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小室泰六(SHERLOCK)― Londonの遺恨、夢の中の十三番目の鐘  作者: 東曌


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第四話 十三回目は鳴ったのか

第四話 十三回目は鳴ったのか


「人間は、十年も前の鐘の音を、正確に覚えていられるものだろうか」


馬車の中で、ワトソン博士が尋ねた。


ホームズは窓の外を見たまま答えた。


「覚えていることはできる。だが、覚えているということと、その記憶が正確であるということは別だ」


「マーサ・ベルの証言を疑っているのか?」


「疑うというより、確かめたいのだよ。彼女が十三回目の鐘を聞いたというなら、まず、彼女が何を鐘と呼んだのかを知らなければならない」


「十二回鳴ったあとに、もう一度聞こえた。それだけの話ではないのか?」


「それだけの話なら、十年前に解決していたかもしれない」


ホームズは膝の上の手帳を開いた。


マーサ・ベル。事件当時、ヴェイル家に長年仕えていた家政婦。アーサー・ヴェイルが失踪した夜、屋敷の一階にいたとされる女性である。


彼女の証言には、こう記されていた。


――真夜中の鐘が十二回鳴り終わったあと、もう一度、鐘の音が聞こえました。私は確かに、それを聞きました。


その後の聞き取りでは、彼女は鐘の音を聞いた時刻を深夜零時ごろと述べている。しかし、音の発生源については、明確な説明がなかった。


「彼女は、どこの鐘だと言ったのだろう?」


ワトソンが記録をのぞき込んだ。


「教会の鐘だと考えていたようだ。だが、どの教会かは記されていない」


「それでは、証言を検証するにも手がかりが足りないな」


「だから、本人に尋ねるのだ」


馬車はロンドンの中心部を離れ、住宅の並ぶ一角へと進んでいった。


マーサ・ベルは、現在、未亡人の姉と二人で暮らしていると記録されていた。ヴェイル家を辞めてからは、数軒の家庭で家政婦として働いたのち、年齢を理由に仕事を減らしたらしい。


やがて馬車が止まった。


通りに並ぶ家々は、どれも似たような煉瓦造りだった。玄関先には小さな植木鉢が置かれ、窓辺には洗濯物が干されている。


ホームズが扉を叩くと、しばらくして年配の女性が顔を出した。


「マーサ・ベルさんのお宅でしょうか?」


「そうですが。どちら様で?」


「シャーロック・ホームズと申します。十年前のヴェイル家の事件について、お話を伺いたいのです」


女性の表情が変わった。


「また、あの事件ですか」


「ええ。ご本人はいらっしゃいますか?」


女性は少し迷ったあと、二人を中へ通した。


居間には、小さな暖炉と古い時計があった。テーブルの上には編みかけの布と眼鏡が置かれている。


窓際の椅子に座っていた女性が、ゆっくりと立ち上がった。


マーサ・ベルだった。


髪はすっかり白くなり、顔には深い皺が刻まれていた。しかし、目だけはしっかりしていた。彼女はホームズの顔を見つめると、すぐに気づいたようだった。


「あなたは……ホームズさんですね」


「覚えていてくださったのですね」


「忘れられるものですか。あの事件のとき、何度もお話ししましたから」


マーサは椅子に腰を下ろした。


「弟さんは見つかったのですか?」


ホームズは、すぐには答えなかった。


「残念ながら、まだです」


マーサは目を伏せた。


「そうですか……。あの方は、どこへ行ってしまわれたのでしょうね」


「それを確かめるために、もう一度調べています。今日は、あなたが事件当夜に聞いたという鐘の音について、詳しく伺いたいのです」


マーサの指が、膝の上でわずかに動いた。


「十三回目の鐘ですね」


「はい」


「私は、確かに聞きました」


彼女は、ためらわずに言った。


ホームズは椅子を引き、彼女の正面に座った。


「マーサさん。私は、あなたの記憶を否定するために来たのではありません。ただ、何が起きたのかを正確に知りたいのです」


「分かっています。ですが、あのとき、誰も私の話を信じてくれませんでした」


「私も、あなたの証言を退けました」


ホームズは率直に認めた。


「その判断が正しかったのか、今一度確かめたいのです」


マーサはしばらく彼を見つめていた。


やがて、小さく頷いた。


「何をお話しすればよろしいのでしょう」


「まず、事件の夜、あなたがどこにいたのかを教えてください」


「一階の台所におりました。夕食の片づけを終え、翌朝の準備をしていたのです」


「その場所から、教会の鐘は聞こえましたか?」


「ええ。窓を閉めていても、真夜中の鐘は聞こえました。長いことあの家で働いておりましたから、鐘の音には慣れていました」


「どこの教会か、分かりますか?」


「近所の教会だと思います。ですが、はっきりとは……。夜は霧が出ておりましたし、窓から外を見たわけでもありません」


ホームズは手帳に書き留めた。


「十二回の鐘が鳴ったあと、何が聞こえたのです?」


「もう一度、鐘が鳴りました」


「十二回目の音が消えてから、すぐにですか?」


マーサは目を閉じ、記憶をたどるようにした。


「少し間があったと思います」


「どのくらいの間ですか?」


「それは……分かりません。ひと呼吸ほどだったかもしれませんし、もう少し長かったかもしれません」


「その音は、十二回の鐘と同じ音でしたか?」


「同じだったと思います。でも、少し遠くから聞こえたようにも感じました」


「高い音でしたか、低い音でしたか?」


「低い音でした。真夜中の鐘と同じように、胸の奥に響く音でした」


ホームズはペンを止めた。


「マーサさん。あなたは、その音が十三回目の鐘だと、どうして判断したのですか?」


彼女は顔を上げた。


「十二回鳴ったあとに、もう一度聞こえたからです」


「つまり、音の数を数えていたのですね?」


「いいえ。鐘を数えていたわけではありません。ただ、真夜中の鐘が終わったと思ったあと、もう一度、同じような音がしたのです」


ホームズは静かに頷いた。


「それなら、あなたが聞いたのは、必ずしも同じ鐘の十三回目の打鐘とは限らない」


マーサの顔が強張った。


「ですが、鐘の音だったのです」


「そう聞こえたのですね。その点は理解しています」


ホームズは声を和らげた。


「別の鐘だった可能性はありませんか? たとえば、近くの建物にある時計や、別の教会の鐘です」


「……あるかもしれません」


マーサは、しばらく考えてから答えた。


「でも、あの音を聞いたとき、私は妙だと思いました。真夜中の鐘が終わったのに、もう一度鳴ったのですから」


「そのとき、何をしていましたか?」


「台所で食器を片づけていました。音を聞いて、手を止めたのを覚えています」


「それから?」


「二階で、物音がしました」


ホームズの目が鋭くなった。


「二階ですか?」


「はい。何かが動いたような音でした。家具を引きずるような、重い音だったと思います」


「鐘の音の前ですか、あとですか?」


マーサは眉を寄せた。


「あとだったと思います。でも、十年も前のことです。順番が正確かどうかは……」


「無理に思い出そうとしなくて結構です。覚えていることと、覚えていないことを、分けて話していただければよいのです」


マーサは、ほっとしたように息を吐いた。


「そのあと、私は廊下へ出ました。二階のほうを見ましたが、誰もおりませんでした」


「アーサー・ヴェイルの部屋へ行きましたか?」


「いいえ。旦那様の書斎へ行くのは、用事があるときだけでした。夜中に勝手に入ることはありません」


「その夜、アーサー本人を見ましたか?」


「夕食のときにお見かけしました。それが最後です」


「彼の様子に、変わったところは?」


マーサは少し考えた。


「いつもより静かでした。ですが、あの方はもともと物静かな方でしたから、それだけで何かあったとは言えません」


「兄のエドマンドとは、仲がよかったのでしょうか?」


「仲が悪かったわけではありません。ただ、仕事のことになると、よく意見が違っておりました」


「具体的には?」


「エドマンド様は、昔からのやり方を大切になさる方でした。アーサー様は、新しい方法を試したいとお考えになることがあったようです」


「帳簿について、何か聞いたことは?」


マーサは口を閉じた。


その変化は小さかったが、ホームズは見逃さなかった。


「何かご存じなのですね」


「いいえ……。いえ、正確には、私が知っているのは、ほんの少しのことです」


「どんなことでも構いません」


マーサは、膝の上で手を組んだ。


「事件の数日前、アーサー様が帳簿を抱えて廊下を歩いておられるのを見ました。いつもなら書斎に置いてあるものです。私は、どちらへお持ちになるのかと尋ねました」


「彼は何と?」


「『少し調べることがあるんだ』と、おっしゃいました。それだけです」


「その帳簿を、彼が持ち出したのですか?」


「いいえ。どこへ持っていかれたのかは、見ておりません」


「それを、警察に話しましたか?」


「話したと思います。でも、あのときは何度も質問されて、何をどこまで話したのか、よく覚えていないのです」


ホームズは、しばらく沈黙した。


「マーサさん。あなたが聞いた鐘の音と、帳簿のこと。この二つが関係しているかどうかは、まだ分かりません。しかし、どちらも確かめる必要があります」


マーサは不安そうに彼を見た。


「私は、何か大切なことを忘れているのでしょうか」


「人間の記憶は、十年という時間の中で変わることがあります。それは、あなたに限ったことではありません。私の記憶も同じです」


ホームズは立ち上がった。


「だからこそ、記録を調べ、他の証言と照らし合わせます。あなたが聞いた音が何だったのか、可能な限り確かめてみましょう」


マーサは、静かに頭を下げた。


「どうか、あの夜に何があったのか、見つけてください。アーサー様が自ら出ていかれたのなら、それでも構いません。ただ……」


彼女は言葉を切った。


「誰も、あの方がどこへ行ったのか、知らないままなのです」


ホームズは、何も言わなかった。


二人は礼を述べ、家を出た。


外へ出ると、霧はほとんど晴れていた。通りには人々が行き交い、馬車が走り、遠くの教会から鐘の音が聞こえてきた。


ワトソンは足を止めた。


「今の鐘を聞いたか?」


「もちろんだ」


「十二回ではない。時刻を告げる鐘ではなく、教会の鐘が一度鳴っただけだ」


「そうだね」


ホームズは、音が聞こえてきた方向を見つめた。


「鐘というものは、時刻を告げるためだけに鳴るわけではない。礼拝の知らせ、葬儀の知らせ、火災や危険を知らせる合図。鐘の音が一度聞こえたからといって、それが時刻を示しているとは限らない」


ワトソンは頷いた。


「マーサが聞いた音も、そうだった可能性があるわけだ」


「その可能性はある。だが、まだ仮説にすぎない」


ホームズは歩き始めた。


「まず、事件当夜に近隣の教会がどのような鐘を鳴らしていたかを調べよう。それから、警察の記録に残された時刻と、他の証言を照らし合わせる」


「鐘の仕組みまで調べるつもりか?」


「時計職人の家で起きた事件だ。時間に関わる証拠を調べない理由はない」


ホームズは馬車を呼び止めた。


そのとき、彼はふと振り返った。


マーサの家の窓辺に、古い置時計が見えた。時計の針は、正午を少し過ぎたところを指している。


「ワトソン」


「何だ?」


「彼女は、鐘が十三回鳴ったとは、正確には言っていない」


「十二回のあとに、もう一度聞こえたと言った」


「そのとおりだ。彼女が証言したのは、音の順序だ。鐘の機構が十三回打ったという事実ではない」


ホームズは馬車に乗り込んだ。


「私たちは、彼女の言葉を勝手に書き換えていたのかもしれない。彼女が聞いた音を、私たちが『十三回目の鐘』と名づけた。その瞬間、別の可能性が見えなくなったのだ」


ワトソンは、しばらく考え込んだ。


「では、事件の鍵は鐘そのものではないのかもしれないな」


「そうだ。鍵は、私たちが何を事実とし、何を解釈として扱ったかにある」


馬車が動き始めた。


ホームズは手帳を開き、マーサの証言を書き留めた。


十二回の鐘が終わったあと、もう一度、鐘に似た音が聞こえた。


二階で物音がした。


アーサーは事件当夜、夕食のあとには姿を見せなかった。


そして、帳簿を調べていた。


ホームズは、その三つの記述を並べて見つめた。


まだ、互いを結びつける証拠はない。


だが、十年前には見えなかった疑問が、少しずつ形を取り始めていた。


十三回目の鐘は、本当に鳴ったのか。


それとも、誰かが鳴らした別の音を、鐘だと思ったのか。


答えはまだ、霧の向こうにあった。


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