第5話「ギョ!ギョ!ギョ!」
ブルナイの指から鳴るコキコキという音が、一段大きくなった。
私が気づくより先に、シラセが顔を上げた。あの軍曹は耳がいい。
「隊長……」
シラセが言いかけた、その瞬間だった。
生ぬるい風が吹いた。強く。朝の冷気を押しのけるような、季節を間違えた温度の風だった。一拍遅れて、においが来た。腐った魚の匂い。腐敗と水が混ざったような、粘度のある悪臭が鼻の奥に貼りついてくる。私は思わず袖を鼻にあてた。
「くさい! くさい! くさい!」
ブルナイがシラセの肩の上で首をブンブン振り回している。犬が水を払うような勢いで、ツインテールが左右に暴れている。
「隊長、危ないので暴れないでください」
シラセが片手でブルナイを押さえ、もう片方の手で自分の鼻を覆っている。両手がふさがっているので実質どちらも中途半端になっているが、本人は懸命だった。
周りの兵にも動揺が広がっていた。数人が顔をしかめ、銃の握り方が変わっている。においだけではない。霧の動きがおかしい。川から陸へ向かって這い上がるように流れていて、風向きと合っていない。湿度の上がり方も不自然だ。においも霧も、すべてが同時に、同じ方向から来ている。
私はシラセに目配せした。
軍曹はすぐに理解して、近くの兵に短く指示を飛ばした。警戒を厳にせよ、と。ブルナイを肩に乗せたまま、首だけ回して。その姿が若干どうかしているとは思ったが、今は触れないことにした。
霧がさらに深くなった。数歩先の輪郭がぼやけ始める。においはどんどん濃くなり、呼吸のたびに喉の奥に張りついてくる。私は口で息をすることにした。口でしても大差なかったが、気分の問題だ。
そのとき、ブルナイが後ろに大きくのけぞった。
危ない。
シラセの手と私の手が、同時に伸びた。ブルナイは中途半端な反り具合で止まり、宙に浮いたような姿勢のまま空を仰いで、パチパチと大きな瞬きを繰り返している。
「……なんか、来る」
ブルナイがぽつりと言った。やかましい声ではなかった。
川から、音が聞こえてきた。
最初は水音だと思った。だが違う。水音の中に何かが混ざっている。空気の振動が先に来て、音がそれに乗ってくる、という順番だった。耳で聞いているのか、皮膚で受け取っているのかよくわからない。
「ギョ……」
「ギョギョ……ギョ」
人の声ではない。
人間が発声できる音域の、さらに下か上か——いや、どちらでもない気がした。こうして聞き取れているということは人間の可聴域内の音のはずなのだが、聞こえ方がまるで違う。音に合わせて空気が細かく揺れていて、こちらが認知するより先に体の内側に染み込んでくるような、そういうバイブレーションだった。距離がわからない。上からか下からかもわからない。ただ、深い霧の向こう——川しかないあの方向から、確実に近づいてきている。
ちなみに、と私の口が動こうとした。
今じゃない。
兵たちが息を呑んで銃を構えている。水音が大きくなった。川の中を何かが動いてくる音だった。魚ではない。あの水の掻き方は、魚ではない。
私はサイドアームに手をかけた。
もう片方の手は、まだブルナイを支えたままだった。
*
「ギョギョギョ」という声が増えていく。水音も増えていく。霧の向こうに影が見え始めた。
兵の一人が動揺した。乾いた銃声が響く。
「撃つな!」
シラセが叫んだ。一拍遅かった。
影が揺れ、質量のあるものが水に倒れる音がした。重い、鈍い音だった。
全ての音が止んだ。
静寂が、三秒ほど続いた。
ブルナイがむくりと起き上がり、シラセの前髪をわしづかみにした。
「ぐっ」
「ギョギョギョ……」
ブルナイが言い出した。
私は一瞬、聞き間違いかと思った。聞き間違いではなかった。ブルナイは川の方を向いたまま、霧の向こうの音に合わせるようにして「ギョギョギョ」と言っている。
「隊長、今は——」
「アキツキ」
ブルナイに遮られた。声が低かった。さっきまでとまるで違う声だった。
「あれは数が多いぞ」
霧の向こうから「ギョギョギョギョギョ」という声が重なってくる。一つではない。十でも二十でもない。
「さて、どのくらいでしょうか」と私は平静を装って聞いた。装った、というのは自分でわかった。ブルナイがちらりとこちらを見た。眼鏡をかけようとしているのに気づいたのだろう、何か言いかけて、やめた。
「こちらより多い」
シラセが短く息を吐き、顎を引いた。ブルナイに前髪をつかまれたまま、霧の向こうを睨んでいる。乱れた前髪が目にかかっているが、直す様子がない。この軍曹のこういうところは、いつも信頼できる。
こちらより多い、ということは二百以上が確定だ。水に倒れた音から判断して、個体の質量は人間より重い。それが二百以上。銃弾は効いた——倒れたということは物理が通る。霧が濃い。濃すぎて、まだ情報が足りない。
そのとき霧が薄くなり始めた。
太陽が戻ってくる。肌に熱が来た。霧の向こうにあった影が、少しずつ色と形を持ち始める。
私は目を細めた。
人間ではない。
巨大な鯉に見えた、が、二本脚で歩いていた。足は人間のそれと寸分違わないが、そこから上が違う。不釣り合いに短い腕が本来ヒレがあったであろう場所から伸びていて、掌があるべき先端は水かきのついたヒレに近い形をしている。尾びれで水面をビタン、と叩きながら進むものがいる。顔だけを水面から出してぬうっと動くものがいる。サンショウウオのように這いつくばったまま陸に上がってくるものがいる。目は大きく飛び出していて、全体が黄色い膜に覆われているが、爬虫類に近い瞬きを時折繰り返している。
異様なものだけが視界を埋めていく。
私は一度、息を止めた。
胸ポケットから眼鏡を取り出して、かける。
「そのめがね似合ってない」
ブルナイが言った。答えなかった。
状況を整理する。敵の数はこちらより多い、ブルナイの言葉を信じれば二百以上。個体の大きさは人間より一回り以上大きく、質量がある。銃弾は有効、つまり物理が通る相手だ。現在敵は川を渡河中、もしくは渡河を始めようとしている段階にある。
ちなみに孫子は言っている。「半渡而撃之《はんわたししてこれをうつ
》」——敵が渡河している最中を狙え、と。
渡河中の敵は三つの弱点を同時に抱える。川を挟んで戦力が分断される。水の中では動きが鈍く、隊形を変えられない。先頭が戦闘を始めても、後続は物理的に加勢できない。つまり今この瞬間が、最も敵を崩しやすいタイミングだ。
ただし。水際に貼りついて迎撃するのは悪手だ。孫子が「川の中で迎えるな」と言った通り、水に引き込まれるリスクがある。相手は水の中に有利な個体だ。こちらは乾いた地面で、形を作って叩かなければならない。
第九中隊の兵力は歩兵二百。装備は三八歩兵銃と軍刀、全員が戦線を共にしてきたベテランだ。新兵は数名にすぎない。そして——この部隊は怪異と戦うために秘密裏に編成された特殊中隊である。普通の中隊名を名乗っているのは、その性質を外に見せないためだ。怪異との交戦経験があるという一点において、帝国陸軍のどの部隊よりも、この状況に近い訓練を積んでいる。
叩く対象は、先に渡り切った先頭集団に絞る。川の中を狙うより、上陸直後の足場の悪い帯を崩す方が効率がいい。同時に渡河点を圧迫して、後続が詰まるように仕向ける。退路を塞いで「戻れない、進めない」を作ればいい。
息を、吐いた。
全部で三十秒かからなかった。
「シラセ」
「はい」
「第一小隊を左翼に展開、渡河点の上流側に火力を集中させます。第二小隊は右翼から回り込んで上陸直後の帯を叩く。水際には近づかせないでください。中央は私が引き受けます」
「了解。隊長は」
二人同時にブルナイを見た。
ブルナイはシラセの前髪をつかんだまま、川の向こうをじっと見ている。目が、紫に変わり始めていた。
「……隊長」
「うん」
「後方待機です」
「やだ」
「後方——」
「やだって言ってる」
ブルナイの口の端が、ゆっくりと上がった。楽しそうだった。まったく楽しそうだった。
「アキツキ、私が前に出た方が早い。どう見ても」
それは、正しい。正しいのだが。
「……前回の後始末は誰がしたと思っているんですか」
「アキツキ」
「はい」
「今それを言う場面じゃない」
私はこめかみに指をあてた。
川から「ギョギョギョ」という声が、また大きくなった。




