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小室泰六(SHERLOCK)― Londonの遺恨、夢の中の十三番目の鐘  作者: 東曌


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第十一話 十三番目の音、その発生源

第十一話 十三番目の音、その発生源



 翌朝、シャーロック・ホームズは、いつもより早く起きていた。


 机の上には、ヴェイル家から確認のために書き写した帳簿の記録が並べられている。仕入れた部品の数量、請求書に記された金額、そして支払いの記録。どれも単独で見れば、商売の現場で起こり得る程度の食い違いにすぎなかった。


 だが、ホームズは数字を眺めるだけでは満足しなかった。


「ワトスン、商人が帳簿をつけるのは、何のためだと思う?」


 朝食の紅茶を口に運んでいたワトスンは、少し考えた。


「商売の収支を把握するためだろう。何を仕入れ、いくらで売り、いくら支払ったか。それを記録しておかなければ、店を続けることはできない」


「その通りだ。では、帳簿の数字が食い違っていた場合、最初に疑うべきなのは何だろう」


「書き間違い、計算違い、あるいは運送費などの別勘定かな」


「よろしい。では、最初から不正を疑う必要はない。だが、同じ種類の食い違いが繰り返されるなら、それが単なる誤りなのか、別の理由があるのかを確かめる必要がある」


 ホームズは、一枚の紙をワトスンに差し出した。


「これを見てくれたまえ」


 紙には、当時の仕入れ帳から読み取れる数字が記されていた。ある時計部品について、帳簿には二十個とある。一方、残されていた請求書には十個と記され、請求額も十個分に相当するように見えた。


「これは以前にも見た記録だね」


「そうだ。これだけなら、帳簿への転記ミスで説明できる。だが、別の記録にも似た食い違いがある。問題は、その二つが同じ取引に関するものなのか、あるいは互いに無関係なのかという点だ」


「請求書が残っていない取引もあるのだろう?」


「その通り。だから、存在しない請求書を想像で補うわけにはいかない。私たちにできるのは、残された記録がどこまで互いに一致し、どこから一致しなくなるかを調べることだ」


 ホームズは、二つの記録を別々の紙に写し、日付と品名を並べた。


 しばらくして、彼はペンを置いた。


「ここだ」


「何がわかったんだい?」


「まだ、決定的なことは何も。しかし、数量の食い違いが、必ずしも実際に仕入れた品物の数を示しているとは限らないことがわかった。帳簿の数字だけでは、品物が二十個届いたのか、十個しか届かなかったのかさえ、断定できない」


「それでは、振り出しに戻ったようなものじゃないか」


「いいや。私たちは、何を証明できず、何を確かめる必要があるのかを知ったのだ。アーサーが調べていたのは、数字そのものではなく、数字と現実との食い違いだったのかもしれない」


 ホームズは、マーサの言葉を思い出すように目を伏せた。


 ――数字は嘘をつかないとは限らない。人間が、数字に嘘をつかせるのだ。


「アーサーがその食い違いに気づいたのなら、彼は何かを比較していたはずだ。帳簿と請求書。請求書と支払い記録。あるいは、仕入れ先からの納品記録だ」


「だが、それが失踪の原因だったとは、まだいえない」


「もちろんだ。原因を探すために、原因を先に決めるわけにはいかない」


 ホームズは資料をまとめた。


「まずは、記録を作った人間に会おう。数字を書いた人間なら、数字の意味を説明できるかもしれない」


     *


 二人が訪ねたのは、ヴェイル家が長年取引していた部品商の店だった。


 店主は年老いていたが、記録を保管することには几帳面な人物らしく、古い注文書や控えの一部を倉庫から出してきた。


「十年前の取引ですか。すべて残っているわけではありませんよ。古い紙は場所を取りますからね。それでも、帳簿の控えなら、いくつかあります」


 ホームズは、残された仕入れ帳の記載を見せた。


「この取引について、何か覚えておられますか」


 店主は眼鏡をかけ、数字を確かめた。


「品名は覚えていませんが、この書式はうちのものですね。注文を受けて、品物をまとめ、請求書を出す。普通の取引です」


「帳簿には二十個、請求書には十個とあります。こちらの控えには、同じ注文に関する記録が残っていますか」


 店主は、しばらく書類を探した。


「これでしょうか。注文の控えです」


 ホームズは紙を受け取り、目を通した。


 そこには十個と記されていた。


「この十個は、実際に納品された数ですか」


「注文の控えですから、注文された数です。納品した数を証明するには、納品書か受領の記録が必要です。残念ながら、この取引については見当たりません」


「つまり、あなたの記録からは、十個が注文されたことは確認できても、実際に十個が納品されたかどうかまでは確かめられないのですね」


「ええ。その通りです」


 ワトスンは、ホームズの手元をのぞき込んだ。


「それでは、ヴェイル家の帳簿が間違っていたのか、こちらの納品が間違っていたのか、それさえわからない」


「そうだ。だからこそ、二十個という数字が記されている理由を調べる必要がある」


 ホームズは店主に礼を述べ、別の記録についても尋ねた。しかし、古い書類の中に、帳簿の食い違いを直接説明するものは見つからなかった。


 店を出ると、ワトスンが言った。


「アーサーが疑っていたことは、正しかったのだろうか」


「まだわからない。ただし、彼が疑問を持つだけの理由はあったのかもしれない。数字が一致しないという事実と、誰かが不正を働いたという結論は、別のものだ」


「そして、その疑問が彼を危険にさらした可能性も、まだ否定できない」


「そうだ。しかし、可能性を否定できないことと、それを事実として採用することは違う」


 ホームズは、通りの向こうに目を向けた。


「帳簿については、これ以上、想像を重ねても仕方がない。次は、もう一つの謎を調べよう」


「鐘の音か」


「ああ。十年前のあの夜、マーサが聞いたという、十二回の後のもう一つの音だ」


     *


 ホームズとワトスンは、ヴェイル家の周辺にある教会と時計店を訪ねた。


 当時の教会の鐘については、すでに記録を調べていた。しかし、記録が残っていないことは、その夜に鐘が鳴らなかった証拠にはならない。まして、マーサは音の発生源を確認していなかった。


 今回、ホームズが確かめようとしていたのは、別のことだった。


「この近くで、教会の鐘以外に、鐘に似た音を出すものはありますか」


 最初に訪ねた時計店の主人は、奇妙な質問だという顔をした。


「鐘に似た音ですか。そりゃあ、時計にもありますよ。時を知らせる仕掛けを備えた時計ならね。ただし、どんな音がするかは、機構によって違います」


「例えば、時を知らせるために、小さな鐘を打つ時計ですか」


「ええ。置き時計にもありますし、壁掛け時計にもあります。大きな教会の鐘とは音量も響き方も違いますが、遠くから聞けば、区別がつきにくい場合もあるでしょう」


 ホームズは、時計店の主人に頼んで、時を知らせる仕掛けを備えた時計を見せてもらった。


 主人が作動させると、小さな金属音が店内に響いた。


 ワトスンは、音が止むまで耳を傾けた。


「確かに、鐘に似ているね」


「ただし、これだけで十年前の音の正体がわかったわけではありません」とホームズは言った。「同じ種類の音が存在することを確かめただけです。あの夜、ヴェイル家の近くに同じ仕掛けの時計があり、しかもその時刻に鳴ったのか。それがわからなければ、説明にはならない」


 時計店の主人は、しばらく考え込んでから言った。


「そういえば、昔、この辺りの商家で、時を知らせる時計を修理した覚えがあります。もう十年近く前のことです。どこの家だったかは、帳面を見なければわかりませんが」


 ホームズはすぐに尋ねた。


「その修理記録は残っていますか」


「残っていれば、奥の帳面にあるはずです。ただ、十年も前ですからね。探してみましょう」


 主人は店の奥へ入っていった。


 ワトスンは、ホームズに顔を寄せた。


「これがヴェイル家の時計だったら?」


「その場合は、重要な手掛かりになるだろう。だが、そうでなければ、単に近隣に鐘のような音を出す時計があったというだけだ」


「君は、期待していないようだね」


「期待は証拠ではないよ、ワトスン」


 やがて主人が戻ってきた。


「ありました。古い修理帳です。名前は……ヴェイル。エドマンド・ヴェイル氏の店から、時計を一つ預かった記録があります」


 ホームズは、帳面を受け取った。


 記載は簡潔だった。修理を受け付けた日付、依頼主、修理内容、返却日。時計の種類は、時を知らせる打鐘機構を備えた置き時計と記されていた。


「この時計は、いつ修理されたのですか」


「失踪事件より前です。日付は……事件の数か月前ですね」


 ホームズは、記録をもう一度確かめた。


「修理内容を、詳しく教えていただけますか」


「打鐘の仕掛けが不調だったようです。部品を調整し、時を知らせる機構を修理した、とあります」


「修理後、正常に作動していたかどうかはわかりますか」


「記録には、返却したとしか書いてありません。実際にどのくらい使われたかまではわかりませんね」


 ホームズは帳面を閉じた。


「十分です。今日は、これ以上のことを断定する必要はありません」


 店を出た二人は、しばらく無言で歩いた。


「ヴェイル家には、鐘に似た音を出す時計があった」とワトスンが言った。「それなら、マーサが聞いた音を説明できるかもしれない」


「可能性はある。しかし、まだ三つの問題が残っている」


「三つ?」


「第一に、その時計が失踪した夜にもヴェイル家にあったのか。第二に、その夜、実際に音を出したのか。第三に、マーサが聞いた音と、その時計の音が一致するのか」


 ホームズは、歩きながら指を折った。


「それらを確かめずに、鐘の正体を見つけたと宣言するのは早すぎる」


「だが、少なくとも、別の音源が存在したことはわかった」


「そうだ。私たちが探しているのは、超自然的な十三番目の鐘ではない。十二回の鐘の後に、もう一つの音が聞こえた。その音がどこから来たのかを、現実の物によって説明できるかどうかだ」


     *


 その夕方、二人はヴェイル家を訪ねた。


 エドマンドは、修理帳の記録を見せられると、少し考えてから答えた。


「ええ、その時計なら覚えています。店に置いていたものです。時を知らせる仕掛けが壊れたので、修理に出しました」


「失踪事件の夜にも、その時計は店にありましたか」


「そこまでは覚えていません。修理から戻った後、しばらく使っていたとは思いますが、いつまで置いていたかは……」


「処分したのですか」


「いえ、処分したという記憶もありません。ただ、店の品物は何度も入れ替わっています。今、どこにあるのかはわかりません」


「アーサー氏は、その時計を使っていましたか」


 エドマンドは首を振った。


「弟が店の帳簿を管理していたことはありますが、時計の修理や調整は私が担当していました。あの時計を弟が触っていたかどうかは、覚えていません」


 ホームズは、それ以上問い詰めなかった。


「わかりました。では、当時の店の配置について、少し教えてください。あの時計は、どこに置いてあったのですか」


「帳場の近くです。客が入ってくれば、見える場所でした」


「店の中から、時刻を知らせる音は、奥の部屋まで聞こえましたか」


「ええ。店はそれほど広くありませんから」


「店の窓や扉を閉めていても?」


「もちろんです。店の中で鳴る音ですから」


 ホームズは、静かにうなずいた。


 その時計が、失踪事件の夜に店にあったとすれば、鐘の音の謎を説明する手掛かりになる可能性がある。しかし、店の中で鳴った音が、どのようにマーサのいた台所まで届いたのか。店と台所の位置関係、建物の構造、音が鳴った時刻。そのいずれも、まだ確認できていなかった。


 ホームズは、エドマンドに礼を述べて家を出た。


「君は、あの時計が関係していると思うかい?」とワトスンが尋ねた。


「関係している可能性はある。だが、私は、時計が見つかっただけで事件を解決したことにするつもりはない」


「では、次は何を調べる?」


「アーサーが失踪した夜、店と家の間で何が起きたのかだ。誰が最後に彼を見たのか。店の時計は、どこにあったのか。そして、書斎の鍵は、本当に内側からしか扱えなかったのか」


 ホームズは足を止め、ヴェイル家の窓を見上げた。


「十年前、私は密室という言葉に引きずられた。扉が閉まっていた。窓も閉まっていた。鍵が床に落ちていた。だから、誰も入れず、誰も出られなかった。だが、これらは同じ強さの事実ではない。扉が閉まっていたことと、鍵がどこで発見されたかを誰も正確に知らないことは、別々に考えるべきだった」


「つまり、密室そのものが、まだ証明されていないのだね」


「そうだ。密室は、扉が閉まっていたというだけで成立するものではない。誰が、いつ、どのように施錠したのか。それを確かめなければならない」


 ホームズは再び歩き始めた。


     *


 夜、ベイカー街に戻ると、ホームズは机の上に二つの紙を並べた。


 一つには、帳簿に関する記録。もう一つには、時計店で見つかった修理記録。


 ワトスンは、それらを見比べた。


「帳簿はアーサーが調べていたことを示し、修理記録は、ヴェイル家に鐘のような音を出す時計があったことを示している。だが、どちらも、失踪の真相そのものではない」


「その通りだ」


「そして、二つが直接つながっている証拠もない」


「まだね」


 ホームズは、暖炉の火を見つめた。


「しかし、ようやく私たちは、十年前の事件を、想像ではなく、確認できる事実から組み立て直し始めた。アーサーは帳簿を調べていた。ヴェイル家には打鐘機構を備えた時計があった。書斎の鍵がどこで見つかったかは、明確に記録されていない。手袋の持ち主も、確実には確認されていない」


「残るのは、アーサーの足取りと、書斎の鍵。そして、時計があの夜に鳴ったのかどうかだね」


「そうだ。明日、その時計の行方を調べよう。見つからなければ、記録から使用時期を確かめる。それから、アーサーが最後にどこにいたのかを、もう一度整理する」


 ホームズは手帳を開き、最後に一文を書き加えた。


 ――鐘の音は、存在し得る。しかし、存在し得ることと、実際に鳴ったことは違う。


 彼はペンを置いた。


「ワトスン。十年前の私は、わからないことを、わかったことにしていたのかもしれない」


 ワトスンは、友人の横顔を見た。


「今は違うのかい?」


「今も、わからないことは多い。だが、少なくとも、わからないことを隠す必要はない」


 暖炉の火が、小さくはぜた。


 その音は、鐘には似ていなかった。


 ホームズは、翌日の調査に備えて資料をまとめ始めた。


 十三番目の音の正体は、まだ確定していない。


 アーサー・ヴェイルの行方も、まだわからない。


 だが、十年前に閉ざされた書斎は、もはや、解くことのできない密室ではなかった。


 それは、誰かが閉じたのかもしれない扉であり、誰かが見落としたのかもしれない事実であり、そして、ホームズ自身が、もう一度向き合わなければならない過去だった。


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