表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本能型天才と、理性型軍師と、板挟み中間管理職の帝国奇譚  作者: 青羽 イオ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/19

第3話「スミレへ」

 アキツキ中尉が川辺にしゃがみ込んでいた。

 何かを見つけたらしい。指先でそれをつまみ上げ、朝の光にかざしている。鱗だ。魚の鱗——だが量がおかしい。川辺の岩の上に、不自然なほど積み重なっている。風で集まるような場所でもない。流れで打ち上げられる量でもない。中尉の眉が、わずかに寄った。

 私はその背中を一瞥してから、視線を戻した。

 斥候の手配は終わった。兵の配置を再度確認する。川側、林道側、小屋の裏手。問題ない。


 川からの風が冷たい。湿気を含んだ空気が首筋に張りつき、じわじわと体温を奪っていく。木々の隙間から差し込む朝の光が、霧をゆっくりと溶かし始めていた。


 私は胸ポケットに手を入れた。

 紙と筆。いつも同じ場所に、同じように収めてある。間違えたことは一度もない。戦地に出るときの習慣だ。いつ書けなくなるかわからないから、書けるうちに書く。それだけのことだ。


 私は懐から紙と筆を取り出した。


 ほんの数行でいい。故郷で待っている婚約者への、短い手紙。


 スミレへ、と書いたところで、筆が止まった。何を書こう。任務のことはあまり書きたくない。心配させる。


 そのとき、川で何かが跳ねた。


 視線を向ける。姿は見えない。逆光だ。昇り始めた太陽がちょうど東から差し込んで、川面が眩しく白く光っている。


 もう一度、跳ねた。


 大きな魚だった。黒い影として跳び上がり、光を吸った水しぶきが一瞬だけ輝いた。派手な音はしなかった。大きさの割に、静かな着水だった。


 私は筆を動かした。


 スミレへ。太陽が昇り始める時、川面を滑る霧が世界の輪郭をほどくんだ。君にも見せたい。大きな魚が高く跳ねて、水しぶきがキラキラしていた。大きさの割に静かで、不思議と品があった。私は健在だ。今日もこの場所に一本の線を引いていく。私が——


「シラセーーーーっ!!!」


 耳元で爆発した。


 筆が滑った。危うく落としそうになるのをなんとかこらえ、振り返る。ブルナイ少佐が、目を輝かせてすぐ後ろに立っていた。いつの間に来たのか。足音がまったく聞こえなかった。


「なに? なになに? 何書いてるの?」


 私は素早く紙と筆をしまい、立ち上がって敬礼した。


「申し訳ありま——」


「ねえねえ、お願いがあるんだけど」


 謝罪を遮られた。


 私は一拍置いて、周囲を見回した。アキツキ中尉の姿が見当たらない。お目付け役がいない状態でブルナイ少佐からの「お願い」。嫌な予感しかしない。


「漁師小屋に入りたい!」


 ……やはりそういうことか。


 私は一瞬、反射的に制止しようとして——止まった。


 考えてみれば、そうだ。あの小屋は斥候が通信途絶した地点の近くだ。見るからに怪しい。なぜまだ調べていないのか。斥候を出す前にやるべき仕事があった。任務中に私信を書いている場合ではなかった。自分はまだまだだ、と胸の中で静かに戒める。


「少佐、小屋の安全確認が先です。我々が確認を終えてから入っていただきます」


「わかった、待つ」


 珍しい。素直だ。


 だが待てるはずがない、というのも知っている。私は素早く部下を二名呼んだ。三人で小屋へ向かう。


 *


 漁師小屋は、見るからにボロかった。


 傾いた壁板、腐りかけた軒先。漁に使っていたらしい網は破れ、長いこと使われていない雰囲気だけが残っていた。引き戸は鍵もかかっておらず、軽く引くだけで開いた。


 中は薄暗い。土とカビの匂いがする。魚の匂いはもうない。人の気配もない。ただの、捨てられた漁師小屋だ。


「隊長、まだです」


 背後に向かって声をかけた瞬間、背後でドタドタと足音がした。


「いいね? もう入っていいね? どんな感じ? なになに?」


 止める間もなかった。


 ブルナイ少佐が脇をすり抜け、小屋の中へ踏み込んでいった。小柄な体が、小走りなのか走っているのか判断のつかない速度で動く。装備の剣がガチャガチャと音を立てた。


「少佐っ」


 腕を伸ばしたが、もう届かない。


 私は息を吐いた。ため息ではなく、ただの呼吸だ。こういうときに感情を乱しても意味がない。


 少佐は小屋の奥で立ち止まり、柱の脇に設えられた小さな棚を指さした。視線はそちらに向けたまま、こちらを見ずに言う。


「シラセー、あそこに何かある。取りたい。見たい。届かない。取って」


 棚は柱の上部、掌ほどの高さのところにあった。小さな陶器の入れ物が一つ。私は手を伸ばして取った。


「シラセ、はやく取って。……うわー、余裕で届く。なんかむかつくな」


「むかつかれても困ります。私の身長は普通です」


「ばーか」


 悪口を言わないと気が済まないらしい。何かに負けた気がするのだろう、と私は思った。とりあえず無視して陶器をブルナイ少佐へ渡す。


 ひったくるように奪い、ありがとうも言わず、少佐は陶器を両手で包んだ。


 待っている間、少佐は両肘を上下に振りながら、左右の足を小さくバタバタさせていた。楽しみとワクワクが、犬の尻尾のように脊髄反射で体に出る。それがブルナイ少佐という人だ。


「はやく! はやく!」


 待てない人である。


 私は静かに、少佐の隣に立った。陶器の蓋に、指をかける。


 ——なぜこれが、ここにあるのか。


 使われなくなった漁師小屋の、棚の上。ほこりをかぶっているわけでもない。誰かが、最近ここに置いた。


 嫌な予感が、胸をゆっくりと侵食し始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ