↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
小室泰六(SHERLOCK)― Londonの遺恨、夢の中の十三番目の鐘  作者: 東曌


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/14

第九話 密室は、誰が閉じたのか

第九話 密室は、誰が閉じたのか


 翌日の午後、シャーロック・ホームズとワトスンは、三度、ヴェイル家の玄関を訪れた。


 エドマンド・ヴェイルは、二人の姿を見るなり、深いため息をついた。


「ホームズさん。今度は書斎ですか?」


「お察しのとおりです」


「十年前に、警察が調べ尽くした場所ですよ。扉は内側から施錠され、窓も閉まっていた。あなたも当時、その説明を受けたはずです」


「説明を受けたことと、私自身が確認したことは違います」


 ホームズは穏やかに答えた。


「私は、あなたの話を疑っているから来たのではありません。何が確認され、何が推測にとどまっていたのかを、もう一度整理したいのです」


 エドマンドはしばらく黙っていたが、やがて二人を奥へ案内した。


「分かりました。どうぞ。ただし、書斎は当時とは少し変わっています。扉の錠前は、警察が壊したあとに交換しました。家具も一部、動かしています」


「そのことは承知しています。現在の部屋から、十年前の状態を完全に再現することはできません。しかし、残された記録と照らし合わせれば、確認できることはあるでしょう」


     *


 書斎の扉は、重いオーク材でできていた。真鍮の取っ手は磨かれていたが、錠前には新しい部品が使われている。


 ホームズは扉の両側を調べ、鍵穴の位置を確かめた。


「事件の夜、あなたが最後にアーサーを見たのは、いつですか?」


「夕食のあとです。私は工房へ戻る前に、少しだけ話をしました」


「そのとき、アーサーは書斎にいましたか?」


「いいえ。廊下にいました。私が工房へ行くと言うと、あの子は自分も書斎で仕事をすると答えました」


「あなたが工房へ向かったあと、彼が書斎へ入るところを見ましたか?」


「見ていません。私は階段を下り、裏口から出ましたから」


「つまり、あなたが直接確認したのは、アーサーが書斎で仕事をすると言ったことまでですね」


 エドマンドは、少し考えてからうなずいた。


「そうなります」


 ホームズは、扉の内側へ回った。


「鍵は、どのようなものでしたか?」


「普通の錠前です。内側から鍵を回せば施錠できました」


「鍵は、事件の夜、どこにありましたか?」


「床に落ちていたと聞いています」


「あなたが拾ったのですか?」


「いいえ。警察が調べたはずです」


「では、あなたは、鍵が床にあったところを直接見てはいない」


 エドマンドは不快そうに顔をしかめた。


「そういう言い方をされると、何も確かなことがないように聞こえますな」


「そうではありません。あなたが知っていることを、正確に区別しているだけです。鍵が床にあったことは、記録に残っている。ですが、それを最初に見つけた人物が誰で、発見時にどのような状態だったのかは、まだ確認できていないのです」


 ホームズは扉を静かに閉めた。


「この扉は、現在、内側から鍵をかければ、外からは開けられないのですか?」


「鍵がなければ、開けられません」


「では、事件当時も同じだったのでしょうか?」


「同じ錠前でした。そう聞いています」


 ホームズは、エドマンドを見た。


「ご自身で確かめたのですか?」


「……いいえ。錠前は父の代から使っていたものでした。私は、そういうものだと考えていました」


「分かりました」


 ホームズはそれ以上、追及しなかった。


 錠前がどのような仕組みだったか。それを確認するには、当時の錠前を知る職人か、破壊される前の記録が必要だった。


 現在の扉をいくら調べても、十年前の鍵の状態までは分からない。


     *


 次に、ホームズは窓を調べた。


 書斎の窓は庭に面していた。窓の外には狭い通路があり、その向こうに隣家の壁が迫っている。地面から窓までの高さは、人が出入りできないほどではないが、外から近づくには足場が必要だった。


 ホームズは窓を開け、外側の壁と窓枠を確認した。


「事件の夜、窓の鍵はかかっていたのですか?」


「警察の報告では、そうなっていたはずです」


「あなたは、警察が到着する前に窓を調べましたか?」


「いいえ。書斎の扉が開かないと聞いて、使用人たちと廊下にいました」


「窓の外側に足跡があったかどうかは?」


「覚えていません」


 ホームズは窓枠の隅に残る古い傷を見た。現在の傷が事件当時からあったものかどうかは分からない。十年のあいだに、風雨や修繕によって状態は変わっている。


「窓から侵入した者がいなかった、と断定することはできませんね」


 ワトスンが言った。


「窓の外側に侵入の痕跡がなかったという記録が正確なら、侵入の可能性は低くなる。しかし、痕跡がなかったことと、誰も通らなかったことは同じではない。さらに、窓の鍵がかかっていたことが、いつ、誰によって確認されたのかも重要だ」


 ホームズは窓を閉め、鍵を確かめた。


「ただし、ここから人が出入りできたと考えるなら、それを裏づける証拠が必要だ。可能性を挙げるだけでは、事件は解けない」


 ワトスンはうなずいた。


「密室を疑うことと、密室ではなかったと決めつけることも、同じではないわけだね」


「そのとおりだ」


     *


 ホームズは、暖炉の前にしゃがみ込んだ。


 暖炉は石造りで、上部には煙突へ続く開口部がある。現在は使用されておらず、灰も残っていなかった。


「手袋が見つかったのは、このあたりですね」


 エドマンドがうなずいた。


「そう聞いています」


「あなたは、事件の夜、手袋を直接見ましたか?」


「警察が調べているときに見たと思います。ただ、それが弟のものだったかどうか、どうやって確認したのかは覚えていません」


「アーサーが同じ手袋を着けているところを、最後に見たのはいつですか?」


「それも、はっきりとは覚えていません。あの子は手袋をいくつか持っていましたから」


 ホームズは、暖炉のそばの床を見つめた。


「では、手袋があったこと自体は記録に残っているが、それがアーサーのものだと確かめた過程は分からないのですね」


「そういうことになります」


「もう一つ、暖炉について伺います。事件の夜、火は燃えていましたか?」


「私は、あの夜の暖炉の状態を覚えていません」


「アーサーが火を使っていたかどうかも?」


「分かりません」


 ホームズは暖炉の縁を指でなぞった。


「手袋が暖炉のそばにあったという位置だけでは、それが何を意味するのかは分かりません。誰かが落としたのか、置いたのか、あるいは別の理由でそこにあったのか。発見された位置と、そこへ至った経緯は別の問題です」


 ワトスンは、暖炉の内部をのぞき込んだ。


「煙突を通って出入りすることは?」


「現実的とは思えないね。煙突の幅も、内部の構造も調べる必要はあるが、人間が通り抜けられると示す証拠はない。私は、読者を驚かせるために、物理的に不可能な道を用意するつもりはないよ」


 ホームズは立ち上がった。


「この暖炉について、今のところ言えることは一つだけだ。手袋が近くにあったという記録がある。それ以上の意味を与えるには、ほかの証拠が必要だ」


     *


 書斎の調査を終えたあと、ホームズはエドマンドに、当時の家具の配置について尋ねた。


「机は、事件の夜も現在と同じ位置でしたか?」


「少し違ったと思います。以前は、窓からもう少し離れていました」


「では、鍵が見つかった場所についての記録は残っていますか?」


「警察の報告書に、床に落ちていたと書かれていたはずです」


「机の近くだったのか、扉の近くだったのか。それは分かりますか?」


「いいえ」


 ホームズは、手帳に短く書き込んだ。


「鍵がどこに落ちていたかは、重要かもしれません。もし机のそばにあったのなら、アーサーが施錠したあと、何らかの理由で鍵を手放した可能性がある。扉のそばなら、また別の考え方が必要になる。しかし、場所が分からなければ、どちらも仮説にすぎません」


「鍵の位置まで、今になって問題にするのですか?」


 エドマンドは、疲れた声で言った。


「十年前、警察は、鍵が室内にあったことをもって、外部から侵入した者はいなかったと考えたのでしょう。それ自体は理解できます。ただし、鍵がどこにあったのか、誰が見つけたのか、発見したときに扉がどういう状態だったのか。それらを確認しなければ、鍵の位置から分かることにも限界があります」


 ホームズは手帳を閉じた。


「私たちは、鍵が室内にあったという事実から、誰がどのように施錠したのかまで推測していたのかもしれません」


 エドマンドは何も答えなかった。


     *


 ヴェイル家を出た二人は、近くの公園を通って駅へ向かった。


 しばらくして、ワトスンが口を開いた。


「君の調査を見ていると、密室という言葉そのものが疑わしくなってくるね」


「密室という言葉が悪いのではない。何をもって密室と呼ぶのかを、明確にしなければならないのだ」


 ホームズは、歩きながら説明した。


「扉が内側から施錠されていた。窓が閉まっていた。鍵が室内にあった。これらがすべて正確な記録であったとしても、それだけで、アーサーがどのように姿を消したかが分かるわけではない」


「しかし、誰かが出入りしたのなら、何らかの痕跡が残るはずだ」


「そう考えるのは自然だ。だからこそ、痕跡がなかったという記録を確認する必要がある。どこを調べ、何を見つけられなかったのか。調べていない場所まで、痕跡がなかったことにはできない」


 ワトスンは考え込んだ。


「では、密室の謎は、まだ解けていない」


「そのとおりだ。だが、以前よりは、何が分かっていないのかが明確になった」


 ホームズは立ち止まり、手帳を開いた。


 そこには、いくつかの項目が並んでいた。


 鍵が発見された正確な位置。


 発見者の名前。


 扉が施錠されていると確認した人物。


 窓の状態を確認した時刻。


 手袋をアーサーのものと認めた人物。


 どれも、十年前の報告書では十分に説明されていない。


「ワトスン、捜査記録には、見つかったものだけでなく、見つからなかったものも残すべきだ。何を探し、何を調べ、何が分からなかったのか。それが記されていれば、後から同じ場所を調べる者も、何をやり直すべきか分かる」


「しかし、現場では時間も限られている。すべてを記録するのは難しいだろう」


「もちろんだ。だからこそ、残された記録を読む者には慎重さが必要になる。書かれていないことを、勝手に補ってはならない」


     *


 その夜、ベイカー街の居間で、ホームズは十年前の報告書をもう一度広げた。


 書斎の扉は内側から施錠されていた。


 窓は閉じられていた。


 鍵は床に落ちていた。


 手袋は暖炉のそばにあった。


 それぞれの文は短く、明快だった。しかし、文と文のあいだには、説明されていない空白があった。


 ホームズは、鍵についての記述を指でなぞった。


「ワトスン、私は、鍵が室内にあったことから、アーサーが自分で施錠したのだと考えていた。だが、それは一つの解釈にすぎなかった」


「鍵が室内にあったとしても、誰がいつ施錠したのかは分からない、ということだね」


「そうだ。ただし、鍵の位置だけで、誰かが外から施錠したと結論づけることもできない。私たちは、どちらの可能性にも、まだ十分な証拠を持っていない」


 ホームズは、報告書の横に新しい紙を置いた。


 そこに、彼は一文を書いた。


 ――密室とは、解決ではなく、解くべき問題である。


 ワトスンは、その言葉を読んだ。


「十年前の君に見せてやりたい言葉だね」


「十年前の私なら、きっと気取った表現だと笑っただろう」


 ホームズは微かに笑った。


「だが、今の私は、気取った言葉の中に、必要な注意が含まれている場合もあると認めざるを得ない」


 彼は書類をまとめた。


 鐘の音の正体は、まだ分からない。


 帳簿の数字の食い違いも、アーサーが失踪した理由も、手袋の意味も、解決していない。


 密室についても、確実に言えることは、十年前に書き残された説明だけでは足りないということだった。


 しかし、ホームズは以前とは違う場所に立っていた。


 彼はもう、事件の全体を一つの物語にまとめようとはしていなかった。むしろ、物語をいったん解体し、事実と推測を分けることから始めていた。


 そのとき、机の上に置かれた地図が、暖炉からの風でわずかにめくれた。


 地図の端には、ヴェイル家の周囲に印をつけた教会の位置が記されている。


 ホームズは、その地図を押さえ、しばらく眺めた。


「ワトスン。明日は、マーサ・ベルにもう一度会おう」


「鐘の音についてかね?」


「それもある。しかし、今度は事件の夜のことだけではなく、アーサーが失踪する前の数日間について尋ねたい。彼女は、帳簿を持ったアーサーを見ていた。あのとき、彼が何を話したのか。誰かを恐れていたのか。あるいは、何かを確かめようとしていたのか」


 ホームズは、地図を丁寧に折りたたんだ。


「密室の扉が閉じられる前に、何が起きていたのか。それを知らずに、扉がどのように閉じられたかだけを考えても、答えには届かないかもしれない」


 ワトスンは、ゆっくりとうなずいた。


 十年前、彼らは閉ざされた扉の前に立ち、そこから先へ進めなかった。


 今、ホームズは、その扉の向こう側だけを見ていてはいけないのだと理解し始めていた。


 事件は、書斎の中だけで起きたのではない。


 アーサーが帳簿を開いたときから、あるいは、誰かがその帳簿を見られることを恐れたときから、すでに始まっていたのかもしれなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。