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本能型天才と、理性型軍師と、板挟み中間管理職の帝国奇譚  作者: 青羽 イオ


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第9話「鱗と鳥居」

 川辺の後始末が一段落したころ、ブルナイが走り出した。


 唐突だった。前置きも、理由の説明も何もなく、ただ走り出した。方向は繋いだ馬の方だった。


 私はその背中を目で追いながら、一瞬だけ何も言わなかった。


 馬の脇に着いたブルナイは、鐙に足をかけた。かけようとした。届かなかった。もう一度試みた。また届かなかった。三度目で鐙の縁に爪先だけが引っかかり、そのまま馬体を押しながら鞍を掴もうとしたが、手が届かない。馬が小さく横にずれた。


「あっ、少佐! 危ないですそれ、馬が興奮します、いけません!」


 近くにいた歩兵が駆け寄った。二十歳そこそこの新兵だった。顔が青い。


「うるさい! 乗せろ! 乗せてよ!」


「し、しかし少佐、馬が」


「うるさいうるさい! 乗せろって言ったら乗せろ!」


「お、落ち着いてください少佐、お願いします、頼みます、落ち着いて」


「うるさーーーい!」


 新兵が今にも泣き出しそうな顔になっていた。気持ちはわかる。わかるが、泣いても解決しない。


 私は川辺から歩いていき、新兵の横を黙って通り過ぎた。ブルナイが手を伸ばしたまま振り返った。


 私はそのまま鐙に足をかけ、鞍に上がった。


 ブルナイが両手を上げた。子どもが抱っこを要求するときの形だった。


 私は片手を差し出した。ブルナイがその手を掴む。引き上げる。軽い、と毎回思う。これほど軽い体で、あれほどのことをするのかと、毎回少しだけ釈然としない気持ちになる。


 ブルナイが私の前に収まった。


 濡れたツインテールが揺れて、しずくが頬を打った。冷たかった。川に入っていたのを忘れていた。


「どちらまで」


「村だ! 村にいくぞ!」


「......なぜですか」


「うるさい! 行くって言ったら行くんだ! 急げ!」


「なぜ急ぐんですか」


「ぶつぞ!」


 私は一拍置いた。


「わかりました、行きます」


 手綱を持ち直した。ブルナイの体が前にある。しっかり掴まっていてくださいと言いかけて、やめた。手綱を持たせると方向を誤る。私の上着を掴ませると引っ張られる。


「......そのままでいいです」


 ブルナイは返事をしなかった。


 代わりに、前に身を乗り出して馬の鬣をむんずと掴んだ。両手で、力いっぱい。


 馬が首を振った。


「ブルナイ、こいつはそこを掴まれるのは嫌だと言っています」


「言ってない」


「言っています」


「馬は喋らない」


「様子を見ればわかります」


 言い終わる前に馬が動いた。


 私の手綱よりも先に、勝手に駆け出した。鬣を掴まれたことへの抗議か、あるいは単に走りたかったのか、どちらにしても馬の判断だった。


 ブルナイが口を耳の端まで大きく広げて笑った。風を受けて目を細めながら、それでも笑っている。さっきまで川の中洲で静かに立っていた人間と、同じ人間だった。


 私はため息をついた。


 手綱を握り直して、村に向かった。




 シラセは村に近づくにつれ、においが変わったことに気づいた。


 川辺のそれとは質が違う。生臭さは同じだが、川辺のものが水と腐敗の混合だとすれば、こちらには別の何かが混じっている。私はブーツの底で泥を踏みながら、鼻の奥でその「別の何か」を確かめようとして、すぐやめた。わかっている。戦場で何度も嗅いだことがある。血の匂いだ。


 村の入口に立ったとき、五十名の兵が私の周囲で静止した。


 声を上げた者はいなかった。


 それが逆に、重かった。


 人の気配がない。生き物の気配がない。風もほとんどなく、木の葉が揺れる音すらしない。ただ、村の形だけが残っていた。家々の軒先、干してあった洗濯物、誰かが途中で置いたらしい籠。人が暮らしていた、という事実の残像だけが、そのまま残されている。


 足元が悪かった。


 雨が降った形跡はない。空は晴れていて、九月の日差しがまっすぐ落ちている。それなのに村の道という道が、ぬかるんでいた。泥の中に、光るものが散らばっていた。しゃがんで一枚拾い上げる。川辺で中尉が観察していたものと同じだった。鱗だ。形が整いすぎている、どの魚にも当てはまらない鱗。それが無数に、踏まれたものも踏まれていないものも混じって、村の道に埋まっていた。


 私は立ち上がった。


「調査開始。二名一組で全棟確認。異常があれば声を出さずに合図。北側は私が行く」


 五十名が動き始めた。足音が散った。


 まだ陽は高い。日が落ちるまでには時間がある。それまでに見えるものは全部見ておきたかった。


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