんです。安い部品を使って時計が故障すれば、信用を失うのはこちらですから」
ホームズは価格の横に書かれた数字を比べた。
「では、こちらの記録はどう説明されますか?」
彼が示したのは、購入数量と請求額が一致していない箇所だった。部品の単価を掛け合わせても、記載された合計額にはならない。
エドマンドは帳簿をのぞき込んだ。
「それは……運賃や手数料が含まれているのかもしれません」
「可能性はあります。では、こちらは?」
別の頁にも、似たような食い違いがあった。今度は、帳簿に記された購入数量と、請求書に残っている数量が違っていた。
エドマンドの顔から、先ほどまでの自信が少しずつ失われていった。
「古い帳簿です。記入を間違えたこともあるでしょう」
「そうでしょうね。一つの誤記だけなら、私もそれ以上は気にしません。しかし、似た食い違いが複数ある場合には、何が起きていたのかを確認する必要があります」
「私が不正をしていたとお考えですか?」
「私は、まだ何も考えていません。あなたの説明が正しい可能性もありますし、記帳の方法に問題があった可能性もある。あるいは、請求書の側に誤りがあったのかもしれない」
ホームズは帳簿を閉じずに言った。
「ただ、アーサーがこの数字を調べていた理由は、少し分かってきました。彼は、あなたの商売を妨げようとしていたのではなく、記録の食い違いを確かめようとしていたのかもしれません」
エドマンドは何も答えなかった。
*
ワトスンは、工房の隅に置かれた古い請求書の束に目を留めた。
「エドマンドさん、もし残っていれば、当時の請求書も見せていただけませんか。帳簿だけでは、数字の違いがどこから生じたのか分からないでしょう」
「残っているものもありますが、すべてではありません。十年も前の書類ですからね」
「それでも、確認できるものがあれば十分です」
エドマンドは引き出しから封筒を取り出し、その中の書類を机に広げた。
ホームズは帳簿と請求書を照らし合わせた。いくつかは一致していた。運賃が別に請求されているものもあり、エドマンドの説明どおり、単純な計算では判断できない箇所もあった。
しかし、一枚の請求書については、どうしても説明がつかなかった。
帳簿には、ある部品を二十個購入したと記されている。ところが、残っている請求書には、同じ品物が十個と書かれていた。金額も、十個分の価格に近い。
「この請求書について、何か覚えておられますか?」
ホームズが尋ねた。
エドマンドは書類を手に取ったが、首を横に振った。
「覚えていません。これだけでは、どちらの記録が正しいのか分かりませんね」
「そのとおりです。帳簿の数量が誤っているのか、請求書が誤っているのか。それとも、別の取引があったのか。今のところは、どれとも決められません」
ホームズは、その請求書を別の紙にはさんだ。
「ただ、アーサーがこの帳簿を調べていたなら、この食い違いに気づいていた可能性があります」
「だからといって、私が弟をどうこうしたという証拠にはならない」
エドマンドの声には、怒りと疲れが混じっていた。
「そのとおりです」
ホームズは即座に答えた。
「帳簿の食い違いは、あなたが弟を殺した証拠ではありません。まして、アーサーが何を見つけたのかも、まだ分かっていない。私たちは、まず数字が何を意味するのかを確かめなければなりません」
エドマンドは、少しだけ表情を緩めた。
「では、調べてください。ただし、私の工房を不正の巣窟のように扱うのはやめていただきたい」
「そのようなつもりはありません」
ホームズは帳簿を返した。
「記録を調べるのは、誰かを悪人に仕立てるためではありません。何が起きたのかを知るためです」
*
工房を出ると、ワトスンはすぐに口を開いた。
「君は、エドマンドを疑っているのかね?」
「疑うという言葉は便利だが、あまり役に立たない。彼には、帳簿について説明できない箇所がある。しかし、彼自身がその食い違いを作ったのか、知っていたのか、それさえ分からない」
「だが、アーサーが帳簿を調べていたことは確かだ」
「エドマンドの話が正しければね。彼は、弟が帳簿を開いていたのを見た。しかし、何を見つけたかまでは知らないと言っている」
ホームズは歩きながら続けた。
「ここで、私たちが一つの物語を急いで作るとしよう。弟が不正を発見し、兄と対立し、兄に殺された。筋書きとしては分かりやすい。しかし、今ある証拠は、その筋書きを支えるには足りない」
「では、何が必要だ?」
「アーサーが何を調べ、誰に何を話したのか。そして、帳簿の食い違いが、いつ、どのように生じたのか。それを示す記録だ」
ホームズは一度立ち止まり、工房の窓を振り返った。
「それから、もう一つ。帳簿の食い違いが、アーサーの失踪と関係しているとは限らないことも忘れてはならない」
「関係がない可能性もあるというのか」
「もちろんだ。二つの出来事が同じ時期に存在したからといって、一方が他方の原因とは限らない。事件を解く者にとって、偶然を偶然のまま残す勇気も必要なのだ」
ワトスンは、感心したようにホームズを見た。
「君がそんなことを言うとはね。以前の君なら、数字の食い違いを見つけた時点で、もう半分は解決したような顔をしていたかもしれない」
「私は、以前より少し賢くなったのだろう。十年分の失敗を考えれば、進歩としては遅すぎるがね」
*
ベイカー街へ戻ったホームズは、机の上に帳簿の写しと請求書の写しを並べた。
彼は一つずつ数字を書き写し、購入数量、単価、請求額を比較していった。いくつかの食い違いは、運賃や手数料によって説明できた。別のものは、記帳の誤りである可能性が高い。しかし、二十個と十個の差だけは、残された書類から説明できなかった。
「ワトスン、これを見てくれ」
ホームズは二枚の紙を並べた。
「帳簿には二十個。請求書には十個。仮に、帳簿の数字が正しいとすれば、残りの十個はどこへ行ったのだろう?」
「別の請求書があったのかもしれない」
「そうだ。あるいは、納品が二度に分かれていたのかもしれない。ほかにも可能性はある。だが、どれも今のところは仮説だ」
彼は帳簿の写しの横に、短く書き添えた。
――不足した十個。納品記録を確認すること。
それから、事件の報告書を取り出した。
片方の手袋。
十三番目の鐘。
閉ざされた書斎。
そして、アーサーが失踪する前に調べていた帳簿。
ホームズは、四つの項目をじっと見つめた。
「一つずつ見れば、どれも別々の問題に思える。だが、同じ人物の行動を理解しようとするなら、事件の夜だけを見ていてはいけない」
ワトスンは静かにうなずいた。
「アーサーが、失踪する前に何を知ろうとしていたのか。それを知らなければ、あの夜の意味も分からないということだね」
「そうだ。ただし、帳簿の数字が、あの夜の鐘の音を説明してくれるとは限らない」
ホームズは立ち上がり、窓辺へ歩いた。
外では、遠くの教会の鐘が時刻を告げていた。
一つ、二つ、三つ。
ホームズは、音が鳴り終わるまで黙って聞いていた。
最後の一打が消えたあと、彼はワトスンを振り返った。
「明日は、ハロルド・ピアースを探そう。最初の報告書を書いた人物なら、アーサーの失踪前に何が起きていたのか、何か覚えているかもしれない」
「帳簿より先に、証言の記録を調べるのかね?」
「両方だ。帳簿は数字を残すが、人間がその数字をどう理解したかまでは残さない。記録を作った人間の話も聞かなければ、見落とすものがある」
ホームズは、机の上の書類をそろえた。
十年前、アーサー・ヴェイルは姿を消した。
その前に、彼は帳簿を調べていた。
その夜、書斎には片方の手袋が残され、十二時の鐘のあとには、もう一つの音が聞こえたという。
まだ、どの事実も、ほかの事実と確実につながってはいない。
だが、ホームズは初めて、事件を解くために必要な問いが、どこにあるのかを見定めつつあった。
失踪した男が、何をしたのか。
その男を見ていた人々が、何を覚えているのか。
そして、十年のあいだに、何が事実として残り、何が物語へと変わってしまったのか。
答えは、まだ帳簿の空白の向こうにあった。




