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本能型天才と、理性型軍師と、板挟み中間管理職の帝国奇譚  作者: 青羽 イオ


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第4話「陶器」

 シラセは陶器を両手で包んだまま、いっこうに空けようとしないブルナイに困惑した。


 はやくはやくと叫んでいたくせに、いざ蓋に指をかけようとすると、何かが少しだけ躊躇わせるらしい。左右の足を小さくバタバタさせながら、蓋の縁を指先でなぞっている。開けようとして、止まる。また開けようとして、止まる。開けようとして——止まる。


 私はその横で静かに待った。待ちながら、この人の「はやく」という言葉を今後どの程度信用すべきか、静かに見直していた。


「……隊長、私が開けましょうか」


 ブルナイは大きくうんうんとうなずき、両手で陶器を押しつけてきた。渡してきたというより、厄介払いに近い動作だった。


 受け取る。


 蓋は固くはなかった。ほんの少し力を入れると、乾いた音もなくすっと外れた。中を覗き込む。


 薄暗い小屋の中で、私は視線を止めた。


 指が一本、入っていた。


 陶器を傾けると、指が転がった。朝の光が差し込む角度で、指と指の間に薄い膜が見えた。水かきだった。


 軍人として最初に走った思考は、「これをどう報告するか」だった。感情より先に、義務が来る。そういう訓練を受けてきた。次に走った思考は、「隊長に見せるべきではないかもしれない」だった。これは訓練ではなく、二年間の経験則だった。


「ねぇねぇ! なにが入ってるの!? 見せて見せて!」


 背後でブルナイが背伸びをしている。小柄な体で精一杯つま先立ちになり、陶器の中を見ようとしているが、私の持つ高さには届かない。


「はやく見せろ! なんで隠す! むかつく!」


 先ほど「はやく」という言葉の信用度を見直したばかりだが、この「見せろ」の方は本物だった。私は一拍考えた。アキツキ中尉に先に報告すべきだ、という判断が頭の中で固まっていく。


 その間にブルナイが振り返り、近くに立っていた兵に何か言った。


「お前、四つん這いになれ」


「は、はい」


 兵が反射的に地面に手をついた。なぜ従ったのか私には理解できないが、帝国陸軍最高クラスの魔学戦闘員に短く言い切られれば、新兵は従うのかもしれない。ブルナイはその背中に乗り上がり、見る見るうちに視点が上がっていった。もう少しで陶器に手が届きそうになった、その瞬間——


 私は踵を返した。


 アキツキ中尉に報告する。今すぐ。それが正しい判断だ。これ以上この場にいる理由がない。


「あわわわっ!」


 背後で声がした。次の瞬間、背中に何かが乗ってきた。


 ブルナイだった。台代わりの新兵の背中から飛び移ったらしく、私の背中にしがみついて、肩越しに陶器の中を覗き込もうとしている。


「隊長、危ないです。降りてください」


「……」


 返事がない。


 先ほどまでのやかましさが、嘘のように消えていた。私の背中から肩まで這い上がったブルナイ少佐は、黙って陶器の中を見ていた。さっきまで兵を台にして飛び移ってきた人間と同一人物とは思えない静けさで、ただ、じっと。


 私は一瞬、もう一度降りるよう言おうとして——やめた。


 中尉のところへ急ぐ必要がある。そしてブルナイ少佐をここに残していくわけにはいかない。背中に乗せたまま移動する、という選択肢が、今この瞬間において最も合理的だった。


 私は陶器に蓋をしてそのまま歩き出した。肩に隊長を乗せたまま、川辺へ向かった。四つん這いの兵だけが、小屋の中に取り残された。


 *


 同じ頃アキツキ中尉は 川辺の岩に積み重なった鱗を、しゃがんで観察していた


 鱗を一枚つまみ上げて、光にかざした。川魚のものとは形が違う。鱗の縁が妙に整いすぎている。魚の種類によって鱗の形状は異なるが、これはどの分類にも当てはまらない。ハンニバルがカルタゴを発つ前夜、兵站の記録を一枚ずつ確認したという話を何かで読んだことがある。些細な一枚から全体が見える、という話だ。この鱗も、何かの全体につながっている。

 問題は、その全体がまだ見えないことだった。


 ちなみに、という言葉が喉まで出かかって、私は飲み込んだ。

 誰もいないのだから構わないのだが、習慣というのは恐ろしいもので、ひとりでも「ちなみに」から始めると止まらなくなる。自覚はしている。


 足音が近づいてきた。


 顔を上げると、シラセ軍曹が川辺に向かって歩いてくるのが見えた。報告の顔だ、とすぐにわかった。あの軍曹はいつも用件を顔に出す前に足の運びに出す。歩幅が少し広く、迷いがない。


 ただ。


 その背中に、なぜか隊長が乗っていた。


「……ほぉー」


 ブルナイが肩越しに遠くを眺めて、感嘆の息を漏らしている。


「地面が遠い。なんか気持ちいい」


 なぜシラセの肩に隊長が乗っているんだ。私は立ち上がりながらこめかみに指をあてた。条件反射だ。もう止められない。


「隊長、今は任務中です」


「わかってるよ。でも景色ちがう。アキツキもここから見てみなって、ぜったい好きだと思うよ」


「結構です」


「アキツキって絶対肩車されたことないでしょ。かわいそう」


「かわいそうではありません。シラセ軍曹、報告を」


 シラセの表情が微妙に揺れた。背中に隊長を乗せたまま敬礼の姿勢を取ろうとして、バランスが崩れかけてやめた。漁師小屋のこと、棚の陶器のこと。軍曹は端的に、過不足なく話した。こういうところが頼りになる。肩に隊長を乗せているという一点を除けば。


 陶器を差し出してきたとき、背中からブルナイの手が伸びてきた。私の手の方が一拍早かった。


「わたしも見る! ちゃんと見せろ!」


「少し待ってください」


「むかつく! シラセも! アキツキも! なんでいっつも私だけ! 背が高い人間ばっかり得してる! 不公平!」


「暴れないでください、落ちます」とシラセが声を絞り出している横で、私は陶器の蓋を外した。


 中を覗き込んだ瞬間、思考が一拍、静止した。


 指が一本。


 手袋をしたまま取り出して、光にかざす。爪が薄い。透き通るほど白く、角度によっては魚の鱗に似た光を返す。断面を確認する。切断ではない。刃物の痕がどこにもない。関節の輪郭が、あるべき場所にない。まるで根元から——骨を身から引き抜くように——すっぽりと抜き取られたような断面だった。指と指の間に、薄い膜が張っている。


 水かき。


 私の頭の中で、複数の情報が静かに動き始めた。


 川辺に積み重なった鱗。重傷兵士が言い残した「魚」という一語。消えた偵察小隊、消えた七百人。そして今、この指。断面の形。水かきの薄さ。爪の質感。


 古代バビロニアの記録に、オアンネスという存在が残っている。海から現れた魚人が人間に文明を授けたという神話だが、その原型とされるアプカルルの伝承には「川辺に現れ、人間と混じり、やがて人間の形が変わる」という記述が存在する。スコットランドのブルー・メンは船人に言葉の競走を挑み、負けた者の船を沈めた。イヌイットのクァルパリクは水辺の人間をさらって深海へ連れ去った。文明圏を問わず、川や海の近くで人が消える怪異には、必ず三つの要素が揃っている。魚、水、生臭さ。今、この場所に三つとも揃っている。消えた七百人が「どこかへ連れ去られた」のではなく——「何かに変わりつつある途中だった」としたら——


「ちなみに」


 私は口を開いていた。


 考察が言語化される前に声が出た。まずい。止めなければ。だが止まらない。


「ちなみに古代バビロニアの半魚人伝承には——」


「中尉」


 シラセが遮った。静かだが、確固とした声だった。軍曹が私の「ちなみに」を止めに来るのはこれで何度目だろう。


「何かの動物でしょうか。植物性の何かで……」


「いや」


 私は仕切り直した。言葉が、まだうまく出てこない。この感覚は珍しい。通常、情報が揃えば言語化は早い。だが今は、結論の輪郭だけが見えていて、その中身がまだ暗い。


 そのとき、ブルナイが口を開いた。


「これ……」声が一段下がった。


「誰の?」


 静かだった。

 背筋に冷たいものが走る。


 いつもの声ではない。ふざけていない。余分なものが何もない、まっすぐな問いだった。シラセの肩越しに、ブルナイは陶器の中を見ていた。


 ただ、見ている。


 そしてブルナイの指から、コキコキと音が鳴り始めた。本人が鳴らしているのではない。


 私は水かきをもう一度見た。嫌な予感が、腹の底でゆっくりと形を作り始めていた。


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