プロローグ
【登場人物紹介】
◾️小室泰六/SHERLOCK
明治の東京・神田で探偵を営む男。鋭い観察眼と論理的な推理を武器に、事件の細部から真実を組み立てていく。
ある日、夢の中で十三番目の鐘が鳴るロンドンの事件を体験する。夢の内容を進一に語り始めるが、その夢は単なる奇妙な悪夢として片づけられるものなのだろうか。
◾️和田進一
泰六の相棒。泰六の鋭い論理を認めながらも、推理だけでは見落とされる人間の感情や事情にも目を向ける。
うなされる泰六を起こし、夢の話を聞くことになる。ロンドンの事件を直接捜査するわけではないが、泰六が語る物語の聞き手として、読者を夢の世界へ導く役割を担う。
◾️シャーロック・ホームズ
ヴィクトリア朝ロンドンで活躍する名探偵。観察と推理によって、他人には見えない事実を見抜く。
十年前の失踪事件を改めて検証するなかで、かつて自分が導き出した結論にも疑問を抱く。自らの推理を疑うことを恐れず、証拠と論理に立ち返ろうとする。
◾️ジョン・H・ワトソン博士
ホームズの友人であり、事件の記録者。医師としての知識と、人間を見つめる温かな視線を持つ。
ホームズの推理を間近で見守りながら、事件に関わった人々の言葉や感情にも注意を払う。合理的な説明だけでは救いきれない人間の事情を、読者とともに見つめる存在。
◾️エドマンド・ヴェイル
十年前に失踪したアーサー・ヴェイルの兄。時計職人として知られ、失踪事件の重要な関係者の一人である。
弟が姿を消した夜について、彼は何を知っていたのか。兄弟の間に何があったのか。その証言には、まだ確かめるべきことが残されている。
◾️アーサー・ヴェイル
十年前に姿を消した男。失踪当時、彼がいたとされる書斎は閉ざされ、暖炉のそばには片方だけの手袋が残されていた。
彼は本当に自ら姿を消したのか。それとも、誰にも語られなかった事情があったのか。彼の行方こそが、十三番目の鐘をめぐる謎の中心となる。
◾️マーサ・ベル
ヴェイル家に仕えていた元家政婦。事件当夜について、ほかの者とは異なる証言を残している。
彼女が聞いたという「十三回目の鐘」は、記憶違いだったのか。それとも、事件を解くための重要な手がかりなのか。彼女の証言を確かめることが、十年前の謎を解きほぐす第一歩となる。
小室泰六は、椅子に深く腰掛けたまま、うたた寝をしていた。
机の上には、読みかけの書類が広がっている。窓の外からは、神田の町を行き交う人々の声が、かすかに聞こえていた。
「……十三回目だ」
不意に、泰六がつぶやいた。
「鐘が……もう一度……」
その額には、うっすらと汗が浮かんでいた。眉間には深い皺が寄り、閉じた瞼の下で眼球が忙しく動いている。
「小室さん?」
和田進一は、手にしていた書類を置いた。
「小室さん、どうしました?」
泰六は答えない。
「おい、小室さん」
進一が肩に手を置くと、泰六はびくりと身を震わせ、目を開いた。
しばらくのあいだ、泰六は何も言わず、目の前の進一を見つめていた。まるで、まだ別の場所にいるかのようだった。
「……和田君か」
「ええ。私です。ずいぶん、うなされていましたよ」
泰六は額を拭い、ゆっくりと息を吐いた。
「悪い夢でも、見たんですか?」
進一が尋ねると、泰六はすぐには答えなかった。
やがて、机の上の書類を脇へ押しやり、低い声で言った。
「夢だよ。奇妙な夢だった」
「どんな夢です?」
「ロンドンだ」
進一は、少し意外そうに眉を上げた。
「ロンドン?」
「ああ。霧の立ちこめる夜のロンドンだ。古い教会の鐘が、真夜中を告げていた」
泰六は、夢の続きを頭の中で探るように、しばらく黙っていた。
「十二回、鐘が鳴った。ところが……」
「ところが?」
「もう一度、鳴ったんだ」
進一は椅子を引き寄せた。
「十三回目の鐘、ですか」
「そうだ」
泰六は、夢の中で見たものを、ひとつずつ言葉にしていった。
閉ざされた書斎。暖炉のそばに落ちていた片方の手袋。そして、十年前に姿を消した男。
それは、ロンドンの名探偵シャーロック・ホームズが、かつて解決できなかった事件の夢だった。
「妙な話だろう、和田君」
泰六は苦笑した。
「夢の中の私は、十年前の自分の推理を疑っていた。まるで、何か大事なことを見落としていたとでもいうようにね」
進一は、すぐには返事をしなかった。
「でも、小室さん」
「何だね」
「夢の中で見落としたものが、現実の事件でも見落とされていたとは限りませんよ」
泰六は進一を見た。
そして、ほんのわずかに笑った。
「その通りだ。だから、これはあくまで夢の話だよ」
彼は机の上の書類を整え、もう一度、椅子の背に身を預けた。
「ただし、夢の中の名探偵が、どんな推理をしたのか。それくらいは、話してもいいだろう?」
「ええ。ぜひ聞かせてください」
泰六は目を閉じ、霧の向こうにあるロンドンを思い浮かべた。
そして、夢の物語を語り始めた。




