第3話「スミレへ」
アキツキ中尉が川辺にしゃがみ込んでいた。
何かを見つけたらしい。指先でそれをつまみ上げ、朝の光にかざしている。鱗だ。魚の鱗——だが量がおかしい。川辺の岩の上に、不自然なほど積み重なっている。風で集まるような場所でもない。流れで打ち上げられる量でもない。中尉の眉が、わずかに寄った。
私はその背中を一瞥してから、視線を戻した。
斥候の手配は終わった。兵の配置を再度確認する。川側、林道側、小屋の裏手。問題ない。
川からの風が冷たい。湿気を含んだ空気が首筋に張りつき、じわじわと体温を奪っていく。木々の隙間から差し込む朝の光が、霧をゆっくりと溶かし始めていた。
私は胸ポケットに手を入れた。
紙と筆。いつも同じ場所に、同じように収めてある。間違えたことは一度もない。戦地に出るときの習慣だ。いつ書けなくなるかわからないから、書けるうちに書く。それだけのことだ。
私は懐から紙と筆を取り出した。
ほんの数行でいい。故郷で待っている婚約者への、短い手紙。
スミレへ、と書いたところで、筆が止まった。何を書こう。任務のことはあまり書きたくない。心配させる。
そのとき、川で何かが跳ねた。
視線を向ける。姿は見えない。逆光だ。昇り始めた太陽がちょうど東から差し込んで、川面が眩しく白く光っている。
もう一度、跳ねた。
大きな魚だった。黒い影として跳び上がり、光を吸った水しぶきが一瞬だけ輝いた。派手な音はしなかった。大きさの割に、静かな着水だった。
私は筆を動かした。
スミレへ。太陽が昇り始める時、川面を滑る霧が世界の輪郭をほどくんだ。君にも見せたい。大きな魚が高く跳ねて、水しぶきがキラキラしていた。大きさの割に静かで、不思議と品があった。私は健在だ。今日もこの場所に一本の線を引いていく。私が——
「シラセーーーーっ!!!」
耳元で爆発した。
筆が滑った。危うく落としそうになるのをなんとかこらえ、振り返る。ブルナイ少佐が、目を輝かせてすぐ後ろに立っていた。いつの間に来たのか。足音がまったく聞こえなかった。
「なに? なになに? 何書いてるの?」
私は素早く紙と筆をしまい、立ち上がって敬礼した。
「申し訳ありま——」
「ねえねえ、お願いがあるんだけど」
謝罪を遮られた。
私は一拍置いて、周囲を見回した。アキツキ中尉の姿が見当たらない。お目付け役がいない状態でブルナイ少佐からの「お願い」。嫌な予感しかしない。
「漁師小屋に入りたい!」
……やはりそういうことか。
私は一瞬、反射的に制止しようとして——止まった。
考えてみれば、そうだ。あの小屋は斥候が通信途絶した地点の近くだ。見るからに怪しい。なぜまだ調べていないのか。斥候を出す前にやるべき仕事があった。任務中に私信を書いている場合ではなかった。自分はまだまだだ、と胸の中で静かに戒める。
「少佐、小屋の安全確認が先です。我々が確認を終えてから入っていただきます」
「わかった、待つ」
珍しい。素直だ。
だが待てるはずがない、というのも知っている。私は素早く部下を二名呼んだ。三人で小屋へ向かう。
*
漁師小屋は、見るからにボロかった。
傾いた壁板、腐りかけた軒先。漁に使っていたらしい網は破れ、長いこと使われていない雰囲気だけが残っていた。引き戸は鍵もかかっておらず、軽く引くだけで開いた。
中は薄暗い。土とカビの匂いがする。魚の匂いはもうない。人の気配もない。ただの、捨てられた漁師小屋だ。
「隊長、まだです」
背後に向かって声をかけた瞬間、背後でドタドタと足音がした。
「いいね? もう入っていいね? どんな感じ? なになに?」
止める間もなかった。
ブルナイ少佐が脇をすり抜け、小屋の中へ踏み込んでいった。小柄な体が、小走りなのか走っているのか判断のつかない速度で動く。装備の剣がガチャガチャと音を立てた。
「少佐っ」
腕を伸ばしたが、もう届かない。
私は息を吐いた。ため息ではなく、ただの呼吸だ。こういうときに感情を乱しても意味がない。
少佐は小屋の奥で立ち止まり、柱の脇に設えられた小さな棚を指さした。視線はそちらに向けたまま、こちらを見ずに言う。
「シラセー、あそこに何かある。取りたい。見たい。届かない。取って」
棚は柱の上部、掌ほどの高さのところにあった。小さな陶器の入れ物が一つ。私は手を伸ばして取った。
「シラセ、はやく取って。……うわー、余裕で届く。なんかむかつくな」
「むかつかれても困ります。私の身長は普通です」
「ばーか」
悪口を言わないと気が済まないらしい。何かに負けた気がするのだろう、と私は思った。とりあえず無視して陶器をブルナイ少佐へ渡す。
ひったくるように奪い、ありがとうも言わず、少佐は陶器を両手で包んだ。
待っている間、少佐は両肘を上下に振りながら、左右の足を小さくバタバタさせていた。楽しみとワクワクが、犬の尻尾のように脊髄反射で体に出る。それがブルナイ少佐という人だ。
「はやく! はやく!」
待てない人である。
私は静かに、少佐の隣に立った。陶器の蓋に、指をかける。
——なぜこれが、ここにあるのか。
使われなくなった漁師小屋の、棚の上。ほこりをかぶっているわけでもない。誰かが、最近ここに置いた。
嫌な予感が、胸をゆっくりと侵食し始めた。




