第6話「妖刀マサカド」
「後方……」
「やだって言ってる」
「……待機です」
「やーだ」
この口論に終わりは来ない。経験則として知っていた。
終わらせたのはシラセだった。
軍曹は静かに、そしてまったく自然に、歩兵への指示を出し始めた。ブルナイを肩に乗せたまま。前髪をつかまれたまま。
「第一小隊、左翼展開! 渡河点上流に集中!」
「りょ、了解!」
「第二小隊、右翼回り込み、水際は踏まない!」
「了解しました!」
ブルナイが口を開いた。
「あれ、なんで始まってんの」
「始まりましたので」とシラセが言った。
私はこめかみから指を離した。仕方ない。私もやる。
三八歩兵銃が連なって火を噴いた。乾いた銃声が川辺の空気を叩く。先頭のギョ人が数体、崩れ落ちた。水音を立てて沈む。物理が通る。装甲はない。ならばこのまま――
よし。判断は正しかった。
このまま渡河中の先頭集団を削り、後続を川の中で詰まらせる。半渡に撃つ、その形だ。ちなみにマレンゴの戦いでも――
止まれ私。今じゃない。
状況は動いている。水から出てくる数より、削れる数の方が多い。このまま――
ギョ人が、口を開けた。
一体ではない。前列の数体が、同時に。
「水」が来た、と認識したのは、草が剃刀で薙がれたような音がしてからだった。川辺の雑草が一瞬で根元から斬れ、向こう側の地面に白い線が走った。
――しまった。
私の頭の中で、何かが静止した。
飛び道具。
水の飛び道具を、想定していなかった。
渡河に気を取られていた。川という障害に焦点を当てすぎて、渡河中の敵が攻撃手段を持つことを考えていなかった。孫子は「敵を知れ」と言っている。私は敵を知らないまま、地形の有利だけで判断した。
なんということだ。私としたことが。
軍師として、あるまじき怠慢だった。
「シラセ、全員水際から十歩下がらせてください」
「了解! 全員後退! 十歩!」
間に合ったかどうか。ギョ人が次々と水を噴く。水圧で地面が抉れている。あれが人間に直撃すれば、切傷では済まない。
そして数が減らない。
削っている。削れている。だが川から這い上がってくる数が、減った数を上回り始めている。水の中からいくらでも湧いてくるように見える。黄色い目が何十、何百と霧の向こうから光っている。
数で押し切られる前に、形を変えなければ――
ヒュッ、と空気が鳴った。
ブルナイのツインテールの片方が、揺れた。
水が、かすった。
シラセが一歩退こうとした。その足が地面を踏む前に――
何かが、肩から消えた。
「っ......!」
シラセが片膝をついた。ドン、という音がした。肩から跳躍したのだ、と理解したのは一拍後だった。踏み台にされた。
「ブルナイ! 待て! いや、待って……」
声が出ていた。止まらなかった。止められるわけがなかった。
ブルナイは水辺に、着地した。
着地してすぐ、大きく息を吸って。
「ギョギョギョーーーっ!!!」
叫んだ。
川辺が、一瞬、静止した。
ギョ人たちが動きを止めた。全員、一斉に。顔を上げ、黄色い目でブルナイを見ている。
......え。
私の思考も、一瞬止まった。
ブルナイは両手を腰に当てて、仁王立ちで川を睨んでいた。そして今度は口をさらに大きく開けて、
「ウオーっ! ウオー! ウーオーっ!!」
叫んだ。
ウオ。うお。魚。
私はこめかみに指をあてた。
なぜ今なんだ。なぜこの状況でそれをやるんだ。コミュニケーションを図っているのか。野生がそうさせているのか。本人にも理由がわかっていないのが一番あり得る。どれが正しいのか私には永遠にわからないだろうが、今この瞬間、それはどうでもいい。
ギョ人が戸惑っている。
明らかに戸惑っている。水の中で足踏みしているもの、隣のギョ人と顔を見合わせているもの、まるく飛び出した目をぱちぱちさせているもの。
そして最前列のギョ人が、口を開いた。
「ギョギョギョっ! ぎょ! ギョ! ギョギョウギョ!」
言い返した。
「うおーうおーうおー」と言い出すものまで出てきた。
両軍入り乱れての魚語が、川辺に響き渡っている。
シラセが膝をついたまま、私を見た。
私はシラセを見た。
シラセが小さくうなずいた。
――今だ。
目配せで十分だった。十字砲火。一気に崩す。渡河点の圧迫と右翼からの回り込みを同時に――
シラセが歩兵に向かって合図の手を上げた。その瞬間と、金属音が重なった。
乾いた、鋭い音。
鞘走りの音。
ブルナイが、刀を抜いていた。
……ああ。
私は一拍、すべての計算を止めた。
刀は、彼女の身長より長かった。
何度見ても、慣れない。
腕がぐるりと後ろまで回る。肩の関節がそこまで動くはずがない方向に、音もなく。鞘が邪魔をする前に、すでに抜けている。毎回そうだ。毎回そうなのに、毎回どこかで「今度こそ説明がつくかもしれない」と思っている自分がいる。つかない。いつもつかない。
刀が光を受けた瞬間、炎が上がった。
紫の炎だった。鋼を包むように、刀全体に揺れながら纏いついていく。熱は感じない。煙もない。ただ炎だけが、あるべき場所で静かに燃えている。
ブルナイが振り返った。
目が紫になっていた。
さっきまでの瞳の色ではない。彼女の中の何かが、切り替わった後の目だった。唇が赤い。そして、髪が――金から白に変わっていく。根元から先端に向かって、じわりじわりと。
ブルナイは刀を両手で横手に持ち、顔の前に構えた。
川面に紫の光が映る。
「我が討滅の――」
声が変わっていた。低く、静かで、遠くまで届く声だった。
「――妖刀マサカド」
ギョ人の最前列が、一歩退いた。
本能が、危険を告げていたのかもしれない。黄色い目が、迷っている。魚語のやり取りがやんでいた。
ブルナイは一歩、水の方へ踏み込んだ。
「――喰らえ」
見えなかった。
動いた、と思ったとき、もうブルナイは別の場所にいた。
一拍後、紫の軌跡だけが空気に残った。弧を描いた炎の残像が、三本。前列を薙いだ軌道、翻した返し、そして踏み込んだ先に叩きつけた一閃。
ギョ人が崩れた。音が遅れて来た。水と泥が跳ねる音、重いものが倒れる音。そして生臭さが一段増した。切り口から何かが滲んでいる。鱗の断面が、白く光っている。
前列が消えていた。
「......」
シラセが、短く息を吐いた。膝をついたまま、ゆっくりと立ち上がりながら、乱れた前髪を片手でかき上げた。
「........とにかく撃て」
私もそう思う、と心の中で言った。
「第一、第二小隊、射撃開始!」シラセの声が響いた。「ブルナイ隊長が動いている! 軌道に注意して―それでも撃て! 隊長には当たらん!」
新兵が銃口をブルナイの方向に向けて固まっていた。気持ちはわかる。わかるが。
「隊長には当たらん! とにかく撃て!!」
銃声が連なった。シラセ自身も腰のサイドアームを抜いて引き金を引いている。
私は状況を見た。
川辺に紫の炎がびゅん、と走る。ギョ人が二体崩れる。次の瞬間ブルナイは十メートル右にいる。また炎が走る。また崩れる。早すぎて目で追えない。ただ紫の残光だけが、軌道を教えてくれる。
私は眼鏡をかけ直した。
「ちなみに」と私の口が動こうとした。
止めた。
今は戦術だ。感傷も、ブルナイへのイライラも、後でいい。彼女が前に出た以上、それを織り込んで計算し直す。ブルナイが正面の圧力を引き受けているなら、両翼からの回り込みをもっと速く動かせる。
私は手旗で第二小隊に合図を送った。もっと深く回れ、渡河点を締めろ、と。
数が減っていた。
川から上がってくるギョ人の数と、崩れていくギョ人の数。その比率が、変わっていた。削れる方が、速くなっていた。
ブルナイの紫の炎が、また川面を滑った。
私はこめかみに指をあてながら、手旗を振り続けた。
後方待機と言ったはずだが、という言葉は、のどの奥にしまっておくことにした。今は、使う場面ではない。




