第十話 消えた男の足跡
第十話 消えた男の足跡
ロンドンの朝は、霧が晴れてもなお、どこか湿っていた。
ベイカー街を出たシャーロック・ホームズとジョン・ワトスンは、馬車を拾わず、徒歩でテムズ川の方角へ向かっていた。十年前の失踪事件を調べ直すうち、二人の手元には、いくつもの不確かな事実が残された。
十三番目の鐘。暖炉のそばの手袋。鍵の置かれた場所。帳簿に記された部品の数量。そして、書斎から消えたアーサー・ヴェイル。
それらは、まだ一つの物語になっていなかった。
「ホームズ、君はマーサ・ベルに、もう一度会うつもりなのだね」
ワトスンが尋ねた。
「そうだ。前回、彼女は鐘の音について、ずいぶん慎重に話してくれた。私たちは彼女の証言を訂正したつもりでいたが、実のところ、彼女が最後にアーサーを見た時のことを、ほとんど聞いていない」
「夕食の席では、特に変わった様子はなかったと言っていたはずだ」
「変わった様子がなかった、というのは、彼女の言葉だ。だが、人間はいつも、何かが起こった後で、その前の出来事に意味を与えようとする。反対に、何かが起こる直前には、目の前にあるものの意味を見落とすこともある」
ホームズは歩調を速めた。
「私は十年前、アーサーが自ら姿を消したと考えた。だが、その判断を支えたものが何だったのか、今では思い出せない部分さえある。だから、今回は結論から質問を始めない」
「では、何から始める?」
「彼が何をしていたのか、だよ、ワトスン。何を恐れていたのかと尋ねるのは、その後でいい」
*
マーサ・ベルは、以前よりも小さく見えた。
彼女は現在、ロンドンの南側にある親類の家で暮らしていた。ヴェイル家を離れてから十年近くになるという。ホームズとワトスンが訪ねると、彼女は驚いた顔をしたが、二人を追い返そうとはしなかった。
「また、あの晩のことでございますね」
「ええ。ただし、今度は鐘の音ではありません。アーサー氏がいなくなる前の数日間について、お尋ねしたいのです」
ホームズは椅子に腰を下ろした。
「彼は、誰かを恐れているように見えましたか」
マーサはすぐには答えなかった。
「恐れていた、と申し上げてよいのかどうか……。あの方は、もともと口数の多い方ではありませんでした。けれど、いなくなる少し前から、何かを確かめているようには見えました」
「何を確かめていたのでしょう」
「それは、わかりません。ただ、帳簿を何度も見ておられました」
ホームズの目が細くなった。
「帳簿ですか」
「はい。食事の後にも、書斎から出てきて、また戻られることがありました。手には紙を持っておられました。数字が書かれていたように思いますが、私は近くで見たわけではありません」
「その紙を、誰かに見せていましたか」
「いいえ。少なくとも、私が見た限りでは」
ワトスンが口を挟んだ。
「アーサー氏は、そのことで兄のエドマンド氏と口論を?」
「声を荒らげるようなことはありませんでした。でも、一度だけ、お二人が店の帳簿について話しているのを聞きました。エドマンド様は、古くからの仕入れ先を変えるつもりはない、とおっしゃっていました。アーサー様は、それでは困るというようなことを……」
「その後、どうなりましたか」
「エドマンド様は、品物の品質が大事なのだとおっしゃいました。アーサー様は、品質の話をしているのではない、と答えられました。それきりです」
ホームズは、しばらく黙っていた。
以前、エドマンドは、アーサーが帳簿を持ち去ろうとしたと話していた。しかし、問い詰めると、実際に見たのは、アーサーが帳簿を調べている姿だったという。調べることと、持ち去ること。その二つの行為は、エドマンドの記憶の中で一つに結びついていた。
「マーサさん。アーサー氏が帳簿を調べていたのは、失踪する何日前くらいですか」
「三日か、四日前だったと思います。正確には覚えておりません」
「その時、彼は帳簿をどこへ持っていきましたか」
「書斎です。けれど、一度だけ、店から持ち帰った帳簿を、食堂の隅に置いていたことがございました」
「食堂に?」
「ええ。私が夕食の準備をしていると、アーサー様が帳簿を開いて、何かを紙に書き写しておられました。私が入ると、すぐに閉じられましたが」
「何か、言葉を交わしましたか」
「私が、何をなさっているのですか、と尋ねました。すると、あの方は……」
マーサは目を伏せた。
「『数字は嘘をつかないとは限らない。人間が、数字に嘘をつかせるのだ』と、おっしゃいました」
ワトスンはホームズを見た。
ホームズは表情を変えなかったが、その指先が椅子の肘掛けを一度だけ叩いた。
「その言葉を、以前にも聞いたことがありますか」
「いいえ。あの時が初めてでした」
「それを聞いた時、彼が何を意味していると思いましたか」
「正直に申し上げますと、よくわかりませんでした。帳簿の数字など、私には関係のないことだと思っておりましたから」
マーサは、少し恥じるように笑った。
「今になって考えれば、もっと尋ねておけばよかったのかもしれません。でも、その時は、まさかあの方がいなくなるなどとは……」
「誰にも、未来を知ることはできません」
ホームズは静かに言った。
「知らなかったことを、罪にする必要はありません。ただ、今、覚えていることを、そのまま話してくださればよいのです」
マーサは、ほっとしたように息をついた。
*
「数字は嘘をつかないとは限らない、か」
家を出てから、ワトスンが繰り返した。
「ずいぶん、意味深長な言葉だね」
「意味深長に聞こえる言葉ほど、扱いには注意が必要だ。彼が何を発見したのか、まだわからない。帳簿に不一致があったとしても、それだけで不正があったとはいえない。まして、失踪との関係は別の問題だ」
「しかし、アーサーは何かを調べていた」
「それは、かなり確かになった。少なくとも、兄の店の帳簿を繰り返し調べ、数字を書き写していた。彼は単に帳簿を眺めていたのではない。比較するために、何かを別の紙へ移していた可能性がある」
「何と比較していたのだろう」
「請求書か、納品書か、あるいは別の帳簿か。今のところ、候補は複数ある」
ホームズは立ち止まり、手帳を取り出した。
「ワトスン。以前、エドマンドは、部品の仕入れに関する数字の食い違いを、運送費や事務上の誤りで説明できるかもしれないと話した。実際、その可能性はある。だが、アーサーが何を疑っていたのかを知るには、彼が書き写した数字を見つける必要がある」
「その紙は、どこにある?」
「書斎に残されているかもしれない。あるいは、警察が持ち去った記録の中かもしれない。だが、もう一つ確かめたいことがある」
「何だい?」
「アーサーが調べていたのは、部品の数量だけだったのかどうかだ」
ホームズは手帳を閉じた。
「数量の食い違いは、単なる間違いでも起こる。しかし、同じ仕入れ先、同じ種類の部品、同じ時期に、繰り返し食い違いが生じていたなら、話は変わる。私たちは、まず記録を並べてみなければならない」
「そして、鐘の音は?」
「まだ、別の問題だ」
ホームズは即座に答えた。
「帳簿の不一致がアーサーの失踪の理由に関係していたとしても、鐘の音の正体まで説明するわけではない。二つの謎が同じ事件の中にあるという理由だけで、無理に結びつけるべきではないのだ」
ワトスンはうなずいた。
十年前、ホームズは密室と鐘の音を一つの事件として解釈し、その解釈に合うように、残された証拠を並べていたのかもしれない。
今、彼はその順序を逆にしようとしていた。
証拠を並べ、その後で、事件の形を考える。
*
その日の午後、二人は再びヴェイル家の店を訪れた。
エドマンドは、帳簿の再調査を求められると、露骨に不快そうな顔をした。
「まだ、その話を続けるのですか。十年も前のことです。帳簿の数字に多少の食い違いがあったとしても、商売をしていれば珍しくありません」
「その通りです」とホームズは答えた。「食い違いがあるというだけで、不正があったとはいえません。だからこそ、記録を比較したいのです」
「何をお調べになりたいのです?」
「アーサー氏が、何を紙に書き写していたのか。それを知りたいのです」
エドマンドの表情が変わった。
ほんの一瞬だった。驚きなのか、不安なのか、それとも弟の行動を初めて具体的に思い出したのか。ホームズは、その変化だけで何かを決めつけなかった。
「彼が紙に何かを書いていたことを、ご存じでしたか」
「知りませんでした」
「では、帳簿を調べていたことについて、もう一つ尋ねます。アーサー氏が調べていたのは、仕入れた部品の数量だけだったと思いますか。それとも、支払った金額についても調べていた可能性がありますか」
エドマンドは答えず、作業台の上に置かれた時計を見た。
「……わかりません。私は、彼が何を考えていたのか、すべてを知っていたわけではありません」
「そうでしょうね」
ホームズは意外なほどあっさりと答えた。
「では、当時の仕入れ帳、請求書、支払いの記録を見せていただけますか。残っているものだけで結構です」
エドマンドはしばらくためらった後、奥の棚から数冊の帳簿を取り出した。
「これが、当時の記録の一部です。ただし、すべてではありません。古い請求書のいくつかは、もう残っていない」
「なくなったのは、いつですか」
「正確には覚えていません。保存期間を過ぎて処分したものもあります」
「アーサー氏がいなくなる前ですか、後ですか」
エドマンドは、今度はすぐに答えなかった。
「……それも、はっきりとは覚えていません」
ホームズは、帳簿を開かなかった。
まず、表紙に書かれた年月と、綴じられた順序を確かめた。それから、エドマンドに尋ねた。
「この帳簿を、アーサー氏以外に整理していた人はいますか」
「店の帳簿は、私も見ていました。支払いについては、仕入れ先から届いた請求書と照合していました」
「その照合は、誰が行っていたのです?」
「私です。ただし、毎回すべての数字を一から確認するわけではありません。長年取引してきた相手ですから」
ホームズは、帳簿をそっと閉じた。
「わかりました。今日は、記録をお借りする必要はありません。まず、何が残っているのかを整理させてください」
店を出た後、ワトスンが小声で言った。
「彼は、何かを隠していると思うかい?」
「思うことと、証明できることは違う。彼が弟の行動を正確に覚えていないのは、不自然とは限らない。十年という時間があるからね」
「では、彼の表情は?」
「表情は、質問を続ける理由にはなる。しかし、それだけで有罪の証拠にはならない」
ホームズは、店の窓を振り返った。
「私たちが探しているのは、疑わしい人間ではない。アーサーが何を発見し、それによって何が起きたのか、その順序だ」
*
その夜、ベイカー街の部屋で、ホームズは机いっぱいに資料を広げた。
警察の報告書。ハロルド・ピアースの手帳。残された仕入れ帳。十年前の失踪事件について記された新聞記事。そして、マーサの証言をもとに書き直したメモ。
ワトスンは、暖炉のそばに立っていた。
「今日の証言で、何か進展はあったのかい?」
「あるとも。アーサーが失踪前に帳簿を調べ、数字を別の紙へ書き写していた可能性が高くなった。彼が調べていたのは、単なる数量の違いではなく、仕入れと支払いの関係だったのかもしれない」
「だが、まだ確かなことではない」
「その通りだ」
ホームズは、帳簿の一頁を指で押さえた。
「そして、もう一つ。エドマンドが弟の行動について語った内容は、本人が直接見たことと、後から推測したことが混じっている。私たちは、その二つを分けて考えなければならない」
「それは、鐘の証言と同じだね。十二回の鐘の後に、もう一つの音を聞いた。それが、いつの間にか十三回鳴ったという話に変わっていた」
「そうだ。記憶は嘘をつこうとして嘘をつくとは限らない。人間は、ばらばらの出来事に意味を与え、わかりやすい物語へと組み直す。問題は、その物語が事実と一致しているとは限らないことだ」
ホームズは立ち上がり、窓辺へ歩いた。
外では、遠くの教会から鐘の音が聞こえていた。ワトスンは、思わず数え始めた。だが、数え終わる前に、別の場所から、かすかな金属音が響いた。
二人は同時に顔を上げた。
それは、教会の鐘よりも小さく、短い音だった。
ホームズは時計を見た。
「今の音を、聞いたかい、ワトスン?」
「ああ。鐘のようにも聞こえたが、別の音かもしれない」
「そうだ。君は、音を聞いた。だが、その音の正体までは知らない」
ホームズは、窓を開けなかった。音の出所を確かめるために、まず時刻と方向を記録した。
「明日、周辺の時計店と教会を調べよう。鐘に似た音を出すものが、どこにあるのか。そして、十年前のあの夜に、同じ音が聞こえる可能性があったのか」
ワトスンは、机の上の帳簿に目をやった。
「帳簿と鐘。二つの謎が、いつか一つにつながるのだろうか」
「つながるかもしれないし、つながらないかもしれない」
ホームズは静かに答えた。
「だが、もし私たちが最初から一つの謎だと決めてしまえば、どちらの真相も見失うだろう」
彼は、マーサの言葉を手帳に書き留めた。
――数字は嘘をつかないとは限らない。人間が、数字に嘘をつかせるのだ。
それから、その下に、別の一文を書き加えた。
――音は鳴った。しかし、それを何と呼ぶかは、まだ決まっていない。
十三番目の鐘は、まだ正体を現していなかった。




