第二話 閉ざされた書斎
第二話 閉ざされた書斎
翌朝のロンドンは、昨夜の霧をまだ街角に残していた。
ベイカー街を出たシャーロック・ホームズとワトソン博士は、馬車に揺られながら東へ向かっていた。車輪が濡れた石畳を踏むたび、車体が小さく揺れる。通りには仕事へ向かう人々が行き交い、パン屋の店先からは焼きたてのパンの香りが漂っていた。
「君が朝食もそこそこに出かけるとは、珍しいな」
ワトソンが言った。
「朝食は食べたよ」
「紅茶を一杯飲んだだけだろう」
「紅茶は立派な朝食の一部だ」
「その理屈なら、煙草一本でも昼食になる」
ホームズは薄く笑った。
「君は医師として、私の食生活に関心を持ちすぎている」
「君の生活習慣が、いつか私の患者になるのではないかと心配しているのだ」
「それはありがたい。だが、今日の患者は私ではない」
ホームズは膝の上に置いた古い書類を指先で叩いた。
「十年前の事件だ」
ワトソンは窓の外へ目を向けた。
「アーサー・ヴェイル。失踪した時計職人の弟。閉ざされた書斎から消えた男、か」
「正確には、時計職人の弟が時計職人だったわけではない。エドマンドは時計の製作と修理で名を知られていたが、アーサーは別の仕事をしていた。帳簿の整理や取引先との連絡など、兄の事業を手伝っていた時期がある」
「兄弟の間には、金銭上の問題があったと記録されている」
「そうだ。だが、金銭問題があったことと、それが失踪の原因だったことは別の話だ」
ホームズは書類を開き、十年前に自分が記した結論を読み返した。
「当時の私は、複数の事情を一つの説明にまとめた。アーサーは兄と争い、金銭的な困難を抱え、姿を消す準備をしていた。書斎からの失踪は、その計画の一部だった――そう考えた」
「筋は通っているように聞こえる」
「筋が通っている説明ほど、注意が必要なことがある。人間は、ばらばらの事実を一つの物語にまとめると安心する。私も例外ではない」
馬車が速度を落とした。
御者が手綱を引き、車体が静かに止まる。
「着いたようだ」
ホームズは書類をしまった。
「では、十年前に私が見たものと、実際にそこにあったものを区別しよう」
二人が降りた先には、煤けた煉瓦造りの建物があった。通りに面した窓は磨かれていたが、外壁の一部には長年の雨が作った黒い筋が残っている。入口の真鍮製の取っ手はよく手入れされていた。
扉を開けたのは、年配の召使いだった。
ホームズが名乗ると、男は驚いたように目を見開いた。
「ホームズ様……十年前の」
「覚えていてくれたようだね」
「忘れようがございません。旦那様も、あの事件のことは、めったに口にされませんでした」
「エドマンド・ヴェイル氏は在宅かな」
「書斎にいらっしゃいます。お取次ぎいたします」
ほどなくして、二人は応接室へ通された。
そこには、背の高い、痩せた男が立っていた。髪には白いものが混じり、目の下には深い皺が刻まれている。年齢以上に疲れて見えたが、身なりは整っていた。
「ホームズさん」
エドマンド・ヴェイルは、歓迎とも警戒ともつかない声で言った。
「十年前にお会いして以来ですな」
「お久しぶりです、ヴェイル氏。突然の訪問をお許しください」
「あなたが再びこの事件に関心を持たれるとは、思いませんでした」
「私自身も、そう思っていました」
ホームズは率直に答えた。
「昨夜、あなたの弟君の事件について考えることがありましてね。いくつか、改めて確認したいことがあるのです」
エドマンドは一瞬、ホームズの顔を見つめた。
「何か新しい証拠が見つかったのですか?」
「まだ、何も。だからこそ、確認に来ました」
ホームズは椅子に腰を下ろさず、部屋を見回した。棚には時計がいくつも並んでいた。振り子時計、卓上時計、旅行用の小さな時計。どれも異なる音を刻んでいる。
「相変わらず、時計に囲まれた生活をなさっている」
「仕事ですから」
エドマンドは答えた。
「時間を正確に測ることは、時計職人の務めです」
「時間を測ることと、時間に起きたことを正しく理解することは、別かもしれません」
エドマンドの表情がわずかに硬くなった。
「それは、どういう意味でしょう?」
「まだ、私にも分かりません」
ホームズは穏やかに言った。
「まず、事件当夜の書斎を見せていただけますか」
エドマンドはしばらく沈黙したあと、頷いた。
「こちらです」
廊下を進み、階段を上がる。二階の奥に、一つの扉があった。
「弟が姿を消した部屋です」
エドマンドは扉の前で立ち止まった。
「事件のあと、しばらくは入ることができませんでした。何もかも、あの夜のまま残しておきたかったのです。しかし、十年も経てば、そういうわけにもいきません。今では私が使っています」
彼は鍵を取り出した。
錠前が回る音が、廊下に響いた。
扉が開いた。
書斎は、想像していたよりも狭かった。窓は一つ。机は壁際に置かれ、暖炉の前には小さな絨毯が敷かれている。書棚には帳簿や書簡が並び、机の上には現在の仕事に使う紙が整然と積まれていた。
ホームズは部屋の中央に立ち、ゆっくりと周囲を見回した。
「事件当夜、窓は閉じられていたのですね?」
「はい。窓は内側から閉まっていました。鍵も掛かっていたと聞いています」
「扉は?」
「内側から施錠されていました。私が何度も呼びかけましたが、返事がなかった。それで召使いを呼び、扉を破ったのです」
「破る前に、窓から中を確認しましたか?」
「いいえ。窓の外は壁に面しており、外から中をのぞくことはできません」
ホームズは窓へ歩み寄った。外には隣家の壁が迫っていた。人が通り抜けられるような空間はなく、窓の下に足場もない。
「なるほど」
彼は窓枠を調べた。木材には新しい傷も、無理にこじ開けた痕跡もない。
次に、扉を調べた。錠前は古い型だったが、現在は交換されている。
「十年前の錠前は残っていますか?」
エドマンドは首を振った。
「壊れた扉を修理した際に交換しました。元の錠前は処分したはずです」
「残念です。錠前そのものを調べられれば、分かったこともあったでしょう」
ホームズは扉の内側を見た。
「当時、鍵はどこにありましたか?」
「部屋の中です。机の近くの床に落ちていたと聞いています」
「誰が見つけたのです?」
「最初に部屋へ入った召使いです」
「その召使いは、今もこちらに?」
「いいえ。数年前に辞めました。現在どこにいるかは分かりません」
ホームズは小さく頷いた。
「つまり、鍵が部屋の中にあったという情報は、あなた自身が直接確認したものではないのですね」
「私は、部屋に入ったときには鍵を見ました。ただし、最初に誰がどこで見つけたかについては、召使いから聞いた話です」
「大切な区別です」
ホームズは手帳を開いた。
「では、暖炉を見せてください」
暖炉の前には、古い絨毯が敷かれていた。ホームズは膝をつき、絨毯の縁と床板を調べた。十年前の痕跡が残っているはずもない。彼はそれを承知のうえで、部屋の配置を確認しているようだった。
「手袋は、どこにありましたか?」
エドマンドは暖炉の右側を指した。
「このあたりです。片方だけが落ちていたと記録されています」
「右手用か、左手用か、覚えていますか?」
「……いいえ。そこまでは」
「その手袋は、アーサーのものだと確認されましたか?」
「彼の持ち物の中に、同じ型の手袋があったと聞いています」
「聞いている、ですか」
ホームズは顔を上げた。
「ヴェイル氏。あなたは、その手袋を直接見ましたか?」
エドマンドは口を閉じた。
沈黙は数秒だった。しかし、ワトソンには、その短い時間が妙に長く感じられた。
「いいえ」
エドマンドは、ようやく答えた。
「私は、事件の翌日に警察から説明を受けました。手袋は弟のものだろう、と」
「誰がそう判断したのでしょう?」
「警察だったと思います。あるいは、家の者が」
「記録には、持ち主を確定した人物の名前がありません」
ホームズは手帳を閉じた。
「十年前の私は、その点を問題にしなかった。手袋はアーサーのものだという前提で、推理を進めていたのです」
ワトソンが口を挟んだ。
「しかし、手袋が彼のものではなかったとしても、それだけで事件が解決するわけではない」
「そのとおりだよ、ワトソン。だが、前提が誤っていれば、その上に積み上げた推論も、すべて見直さなければならない」
ホームズは立ち上がり、机へ近づいた。
「この机は、事件当夜もここに?」
「はい」
「書きかけの手紙があった場所は?」
エドマンドは机の右端を指した。
「そこです」
ホームズは、その場所をじっと見つめた。
「手紙の内容は、覚えていらっしゃいますか?」
「弟が誰かに宛てたものだったと聞いています。すべてを書き終える前に、部屋を出たのではないかと」
「宛先は?」
「分かりません」
「差出人の署名は?」
「それも、分かりません」
「手紙は、現在どこに?」
エドマンドは顔を曇らせた。
「事件の記録に添付されたあと、警察に保管されたはずです。私は写しを持っていません」
ホームズは何も言わなかった。
机の上に、現在の帳簿が置かれていた。彼はそれを動かさず、机の縁と引き出しの取っ手を確認した。
「事件当夜、書斎にあったもののうち、持ち出されたものはありますか?」
「いくつかの書類がなくなっていました」
「どのような書類です?」
「取引先との往復書簡や、帳簿の一部です。弟が仕事に関わっていたので、その関係のものだったのでしょう」
「それらが、アーサー自身によって持ち出されたと判断されたのですか?」
「そう聞いています」
ホームズはゆっくりと振り返った。
「ヴェイル氏。あなたは、弟が自ら失踪したと、今もお考えですか?」
エドマンドはすぐには答えなかった。
窓の外から、馬車の車輪が石畳を転がる音が聞こえた。壁際の時計が、規則正しく時を刻んでいる。
「十年前は、そう考えるほかなかったのです」
エドマンドは言った。
「弟は、私と争っていました。事業のことで意見が合わず、金銭の問題もあった。あの夜、弟が姿を消したとき、私は……」
彼は言葉を切った。
「私は、弟がもう戻らないのだと思いました」
「それは、彼が自ら出て行ったと信じたからですか?」
ホームズの声は静かだった。
「それとも、戻ってこないでほしいと思うほど、兄弟の間に溝があったからですか?」
エドマンドは、ホームズを見つめた。
「あなたは、私を疑っているのですか?」
「私は、あなたの気持ちを尋ねているのです。疑うことと、尋ねることは違います」
ホームズは手帳をポケットにしまった。
「本日は、これ以上お聞きしません。まず、当時の警察の記録と、残されている証言を読み直します」
エドマンドは、どこか安堵したように息を吐いた。
「何か分かりましたら、お知らせください」
「もちろんです」
ホームズとワトソンは書斎を出た。
廊下を歩きながら、ワトソンは小声で言った。
「何か見つかったのか?」
「いくつかの問題が見つかった」
「手袋の持ち主が確定していないこと。鍵の発見状況が二次的な証言に基づいていること。手紙の原本が手元にないこと。それくらいか?」
「それくらい、だと?」
ホームズは足を止めた。
「ワトソン、考えてみたまえ。十年前、私は閉ざされた部屋から人間が消えたという謎を解こうとしていた。しかし、今、私たちが確認できたのは、部屋が閉ざされていたという説明と、そこに残されていた物の持ち主さえ確定していないという事実だ」
「つまり、事件の土台から見直す必要がある」
「そうだ」
ホームズは階段を下りながら言った。
「私は、あの夜に何が起きたかを推理した。だが、その前に確かめるべきだったことがある。何が実際に確認され、何が誰かの説明にすぎなかったのか、ということだ」
玄関で帽子を受け取り、二人は外へ出た。
霧は薄くなりつつあった。遠くの建物の輪郭が、朝の光の中に浮かび上がっている。
ワトソンは馬車を呼ぶために手を上げた。
「次は、誰に会う?」
「マーサ・ベルだ」
ホームズは答えた。
「彼女は、十三回目の鐘を聞いたと証言した。私が退けた、あの証言をね」
「もし、彼女が聞き間違えていたら?」
「その可能性も調べる」
「もし、本当に十三回目の鐘が鳴っていたら?」
ホームズは、霧の残る街を見渡した。
「そのときは、なぜ私たちの記録に、その鐘が存在しないのかを考えなければならない」
馬車が近づいてきた。
ホームズは乗り込む前に、ヴェイル家の窓を一度だけ振り返った。
十年前、彼はあの部屋を見た。そして、事件を説明する結論にたどり着いた。
しかし、今になって気づき始めていた。
説明できたことと、確かめたことは、同じではなかったのだ。
馬車が走り出す。
次に訪ねるべき人物のもとへ、二人を乗せて。
ロンドンの街は、何事もなかったかのように朝を迎えていた。
けれども、十年間閉ざされていた事件の扉は、確かに、もう一度開き始めていた。




