第六話 証言の主の、所在
第六話 証言の主の、所在
翌朝、シャーロック・ホームズは朝食の卵に手をつける前から、不機嫌だった。
不機嫌といっても、新聞の政治記事に腹を立てているわけではない。彼の前には、十年前のヴェイル家失踪事件に関する古い捜査記録の写しが広げられていた。何度読み返しても、肝心な箇所だけが霧の中に残っている。
「ワトスン、警察の記録というものは、事実を保存するためにある。ところが、ときには事実を整理しすぎる」
向かいの椅子でコーヒーを飲んでいたワトスンは、新聞から目を上げた。
「整理しなければ、記録にならない場合もあるだろう。証言した人間が話したことを、一字一句そのまま書き留めるのは難しい」
「そのとおりだ。だからこそ、整理した人間が何を省き、何を補ったのかが重要になる」
ホームズは紙の一行を指で叩いた。
「ここには、『家政婦マーサ・ベルは、十二時の鐘が十三回鳴るのを聞いたと証言した』とある。だが、彼女が実際に聞いたことについて、私は昨日、本人から別の説明を得た。十二時の鐘が鳴り終わり、そのあとにもう一つ、鐘に似た音がした。彼女は、十三回を数えたわけではない」
「記録した者が、話を簡潔にまとめたのかもしれない」
「そうだろう。問題は、その簡潔さが事件の解釈まで変えてしまったことだ」
ホームズはペンを取り、紙の余白に二つの文を書いた。
――十二時の鐘のあと、もう一つの音を聞いた。
――鐘が十三回鳴った。
「一つ目は、彼女が経験したことについての報告だ。二つ目は、音の正体まで決めてしまっている。最初の文から二つ目の文へ移るには、証拠が必要だ。しかし、その証拠が記録には見当たらない」
ワトスンは椅子から身を乗り出した。
「では、最初にその記録を書いた人物を探そう」
「そうしたいところだが、十年前の事件記録は、現在の保管場所が変わっている。まずは当時の担当者を確認する必要がある」
「君には心当たりがあるのかね?」
「名前が一つある。グレゴリー警部だ。当時、現場に出入りしていた人物として記録に残っている。彼が証言を直接聞いたのか、それとも部下の報告をまとめただけなのか。それを確かめよう」
*
午前十一時過ぎ、二人は警察の関係部署を訪ねた。
ホームズは以前の事件記録を調べたい旨を伝え、担当者の紹介を受けた。しばらくして現れたのは、白髪の目立つ、背の低い男だった。かつて警部を務めていたグレゴリーである。
「ホームズ君。君が昔の事件を掘り返すとはね」
グレゴリーは、ホームズの顔を見て苦笑した。
「当時の捜査に、何か不満でもあるのかね?」
「不満というより、確認したいことがあります。ヴェイル家のアーサー失踪事件です」
「十年前の事件か。あの家は、妙に印象に残っているよ。閉ざされた書斎、片方だけの手袋、それに、家政婦が聞いたという奇妙な鐘の話」
「その鐘について、あなたはマーサ・ベル本人から話を聞きましたか?」
グレゴリーは、すぐには答えなかった。
「直接だったか、部下からの報告だったか……。正直に言えば、そこまでは覚えていない。事件は一つではないからね。毎日、いくつもの現場を回っていた」
「記録には、彼女が『十三回の鐘』を聞いたとあります」
「そうだったな。妙な話だと思ったものだ。時計が十二時を告げたあとに、もう一度鳴ったというのだから」
「その音が、同じ鐘から出たものだと確かめましたか?」
グレゴリーは眉を寄せた。
「いや。少なくとも、私が確かめた記憶はない」
「では、誰が十三回と書いたのでしょう?」
「報告書を書いたのは、当時の巡査部長だったはずだ。名前は……」
彼はしばらく記憶を探り、やがて一人の名を口にした。
「ハロルド・ピアース。彼が最初の報告書をまとめていた。まだ若かったが、几帳面な男だったよ」
ホームズはその名を書き留めた。
「彼は今も警察に?」
「いや、数年前に退職した。郊外に住んでいると聞いたが、住所までは知らない」
「当時の報告書の原本は残っていますか?」
「記録保管室にあるはずだ。ただし、すぐに見つかるとは限らない。あの頃の書類は、整理の仕方が今とは違ったからね」
「十分です。ありがとうございます」
ホームズが立ち上がると、グレゴリーは彼を呼び止めた。
「一つだけ言っておくよ。ピアースは、嘘を書くような男ではなかった。もし記録に誤りがあるとしても、意図的なものとは限らない」
「私も、そう考えています」
ホームズは穏やかに答えた。
「誤りを見つけることと、誰かを責めることは同じではありませんから」
*
記録保管室で、二人は午後の大半を費やした。
古い書類は箱ごとに分類されていたが、分類の基準が一定ではない。事件名でまとめられた箱もあれば、担当者の名前で整理されたものもある。ワトスンは埃を吸い込んで何度か咳をしたが、ホームズは気にする様子もなく、紙束を一つずつ確かめていった。
ようやく見つかったのは、事件発生から二日後に作成された報告書だった。
紙の端は黄ばんでいたが、文字はまだ読める。
ホームズは、最初の頁から慎重に目を通した。
アーサー・ヴェイルは、ある夜、書斎から姿を消した。書斎の扉は内側から施錠され、窓にも外から侵入した形跡は見つからなかった。床には鍵が落ちており、暖炉のそばには片方の手袋が残されていた。
そのあとに、マーサ・ベルの証言が記されていた。
――十二時の鐘が鳴り終わったのち、さらに一つ、鐘のような音を聞いた。音の出所は不明。証言者は鐘の回数を正確には数えていない。
ワトスンが息をのんだ。
「ホームズ、これは……」
「そうだ。最初の記録は、正確だったらしい」
ホームズは、報告書の末尾を調べた。署名欄には、ハロルド・ピアースの名がある。その下に、別の人物による追記があった。
――後日、証言内容を整理し、事件概要に反映すること。
追記の署名は、当時の上級担当者のものだった。
ホームズは、その頁をじっと見つめた。
「ピアースは、音の正体を決めつけていない。彼は、分からないことを分からないまま記録している」
「では、十三回という表現は、そのあとで加わったのか」
「その可能性が高い。だが、まだ断定はできない。事件概要の作成者が、どの資料を参照したのかを調べなければならない」
ワトスンは別の頁をめくった。
「こちらには、手袋についての記録がある。『暖炉のそばに片方を発見』とだけ書かれているね」
「発見者は?」
「名前がない」
「手袋をアーサーのものと確認した人物は?」
「記載がない」
ホームズは目を細めた。
「妙だな。最初の報告書は、音については慎重だった。それなのに、手袋については、誰が見つけ、誰が持ち主を確かめたのかが記録されていない」
「手袋がアーサーのものだと、皆が知っていたのではないか?」
「そうかもしれない。だが、皆がそう思っていたことと、実際に本人のものだったことは別だ」
彼は報告書を閉じず、手袋についての記述をもう一度読み返した。
「われわれは、二つのことを混同していたのかもしれない。そこに手袋があったこと。そして、それがアーサーの手袋だったことだ」
ワトスンは、思わず暖炉のほうを見た。もちろん、そこにあるのはベイカー街の暖炉であり、十年前のヴェイル家の書斎ではない。それでも、彼の頭には、床に落ちた片方の手袋が浮かんでいた。
*
記録保管室を出るころには、外はすでに薄暗くなっていた。
帰りの馬車の中で、ワトスンは見つけた資料を膝に置き、考え込んでいた。
「ホームズ、今回の発見は大きいね。少なくとも、十三回という表現は、最初の証言そのものではなかった」
「そうだ。ただし、誰かが故意に証言を変えたとまでは言えない。事件概要を作るとき、報告書の意味を簡潔にしただけかもしれない。あるいは、別の証言や記録があったのかもしれない」
「では、次はピアースを探すのか?」
「そうしたい。彼なら、最初の報告書をどうまとめたか覚えているかもしれない。しかし、その前に、もう一つ調べる必要がある」
「何を?」
「手袋だ」
ホームズは、窓の外に流れる街並みを見た。
「事件の報告書には、手袋が暖炉のそばにあったと記されている。だが、発見者も、持ち主を確認した人物も分からない。アーサーのものだったと証明する記録もない。あの手袋は、事件の説明に使われながら、実際には何も証明していない可能性がある」
ワトスンは眉をひそめた。
「しかし、エドマンドは弟の手袋だと認めていたのでは?」
「彼がそう認めたのか、誰かがそう説明したのか。そこも確かめなければならない」
ホームズは一度言葉を切った。
「ワトスン、事件というものは、証拠が一つずつ積み重なって解決へ向かうと思われがちだ。だが、誤った解釈が一つ加わると、そのあとに見るものすべてが、その解釈を裏づけるように見えてしまうことがある」
「つまり、最初の思い込みが、次の思い込みを生むということか」
「そうだ。十三回目の鐘という物語ができあがったとき、片方の手袋も、閉ざされた書斎も、すべてがその物語の一部になった。しかし、本当にそうなのかは、まだ分からない」
馬車がベイカー街に着くと、ホームズはすぐに部屋へ戻り、報告書の写しを机の上に置いた。
彼は紙の余白に、三つの問いを書いた。
――誰が、鐘の音を「十三回」と呼んだのか。
――誰が、手袋をアーサーのものと認めたのか。
――なぜ、帳簿の記録は事件の概要から消えているのか。
最後の問いを書いたとき、ホームズの手が止まった。
帳簿。
それは、エドマンドの工房で見た、数字の合わない仕入れの記録。そして、アーサーが失踪する前に調べていたという帳面だった。
鐘の音と手袋は、事件の夜に残されたものだ。しかし、帳簿は、事件が起きる前から存在していた。
もし失踪の理由が事件の夜だけにあるのではないとしたら。
もし、あの夜の出来事を理解するために、もっと前の時間へ戻る必要があるとしたら。
ホームズは、帳簿についての覚え書きを引き寄せた。
「ワトスン」
「何だね?」
「明日は、エドマンドの工房へもう一度行こう。今度は時計ではなく、帳簿を見せてもらう」
ワトスンはうなずいた。
十三番目の鐘は、まだ謎のままだった。
しかし、十年前の事件を包んでいた霧の中から、少なくとも一つ、輪郭が現れ始めていた。
彼らが追うべきものは、鐘の音だけではない。
その音を聞く前から、誰かが何を知り、何を隠し、何を恐れていたのか。
その答えは、あの夜の書斎ではなく、失踪する前のアーサーが開いていた帳簿の中に眠っているのかもしれなかった。




