第十二話 遺恨の向こうに
第十二話 遺恨の向こうに
翌朝、シャーロック・ホームズは、十年前の事件に関する資料を、机の上からすべて取り払った。
そして、一枚の白い紙を置いた。
「ワトスン、今日は推理をする前に、事実を整理しよう」
ワトスンは椅子を引き寄せた。
「帳簿の不一致、鐘の音、密室、手袋、未完の手紙。それぞれについて、何が確かで、何が確かでないのかを分けるのだね」
「その通りだ。私たちは、これまで謎を一つの物語にまとめようとしてきた。だが、物語が整っていることと、事実に合っていることは同じではない」
ホームズは紙の左側に、五つの項目を書いた。
帳簿。鐘。鍵。手袋。手紙。
「まず、帳簿だ。アーサーは失踪する前、仕入れの記録を繰り返し調べ、数字を別の紙に書き写していた。これはマーサの証言によって裏づけられている。しかし、帳簿の数字が食い違っていたことだけでは、不正を証明できない」
「実際、仕入れ先の記録も、納品された品物の数までは証明していなかったね」
「そうだ。では、なぜアーサーは調べていたのか。私は、もう一度エドマンドに会う必要があると思う」
ワトスンは首をかしげた。
「彼は、すでに何度も質問に答えている」
「質問には答えている。しかし、私たちは彼に、弟が何を疑っていたかを尋ねることに気を取られすぎた。今度は、彼自身が何を知っていたのかを尋ねる」
ホームズは白紙を折り、ポケットにしまった。
「そして、もう一つ。アーサーが書斎に入るところを、誰も確実には見ていない。これが、今回の事件を解く鍵になるかもしれない」
*
ヴェイル家の店は、朝の客を迎える準備をしていた。
エドマンドは二人を見ると、疲れたように笑った。
「まだ、弟のことを調べておられるのですか」
「ええ。今日は、帳簿について最後にお尋ねしたいことがあります」
ホームズは、店の奥にある作業台の前に立った。
「アーサーが数字を調べていたと知った時、あなたは、何を考えましたか」
「何を考えたか……。弟が何かを疑っていたのだろうとは思いました。しかし、何を疑っていたのかは知りません」
「では、あなたは、帳簿に食い違いがあること自体には気づいていましたか」
エドマンドは黙った。
しばらくして、彼は作業台の引き出しを開けた。中から、古い請求書の束を取り出した。
「実は、すべてをお話ししたわけではありません」
ワトスンはホームズを見た。
ホームズは、何も言わずに続きを待った。
「弟がいなくなる少し前、私は仕入れ先の請求書について、疑問を持っていました。請求された金額と、私の記憶している注文内容が合わないことがあったのです。しかし、相手は長年取引してきた商人でした。私の記憶違いか、帳簿の書き間違いだろうと思っていました」
「アーサー氏は、それを知っていたのですか」
「おそらく。私が請求書を見比べていたところを見たのでしょう。弟は、私よりも細かい数字に気づく人間でした」
「それで、弟に調査を任せたのですか」
「いいえ。私は、店の信用を失うことを恐れていました。確かな証拠もないのに仕入れ先を疑えば、長年の取引が壊れてしまう。私は、しばらく様子を見るつもりでした」
エドマンドは請求書を机に置いた。
「しかし、弟は違いました。彼は、曖昧なままにしておくことを嫌った。私に、記録をすべて調べ直すべきだと言いました。私は、そこまで大きな問題ではないと答えました」
「口論になったのですか」
「激しい口論ではありません。ただ、私は弟に、余計なことをするなと言ったのです」
エドマンドは顔を伏せた。
「それが、最後の方の会話でした」
ホームズは請求書を手に取った。紙は古く、端が黄ばんでいた。
「この請求書は、どの取引に関するものですか」
「問題があると感じた取引の一つです。ただ、これだけでは不正があったとは証明できません。納品書が残っていないものもありますから」
「その通りです」
ホームズは、請求書を元の位置に戻した。
「あなたは、弟が何かを発見したのではないかと考えているのですね」
「はい。ですが、私は何も知りませんでした。いや、正確に言えば、知ろうとしなかったのかもしれません」
エドマンドの声は低かった。
「弟がいなくなった後、私は警察に話しました。弟は帳簿を調べていた。仕入れ先について疑問を持っていた。しかし、私がそれをきちんと調べなかったことは、話さなかった」
「なぜです?」
「弟が金を持ち逃げしたと思われるのが嫌だったのです。店の帳簿に問題があると知られれば、弟が疑われるかもしれない。私は、弟を守るつもりでした」
ホームズは、エドマンドを見つめた。
「その結果、警察には、あなたが弟の行動を正確に知っていたかのように伝わった。そういうことですか」
「……そうかもしれません」
「あなたは、弟を守ろうとした。しかし、弟が何をしようとしていたのかを、誰にも説明できなくなった」
エドマンドは答えなかった。
ホームズは、請求書の束を指さした。
「これらをお借りできますか。帳簿と照合したいのです」
「どうぞ。ただし、すべての取引を説明できるわけではありません」
「説明できないことを、説明できないままにしておく。それも、記録を調べる上では必要なことです」
*
ベイカー街に戻ったホームズは、請求書と帳簿を並べた。
午前中いっぱい、彼は数字を照合した。ワトスンも手伝ったが、古い記録の多くは不完全で、確かな結論を出せるものは少なかった。
それでも、午後になって、ホームズは一枚の紙を取り上げた。
「ここを見てくれたまえ」
「同じ部品の注文だね」
「そうだ。帳簿には二十個とある。しかし、請求書には十個と記され、金額も十個分に相当するように見える」
「では、残りの十個はどこへ行ったのだろう」
「それはわからない。実際に二十個が納品されたのか、帳簿への転記が誤っていたのか、あるいは別の取引が混じったのか。残された記録だけでは断定できない」
ワトスンは眉を寄せた。
「それでは、アーサーが不正を発見したとはいえないのか」
「不正を疑う理由はあったかもしれない。しかし、彼が何を発見したのかを示す紙は見つかっていない。彼が書き写していた数字も、今となっては確認できない」
ホームズはペンを置いた。
「私たちは、彼が不正を暴こうとして殺されたという物語を作ることもできる。しかし、それを裏づける証拠はない。エドマンドが何かを隠していたとしても、それが殺人を意味するわけではない」
「では、アーサーは自分の意思で姿を消したのだろうか」
「その可能性はある。だが、それも確定できない」
ワトスンは、ホームズの言葉を聞き、しばらく黙っていた。
「君は、事件を解決しようとしているのに、結論を出すことを恐れているように見える」
「恐れているのではない。結論を出すことと、結論を急ぐことを区別しているのだよ」
ホームズは、十年前の報告書を取り出した。
「私が見誤ったのは、アーサーが生きているか死んでいるかという点だけではない。私自身が、証拠の空白を、推理によって埋めてしまったことだ」
*
その午後、ホームズとワトスンは、再びヴェイル家を訪れた。
今度は、書斎の扉と鍵を調べるためだった。
エドマンドは二人を部屋へ案内した。
「この扉は、事件の後に取り替えました。以前の錠前は、警察が扉を壊した際に使えなくなりましたから」
「以前の錠前は、内側からしか施錠できないものだったのですか」
「いいえ。鍵を使えば、外からでも施錠できました」
「では、扉を閉めた後、外から鍵をかけることもできたのですね」
「もちろんです」
ワトスンは驚いた。
「しかし、十年前の報告では、書斎は内側から施錠されていたと……」
「その報告は、誰が実際に確認したのでしょうか」
ホームズは静かに尋ねた。
エドマンドは首を振った。
「私は、警察が来る前に錠前を調べたわけではありません。扉が開かなかったので、内側から鍵がかかっているのだと思いました。警察が到着した時にも、誰も中に入れませんでした」
「では、内側から施錠されていたことを、あなた自身が確認したわけではないのですね」
「……そうです」
ホームズは、扉の鍵穴を調べた。
「外から施錠できる。しかも、アーサーが書斎に入るところを、誰も確実には見ていない。では、なぜ、書斎の中にアーサーがいたと考えられたのでしょう」
「未完の手紙が残されていたからです」
「手紙は、どこにありましたか」
「机の上だったと聞いています」
「誰が最初に見つけましたか」
「それは……覚えていません」
ホームズは、ワトスンを振り返った。
「私たちは、書斎に残されていた品物を、アーサーが最後にそこにいた証拠として扱ってきた。しかし、手紙が机にあったことは、彼がその部屋で最後に息をした証拠にはならない」
「手紙が残されていたからといって、本人がその時まで部屋にいたとは限らない、ということか」
「その通りだ」
ホームズは、部屋を見回した。
机。暖炉。窓。壁際の棚。
どれも、十年前とほとんど変わっていないという。
「鍵は、どこで見つかったのでしょう」
エドマンドは答えなかった。
「警察の報告書には、鍵の発見場所が詳しく記されていません。あなたは、鍵が床に落ちていたと聞いたそうですが、それを直接見たのですか」
「いいえ。誰かから聞いたのだと思います」
「誰からですか」
「それも、覚えていません」
ホームズは目を閉じた。
「では、鍵が室内にあったという話は、確かな事実として扱えません。少なくとも、現存する記録からは、そのように断定できない」
ワトスンは、ゆっくりとうなずいた。
十年前、書斎の扉が閉じていたことから、内側から施錠されていたと考えられた。鍵が床にあったという話が加わり、密室という印象が強まった。しかし、鍵の発見場所を直接確認した人物は、今のところ見つかっていない。
「つまり、密室は、最初から証明されていなかったのだね」
「そうだ。扉が開かなかった。それは事実だ。しかし、誰が、いつ、どこから施錠したのかは、別の問題だった」
ホームズは、窓のそばへ歩いた。
「アーサーが書斎にいたという前提を外せば、彼が扉から出ていった可能性を、最初から除外する理由はなくなる」
「しかし、彼が出ていくところを見た者はいない」
「同じように、彼が入っていくところを見た者もいないのだよ、ワトスン」
*
次に二人が調べたのは、暖炉のそばにあった片方だけの手袋だった。
十年前の報告書には、手袋が暖炉の近くで発見されたと記されていた。しかし、誰が最初に見つけたのか、誰がアーサーのものと判断したのかは、明確ではなかった。
「エドマンドさん、アーサー氏は、この手袋を使っていましたか」
ホームズが尋ねると、エドマンドは首をかしげた。
「よく似た手袋を持っていたかもしれません。しかし、これが弟のものだったと、確実にはいえません」
「では、誰が弟のものだと判断したのでしょう」
「それも、わかりません。私は、警察がそう考えたのだと思っていました」
ホームズは、手袋について記された報告書を見た。
「誰かが手袋を見つけた。そして、誰かがアーサーのものだと考えた。その判断の根拠は、今ではわからない。にもかかわらず、私たちは、この手袋をアーサーの失踪と結びつけてきた」
「手袋が、単なる忘れ物だった可能性もあるのか」
「あるいは、別の人物のものだった可能性もね。ただし、どちらとも断定できない。わかるのは、暖炉のそばに手袋があったということだけだ」
ホームズは、報告書を閉じた。
「私たちは、証拠の意味を考えることと、証拠に意味を与えてしまうことを、混同していたのだ」
*
夕暮れが近づいていた。
二人は、ヴェイル家を出る前に、マーサ・ベルの証言についても、もう一度確認した。
マーサは、十二回の鐘の後に、もう一つの音を聞いた。だが、その音が教会の鐘だったのか、別の時計だったのか、あるいはほかの金属音だったのかは、わからない。
その音の発生源について、二人は時計店の記録から、一つの可能性を見つけていた。
ヴェイル家の店には、時を知らせる打鐘機構付きの置き時計があった。
だが、その時計が事件の夜にも店にあり、実際に音を出したという記録は残っていない。
「それでは、鐘の謎は解けていないのではないか」とワトスンが尋ねた。
「正確には、十三番目の鐘という表現そのものが、最初の証言を正しく表していなかったことがわかったのだ」
ホームズは答えた。
「マーサは、十二回の鐘の後に、もう一つの音を聞いた。彼女は、その音を数えて十三回目の鐘だと証言したわけではない。後から記録をまとめる過程で、表現が変わったのだ」
「では、その音が何だったのかは?」
「それは、まだわからない。ヴェイル家の時計が音源だった可能性はある。しかし、音源を特定する証拠はない。私は、可能性を事実に置き換えるつもりはない」
ホームズは、しばらく黙っていた。
「十年前、私は十三番目の鐘という言葉に興味を持った。あり得ないことが起きたように思えたからだ。だが、最初に問うべきだったのは、鐘が十三回鳴ったのかどうかではない。証言者が、実際には何を聞いたのか、ということだった」
ワトスンは、静かにうなずいた。
十三番目の鐘は、鐘そのものの謎ではなかった。
それは、聞いた音と、その音について語られた物語との間に生じた、小さな違いだった。
*
その夜、ホームズは十年前の事件を記した最後の報告書を読み返した。
書斎の扉は開かなかった。窓は閉じていた。鍵が床にあったという話が伝わっていた。暖炉のそばには手袋が残され、机には未完の手紙があった。
そして、アーサー・ヴェイルは姿を消した。
当時のホームズは、それらを一つの物語として解釈した。
アーサーは書斎にいた。何らかの理由で姿を消した。扉は内側から施錠されていた。手袋と手紙は、彼がそこにいたことを示している。鐘の音は、その夜に起きた異常な出来事を告げていた。
だが、今となっては、その物語を支える事実の多くが、確かなものではなかった。
ホームズは、報告書の余白に書き込んだ。
――アーサーが書斎にいたことは、証明されていない。
――扉が内側から施錠されていたことは、証明されていない。
――手袋がアーサーのものだったことは、証明されていない。
――鐘が十三回鳴ったことは、証明されていない。
彼はペンを置いた。
「ワトスン」
「何だい?」
「私は、十年前にこの事件を解決したつもりでいた。しかし、実際には、わからないことを一つの物語にまとめただけだったのかもしれない」
「それでも、君は当時、残された証拠から最善と思える判断をしたのだろう」
「そうかもしれない。だが、最善と思える判断であっても、間違っていることはある。そして、間違いを認めることは、探偵にとって恥ではない」
ホームズは、窓の外を見た。
ロンドンの街は、夜の闇に沈んでいた。
「アーサーが自ら姿を消したのか、誰かに連れ去られたのか、あるいは別のことが起きたのか。私たちは、まだ知らない。帳簿に不正があったのかどうかも、確定できない。彼が何を発見し、何をしようとしていたのかも、すべてはわからない」
「では、事件は未解決なのかい?」
「アーサーの行方については、そうだ。しかし、私たちは、何が証明されていなかったのかを知った。これは、小さなことではない」
ホームズは、報告書を閉じた。
「探偵は、すべての問いに答えを出せるわけではない。だが、答えがないことを、答えがあるかのように語ってはならないのだ」
*
その時、遠くの教会から鐘の音が聞こえた。
ワトスンは、無意識に数え始めた。
一つ、二つ、三つ。
音は夜の空気を震わせ、やがて静かに消えた。
十二回目の音が終わった後、しばらく間があった。
そして、別の場所から、かすかな金属音が響いた。
二人は顔を見合わせた。
ホームズは、すぐに立ち上がらなかった。窓にも駆け寄らなかった。ただ、音が聞こえた方向と、その時刻を手帳に記した。
「今の音は、何だったのだろう」とワトスンが尋ねた。
「わからない」
ホームズは答えた。
「だが、音が聞こえたことと、その音の正体がわかったことは、別の事実だ」
彼は手帳を閉じた。
十年前の事件は、まだ完全には解決していなかった。
アーサー・ヴェイルの行方はわからず、帳簿の食い違いの意味も、鐘に似た音の発生源も、確定していない。
それでも、ホームズは、以前とは違う気持ちで窓の外を見つめていた。
彼はもう、十三番目の鐘を、事件の中心に置いてはいなかった。
そこにあったのは、一人の男の失踪と、残された記録の不確かさ。そして、事実を見たつもりでいた人間たちの、記憶と判断だった。
ホームズは、机に戻り、最後の一行を書いた。
――謎を解くことは、物語を完成させることではない。事実が許すところまで、真実に近づくことである。
その夜、ロンドンの鐘は、十二回鳴った。
十三番目の鐘は、ついに証明されなかった。




