エピローグ 神田のどじょう鍋、十三番目の盃
エピローグ 神田のどじょう鍋、十三番目の盃
「……十三回目だ」
自分の声で、小室泰六は目を覚ました。
窓の外では、神田の町が昼下がりの光に包まれていた。往来からは荷車の音が聞こえ、どこかの店先では、威勢のよい呼び声が上がっている。
ロンドンの霧も、ベーカー街の暖炉も、もうそこにはなかった。
あるのは、いつもの机と、読みかけの書物。そして、目の前で呆れた顔をしている和田進一だった。
「泰六さん。今度は、どんな夢を見ていたんです?」
「夢?」
「ええ。さっきから、ロンドンだの、密室だの、十三番目の鐘だのと。ずいぶん物騒な寝言でしたよ」
泰六は額に手を当てた。
「そうか。私は眠っていたのか」
「見ればわかります」
「それなら、起こしてくれてもよかっただろう」
「起こしましたよ。二度も。それでも泰六さんは、『まだ鳴っていない』とおっしゃるものですから」
「……私は、そんなことを言ったのか」
「はい。三度目には、『扉を開けるな』とも」
泰六は黙った。
夢の中の書斎。暖炉のそばに落ちていた片方の手袋。食い違う帳簿の数字。十二時を告げたあとに聞こえた、もう一つの鐘のような音。
十年前に姿を消したアーサー・ヴェイル。
彼はどこへ行ったのか。なぜ消えたのか。そして、あの音はいったい何だったのか。
考えれば考えるほど、確かなものと、確かだと思い込んでいただけのものが、頭の中で入り交じっていく。
「進一」
「はい」
「私は、事件を解決したのだろうか」
進一は少し考えてから、首を横に振った。
「少なくとも、夢の中では、解決したとはおっしゃっていませんでしたね」
「そうだったな」
「でも、何もわからなかったわけでもないでしょう?」
泰六は進一を見た。
「……どういう意味だ」
「十三回目の鐘が、本当に鳴ったとは限らない。密室だったという話も、最初から確かめられていたわけではない。手袋が誰のものだったのかも、帳簿の数字がなぜ違っていたのかも、思い込みだけでは決められない。そういうことがわかったんでしょう?」
泰六は、ゆっくりとうなずいた。
「なるほど。君にしては、まともなことを言う」
「君にしては、とは失礼ですね。僕だって、たまにはまともなことを言います」
「たまに、という自覚はあるのだな」
「泰六さん!」
進一が声を上げると、泰六はようやく笑った。
笑った途端、腹が鳴った。
二人は顔を見合わせた。
「……進一」
「はい」
「私は、腹が減った」
「奇遇ですね。僕もです」
「夢の中では、ずいぶん長いこと食事をしていなかった気がする」
「それは大変です。ロンドンの名探偵も、神田の探偵も、腹が減っては考えられませんからね」
「誰が神田の名探偵だ」
「泰六さんですよ。ほかに誰がいるんです?」
泰六は返事をせず、机の上の時計を見た。
「よし。出かけよう」
「どちらへ?」
「どじょう鍋だ」
進一の顔が、ぱっと明るくなった。
「いいですねえ。あそこの鍋なら、昼からでもいけます」
「それに、米焼酎も頼もう」
「おや。今日はずいぶん気前がいいですね」
「夢の中で、十年分の帳簿を調べたのだ。少しくらい慰労されてもよかろう」
「帳簿を調べたのは夢の中でしょうに」
「夢であろうと、疲れるものは疲れる」
「では、僕もお供します。夢の中では働いていませんでしたが、現実では泰六さんの寝言を三度も聞かされたのですから」
「それは君の仕事ではない」
「泰六さんのお相手をするのも、僕の仕事のうちですよ」
その言葉に、泰六は一瞬だけ黙った。
それから、何事もなかったように立ち上がった。
「……ならば、今日は君の分も私が払おう」
「本当ですか?」
「ただし、飲みすぎるな」
「それは、僕が言うことではありませんか?」
「何?」
「いえ、何でもありません。さあ、行きましょう」
二人は連れ立って、神田の町へ出た。
店に入ると、味噌と出汁の香りが二人を迎えた。鍋の湯気が立ちのぼり、煮立った汁の中で、どじょうが静かに身を寄せている。
やがて、米焼酎の徳利と盃が運ばれてきた。
進一は盃を手に取り、満足そうに息をついた。
「いやあ、生き返りますね」
「まだ死んでもいないだろう」
「気分の問題です。ところで、泰六さん。夢の中のアーサーという人は、結局どうなったんでしょうね」
泰六は箸を止めた。
「わからん」
「本当に?」
「本当にだ。彼が自分の意思で姿を消したのか、何者かに連れ去られたのか。それとも、私たちが考えもしなかった事情があったのか。あの夢だけでは、決められない」
「泰六さんでも、わからないことがあるんですね」
「私を何だと思っている」
「ときどき、人間より先に答えへたどり着く人です」
「それは買いかぶりだな」
泰六は盃に口をつけた。
「答えにたどり着いたと思ったときこそ、気をつけなければならない。自分の推理に都合のいい事実ばかりを拾い、都合の悪いものを見落としているかもしれないからな」
「では、わからないことは、わからないままにしておくんですか?」
「いや」
泰六は首を横に振った。
「わからないと認めることと、調べるのをやめることは違う。確かめられるものが残っているなら、また確かめればいい。ただ、確かめていないことまで、確かめたように語ってはならない」
進一は、しばらく泰六の顔を見つめていた。
「……それは、夢の中の名探偵から学んだことですか?」
「そうかもしれん」
「では、その名探偵に感謝しないといけませんね」
「夢の中の人物に、どうやって礼を言うのだ」
「次に夢で会ったときにでも」
「君は、ずいぶん気楽だな」
「そうでなければ、泰六さんのお相手は務まりませんから」
進一は笑い、どじょうを一匹、箸でつまみ上げた。
「それにしても、十三番目の鐘ですか。十二回鳴ったあとに、もう一度、鐘のような音が聞こえた。それだけのことが、ずいぶん大きな謎になったんですね」
「人間は、音を聞くだけでは満足しない。音の意味まで知りたがるものだ」
「意味がわからないと、落ち着かないんでしょうね」
「そして、ときには、自分で意味を作ってしまう」
進一は、ふと真顔になった。
「……人の話を聞くときも、同じかもしれませんね」
泰六は何も答えなかった。
進一も、それ以上は尋ねなかった。
鍋の中では、出汁が静かに煮立っていた。店の主人が奥で客と話し、隣の卓では男たちが笑っている。神田の町は、今日も変わらず、さまざまな人間の声で満ちていた。
そのとき、遠くから鐘の音が聞こえた。
一つ、二つ。
泰六は耳を澄ませた。
やがて、鐘の音は途切れ、町のざわめきの中へ消えていった。
「……今のは?」
進一が尋ねた。
「ただの鐘だ」
「確かですか?」
泰六は、進一を横目で見た。
「君まで、私をからかうのか」
「いえ。念のためです」
「念のため、か」
泰六は盃を置いた。
「ならば、念のため、もう一杯頼もう」
「それは、念のためとは言いませんよ」
「では、何と言うのだ」
「おかわりです」
進一の答えに、泰六は声を立てて笑った。
十三番目の鐘が、本当に鳴ったのかどうか。
アーサー・ヴェイルがどこへ消えたのか。
夢の中の謎は、まだ答えを持たない。
それでも、神田の午後には、どじょう鍋の湯気が立ち、米焼酎の盃があり、隣には、遠慮なく問いを投げかけてくる相棒がいる。
探偵の仕事は、謎を解くことだけではないのかもしれない。
自分が見たものを疑い、他人の言葉を聞き、わからないことをわからないまま抱えながら、それでも明日、もう一度、確かめに行くこと。
泰六は盃を持ち上げた。
「進一」
「はい、泰六さん」
「次は、夢ではなく、現実の事件を頼むぞ」
「その前に、鍋をもう少し食べましょう」
「……君は、まったく現実的だな」
「それが取り柄ですから」
盃が、軽く触れ合った。
その音は、十三番目の鐘ではなかった。
ただ、二人がここにいることを確かめる、小さな音だった。




