第三話 時計職人の兄
第三話 時計職人の兄
ヴェイル家を出たホームズとワトソンは、近くの通りで馬車を拾った。
「マーサ・ベルの住所は分かっているのか?」とワトソンが尋ねた。
「警察の記録に残っている。事件当時、彼女はヴェイル家で家政婦をしていた。退職後の住所までは記されていないが、少なくとも、最後に確認された居住地は分かる」
「十年も前の住所だ。すでに引っ越しているかもしれない」
「その場合は、近所の者に尋ねればよい。人間は住所を変えるが、隣人の記憶まで簡単に移転させることはできない」
「君は、隣人の記憶を信用しすぎることがある」
「だから、複数の隣人に尋ねるのだよ」
ホームズは運転席の御者に住所を告げた。
馬車が動き始めると、彼は膝の上に古い書類を広げた。十年前の警察記録には、失踪事件の概要、関係者の証言、発見された品物の一覧が記されている。
そのなかに、エドマンド・ヴェイルの供述があった。
「ここを見たまえ、ワトソン」
ホームズは一節を指した。
「事件の三日前、兄弟は事業上の問題をめぐって口論した。エドマンドは、弟が帳簿の一部を持ち出そうとしたと述べている」
「それが失踪の原因だったと、君は考えたのだな」
「当時はね。だが、今読むと、別の疑問が生じる」
「どんな疑問だ?」
「エドマンドは、弟が帳簿を持ち出そうとしたと証言している。しかし、その帳簿が何を記録していたのか、記録には具体的に書かれていない」
ワトソンは書類をのぞき込んだ。
「時計の取引に関する帳簿ではないのか?」
「おそらくそうだろう。だが、おそらく、という言葉は証拠ではない」
ホームズは紙を折り直した。
「まずは兄の仕事を理解する必要がある。時計職人の仕事がどのようなものかを知らずに、帳簿の意味を判断することはできない」
馬車は細い通りを抜け、商店が立ち並ぶ一角へ入った。
やがて、御者が手綱を引いた。
二人の前に、ヴェイル時計店があった。
店先の看板には、金色の文字で「E. VALE, WATCHMAKER」と記されている。窓には懐中時計や置時計が並び、磨かれた真鍮の振り子が朝の光を受けていた。
店の扉を開くと、小さな鈴が鳴った。
店内には、時計の音が満ちていた。
壁掛け時計の振り子が左右に揺れ、卓上時計の針が静かに進み、奥の作業台では、小さな歯車が布の上に並べられている。
その作業台に向かっていた男が顔を上げた。
エドマンド・ヴェイルだった。
「ホームズさん。先ほどは、どうも」
「またお邪魔します、ヴェイル氏。お仕事中に申し訳ない」
「構いません。時計の修理は、急がせても良い結果にはなりませんから」
エドマンドは手にしていた小さな工具を置いた。
「今度は何をお聞きになりたいのです?」
「弟君の仕事についてです。アーサーは、あなたの事業を手伝っていたのですね」
「ええ。帳簿の整理や、取引先への連絡などをしていました。細かな計算が得意な男でした」
「時計の修理そのものは?」
「ほとんどしませんでした。歯車の組み立ては、私の仕事です。弟は数字と書類を扱うほうが向いていました」
ホームズは店内を見回した。
「この店の時計は、すべてあなたが修理するのですか?」
「簡単な修理なら職人に任せることもありますが、精密な仕事は私がします。時計は、一つの歯車がわずかに狂うだけで、時間を正確に刻めなくなる」
「小さな狂いが、大きな違いを生むわけですね」
「そのとおりです」
エドマンドは、作業台の上に置かれた懐中時計を手に取った。
「こちらをご覧ください。見た目には何の問題もありません。しかし、内部の歯車が摩耗している。外から眺めるだけでは、故障の原因は分からないのです」
ホームズは時計を受け取らず、作業台の上から観察した。
「人間の証言にも、似たところがありますな」
エドマンドは顔を上げた。
「人間の証言ですか?」
「外から見れば整っていても、内部に小さな狂いがあるかもしれない。だからこそ、私たちは確かめなければならない」
店内の時計が、いくつもの異なる音を刻んでいた。
エドマンドは懐中時計を布の上に戻した。
「弟は、何か問題を起こしたのでしょうか?」
「それを確かめているところです。あなたは、弟が帳簿を持ち出そうとしたと証言していますね」
エドマンドの手が止まった。
「はい」
「どの帳簿です?」
「取引先への支払いと、部品の仕入れに関するものです」
「帳簿に不正があったのですか?」
「不正というほどのことではありません。ただ、数字が合わない箇所がありました」
「数字が合わない?」
ホームズの目が鋭くなった。
「それは、いつ頃からです?」
「失踪の数か月前です。仕入れた部品の数と、帳簿に記録された数が一致しないことがあった」
「そのことを、弟君は知っていた?」
「ええ。帳簿を管理していたのは弟ですから」
「彼は原因を説明しましたか?」
「仕入先の記録が間違っているのだろう、と言っていました。私は、もう少し詳しく調べるべきだと考えていました」
「その点で口論になったのですか?」
エドマンドはしばらく考えた。
「それも理由の一つです。ですが、金銭の問題だけではありませんでした。弟は、私が仕事のすべてを自分で決めようとすることに不満を持っていたのです」
「具体的には?」
「新しい取引先との契約についてです。私は、長く付き合いのある商人を通して部品を仕入れていました。弟は、別の仕入先を使えば費用を抑えられると言った。しかし、私は品質を優先すべきだと考えた」
「その仕入先は、実際に安かったのですか?」
「そう聞いていました」
「あなた自身が価格を確認したわけではない?」
エドマンドは一瞬、言葉に詰まった。
「……いえ。弟がそう言ったのです」
ホームズは手帳を取り出した。
「ヴェイル氏。あなたと弟君の間には、仕事の進め方をめぐる意見の違いがあった。しかし、弟君が何かを盗んだという証拠は、まだ見つかっていない。そう理解してよろしいですか?」
「私は、弟を盗人だと決めつけたわけではありません」
エドマンドは少し強い口調で答えた。
「ただ、帳簿を持ち出そうとしたことは事実です」
「それは、あなたが直接見たのですか?」
沈黙が落ちた。
壁の時計が、規則正しく時を刻んでいた。
「……弟が帳簿を手にしているところは見ました」
「どこで?」
「店の奥です」
「何をしていましたか?」
「帳簿を調べていました」
「それは、帳簿を持ち出そうとしたことと同じでしょうか?」
エドマンドは答えなかった。
ホームズは手帳を閉じた。
「今の段階では、違うと言わざるを得ませんね」
「しかし、彼は失踪したのです」
「そのとおりです。だからといって、失踪以前のすべての行動を、失踪の準備だったと解釈することはできません」
エドマンドは作業台に手をついた。
「あなたは、私が弟を追い詰めたと言いたいのですか?」
「私は、あなたが何をしたかを調べています。何をしたと思っているか、ではなく」
ホームズは店の奥に目を向けた。
壁際には、修理を待つ時計が何台も置かれていた。その一つに、蓋の開いた古い懐中時計があった。内部の歯車は取り外され、部品が小さな皿に並べられている。
「それは、修理中の時計ですか?」
「ええ。十年以上前から使われている型です。部品が古く、交換するものを探しているところです」
「時計の修理には、元の部品が必要なこともある?」
「同じ型の部品が手に入れば、そうです。しかし、合わない部品を無理に使えば、別の故障を引き起こします」
ホームズは、しばらくその時計を見つめていた。
「なるほど」
彼はエドマンドに向き直った。
「弟君が失踪した夜、あなたはどこにいましたか?」
「自宅です。夕食のあと、書斎で仕事をしていました」
「アーサーとは会いましたか?」
「夕食の席で顔を合わせました。それが最後です」
「口論は?」
「ありませんでした」
「彼は普段どおりでしたか?」
エドマンドは、少しだけ視線を落とした。
「普段どおり、と言えるかどうか……。あの頃、弟はよく考え込んでいました。何かを気にしているようでしたが、私には話しませんでした」
「あなたは、尋ねなかったのですか?」
「尋ねました。しかし、彼は大丈夫だと答えた」
エドマンドの声が、わずかに低くなった。
「私は、もっと詳しく聞くべきだったのかもしれません」
その言葉には、十年前の後悔がにじんでいた。
ホームズは、すぐには返事をしなかった。
「ヴェイル氏。後悔は、事実を変えることはできません。しかし、事実を見直す理由にはなります」
エドマンドは顔を上げた。
「あなたは、弟が生きていると思いますか?」
ホームズは、その問いを慎重に受け止めた。
「私は、彼の生死を判断できるだけの証拠を持っていません」
「十年前も、そうだったのですか?」
「十年前の私は、彼が自ら姿を消したと考えました。しかし、彼がどこへ行ったのか、何を望んでいたのか、そのすべてを確認できたわけではありません」
ホームズは帽子を手に取った。
「私は、あなたを責めるために来たのではありません。弟君が何を考え、何をしようとしていたのか。それを確かめるために来たのです」
「……分かりました」
エドマンドは、小さく頷いた。
「もし何か分かったら、教えてください」
「もちろんです」
ホームズとワトソンは店を出た。
通りには、昼の人通りが増えていた。馬車が行き交い、店先では商人が荷を運び、遠くから鐘の音が聞こえてくる。
ワトソンは歩きながら言った。
「エドマンドは、何かを隠していると思うか?」
「人間は、何かを隠しているからといって、必ずしも罪を犯しているわけではない」
「では、彼は何を隠している?」
「まだ分からない。ただし、彼が語ったことのなかに、確かめるべき点がいくつかある」
ホームズは立ち止まり、手帳を開いた。
「第一に、帳簿の数字が合わなかったこと。第二に、弟が別の仕入先を提案していたこと。第三に、エドマンドは、弟が帳簿を持ち出そうとしたと述べたが、実際に確認したのは、弟が帳簿を調べていたということだけだった」
「その違いが重要なのか?」
「大いに重要だ。『調べていた』という事実が、いつの間にか『持ち出そうとしていた』という解釈に変わっている。証言とは、そうして少しずつ形を変えることがある」
ワトソンは考え込んだ。
「だが、帳簿の数字が合わないことと、アーサーの失踪には、まだ直接のつながりがない」
「そのとおりだよ」
ホームズは手帳を閉じた。
「だからこそ、次に帳簿そのものを調べる必要がある」
「警察の記録に残っているのか?」
「事件当時の記録に、押収品の一覧がある。帳簿が残っているかどうか、確認してみよう」
二人は通りの角を曲がった。
そのとき、ホームズはふと足を止めた。
向かいの時計店の窓に、古い懐中時計が飾られていた。文字盤の針は、午後一時を指している。
「ワトソン」
「何だ?」
「時計は、正しい時刻を示しているだけでは、十分ではない」
ワトソンは彼を見た。
「また時計の話か?」
「いや、証拠の話だ」
ホームズは窓から目を離した。
「時刻が正しくても、その時計がどこにあったのかを知らなければ、事件の時系列は組み立てられない。数字が正しくても、その数字が何を記録したものかを知らなければ、意味を取り違える」
「つまり、数字そのものより、数字の由来を確かめろということか」
「そうだ」
ホームズは歩き始めた。
「アーサー・ヴェイルが残したものは、手袋だけではない。帳簿も、手紙も、そして彼を知っていた人々の記憶も残っている。どれも、正しく読まなければならない」
二人は、警察の記録を確認するため、馬車を探し始めた。
その頃、ヴェイル時計店の奥では、エドマンドが作業台の前に立ち尽くしていた。
彼は修理中の懐中時計を手に取った。
蓋を開け、内部の歯車を見つめる。
そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「アーサー……お前は、何を見つけたんだ」
時計は、まだ動いていなかった。
しかし、その針が再び動き始める日が来ることを、エドマンドは恐れているようだった。




