第一話 夢の中の十三番目の鐘
第一話 夢の中の十三番目の鐘
「泰六さん。泰六さん、起きてください」
和田進一は、座布団に背中を預けて眠り込んでいた相棒の肩を、そっと揺すった。
午後の神田は静かだった。表通りからは荷車の軋む音が聞こえ、どこかの店先では、威勢のよい呼び声が上がっている。障子から差し込む陽射しは柔らかく、机の上には、泰六が読みかけた新聞と、冷めかけた茶が置かれていた。
しかし、眠っている男の表情は穏やかではなかった。
「十三回目だ……」
泰六は眉間に皺を寄せ、唇を動かした。
「鐘が……もう一度……」
「泰六さん?」
進一がもう一度肩を揺すると、泰六は弾かれたように目を開けた。しばらく天井を見つめ、それから自分がどこにいるのか確かめるように、部屋の中を見回した。
「……神田か」
「神田ですよ。ここがロンドンなら、私も少しは驚きませんが」
進一は苦笑した。
「ずいぶん、うなされていました。悪い夢でも見たんですか?」
泰六は答えず、机の上の茶碗を手に取った。ひと口飲み、冷めきった茶の味に顔をしかめる。
「悪い夢、か。そう言ってしまえば、それまでだな」
「では、どんな夢だったんです?」
泰六は茶碗を置いた。
「ロンドンだ」
「ロンドン?」
「霧の深いロンドンだった。石畳は濡れ、街灯の光はぼやけ、馬車の音だけが、どこか遠くから聞こえていた」
進一は向かいに座った。
「泰六さんがロンドンへ旅行する夢ですか」
「旅行なら、もう少し楽しい夢を見たいものだ」
泰六はそう言って、わずかに口元を緩めた。しかし、その笑みはすぐに消えた。
「夢の中で、私は一人の男を見ていた。いや、正確には、その男の事件を見ていたのだ」
「事件?」
「十年前に起きた失踪事件だ。消えた男。閉ざされた書斎。暖炉のそばに残された片方だけの手袋。そして、夜の十二時を過ぎて鳴った、十三番目の鐘」
進一は黙った。
泰六は目を閉じた。すると、先ほどまで神田の部屋にあったはずの光景が、ゆっくりと遠ざかっていく。
代わりに現れたのは、煤けた煉瓦造りの建物が立ち並ぶ街だった。
霧が、街を覆っていた。
その霧の向こうに、ベイカー街の一室がある。
暖炉には赤い火が残り、窓際には薬品の瓶や書類が並んでいた。机の上には、新聞と、細かな文字で埋められた一枚の紙。壁際には化学実験の器具が置かれ、その隣では、細身の男が長椅子に横たわっていた。
シャーロック・ホームズである。
長い指を組み、目を閉じていたホームズは、突然、身を起こした。
「ワトソン」
書き物机に向かっていたジョン・H・ワトソン博士が顔を上げた。
「どうした、ホームズ?」
「時計を見たまえ」
ワトソンは暖炉の上の時計に目をやった。
「十一時五十五分だ。何かあるのか?」
「あと五分で、何かが起きる」
「何が起きる?」
「それを確かめるために、君を呼んだのだよ」
ホームズは長椅子から立ち上がり、窓辺へ歩いた。カーテンを少しだけ開けると、霧に沈んだ街路が見えた。向かいの建物の輪郭さえ、はっきりとは分からない。
「今夜は妙な夜だ」とホームズは言った。「先ほどから、ある事件のことが頭を離れない」
「また古い事件か?」
「十年前の事件だ」
ワトソンはペンを置いた。
「十年前? 君がまだ若かった頃の事件か」
「私が解決したと考えていた事件だ」
「解決したのなら、何を今さら考える必要がある?」
ホームズは振り返った。
「解決したことと、真実を知ったことは、必ずしも同じではない」
その言葉に、ワトソンは返事をしなかった。
ホームズは机へ戻り、引き出しから古びた書類の束を取り出した。表紙には、インクの薄れた文字で、こう記されていた。
**THE DISAPPEARANCE OF ARTHUR VALE**
アーサー・ヴェイル失踪事件。
「時計職人エドマンド・ヴェイルの弟、アーサー。十年前、彼はロンドンの自宅から姿を消した。部屋は内側から施錠され、窓にも侵入の痕跡はなかった。机の上には書きかけの手紙があり、暖炉のそばには片方だけの手袋が残されていた」
ワトソンは書類をのぞき込んだ。
「そして、本人は見つからなかった」
「そのとおりだ。当時、私は彼が自ら姿を消した可能性が高いと結論づけた。金銭上の問題、兄との不和、そして出発を示唆する手紙。証拠は一つひとつ、同じ方向を指していた」
「ならば、君の推理は妥当だったのではないか?」
「妥当だった。だが、妥当であることは、正しいことの証明にはならない」
ホームズは一枚の紙を取り出した。古い証言記録だった。
「この事件には、もう一つの証言があった。ヴェイル家に仕えていた家政婦、マーサ・ベルのものだ」
彼は紙面の一節を指で押さえた。
「彼女は、事件の夜、教会の鐘を聞いたと言った。十二時の鐘が鳴り終わったあと、もう一度、鐘の音が聞こえた、と」
ワトソンは眉をひそめた。
「十三回鳴ったというのか?」
「彼女はそう証言した」
「聞き間違いだろう。鐘の数を取り違えることはある」
「私も、そう考えた」
ホームズはその言葉を口にしたあと、しばらく黙った。
「当時の私は、彼女が混乱していたと判断した。ほかの証言とも合わず、鐘の記録にも十三回目の打鐘は記されていなかったからだ」
「それで、その証言は退けられた」
「そうだ」
ホームズは紙を机に置いた。
「だが、ワトソン。彼女は何を聞いたのだろう?」
「鐘だろう?」
「どの鐘を?」
ワトソンは答えに詰まった。
ホームズは暖炉の火を見つめた。
「教会の鐘が十三回鳴ったのか。十二回の鐘が終わったあと、別の鐘が鳴ったのか。それとも、鐘の音に似た何かを、彼女は鐘だと思ったのか」
「十年前の証言を、今になって疑い始めたわけか」
「夢のような話だろう?」
ホームズは、ふいに笑った。
「いや、実際に夢だったのかもしれないな」
ワトソンは不思議そうに彼を見た。
「何を言っている?」
ホームズは答えなかった。
そのときだった。
遠くから、鐘の音が聞こえた。
一つ。
二つ。
三つ。
ロンドンの夜を渡って、低い音が霧の中を進んでくる。音は街路を越え、建物の壁を震わせ、ベイカー街の窓にかすかな響きを残した。
四つ。五つ。六つ。
ワトソンは時計を見た。
「真夜中だ」
七つ。八つ。九つ。
ホームズは動かなかった。
十。十一。十二。
鐘の音が止んだ。
静寂が戻った。
ワトソンは息を吐いた。
「これで終わりだ」
その瞬間。
もう一度、音がした。
鐘だった。
たしかに鐘の音だった。
十二回の響きが消えたあと、間を置いて、十三回目の鐘が鳴ったのである。
ワトソンは窓辺へ駆け寄った。
「ホームズ、今の音を聞いたか?」
「もちろんだ」
ホームズは、ゆっくりと立ち上がった。
その顔には、驚きよりも、むしろ長年探していたものをようやく見つけた人間の表情が浮かんでいた。
「ワトソン。明日の朝、ヴェイル家を訪ねる」
「十年前の事件を、もう一度調べるのか?」
「そうだ」
「なぜ、今なのだ?」
ホームズは古い書類を手に取った。
「十三回目の鐘が、実際に鳴ったからだ」
「しかし、どこの鐘が鳴ったのか分からない」
「だから調べるのだよ」
ホームズは書類を封筒に戻した。
「もし、あの家政婦の証言が正しかったのなら、私は十年前、重要な事実を見落としていたことになる。そして、もし証言が間違っていたのなら、今夜の鐘は何だったのか、説明しなければならない」
ワトソンは外の霧を見つめた。
「君は、夢を見たのかもしれないな」
「そうかもしれない」
ホームズは静かに答えた。
「だが、夢であろうとなかろうと、疑問が生じた以上、答えを探さずにはいられない」
窓の外では、霧がいっそう濃くなっていた。
そして、十年間、誰にも解かれなかった失踪事件が、再び動き始めた。
――明治の神田では、小室泰六が目を開けた。
「……それで、どうなったんです?」
進一が尋ねた。
泰六は、しばらく何も言わなかった。
「まだ分からん」
「夢の続きが?」
「いや」
泰六は冷めた茶を見つめた。
「十三回目の鐘が、どこから鳴ったのかだ」
進一は思わず笑った。
「夢の中の事件まで、解決しなければ気が済みませんか」
「探偵というものは、そういう厄介な商売なのだよ」
泰六はそう言って、再び目を閉じた。
だが今度は、眠るためではなかった。
霧のロンドンで鳴った十三回目の鐘。その音が、まだ耳の奥に残っていたからである。




