第2話 「魚」
9月8日、午前5時。
制服を着ると、「僕」は「私」になる。そういうものだと、自分では思っている。
第124歩兵連隊第9中隊――通称、ブルナイ中隊――は命令通り、二百名の兵員を以て目標近傍の森林地帯に到達した。消えた村まで、残り約1キロメートル。数日前に派遣した偵察小隊は通信途絶、全員行方不明のまま。
森の空気が、肺に絡みつく。
湿気を含んだ朝霧が皮膚にまとわりつき、吐く息が白く溶けては消える。地面は夜露でぬかるみ、ブーツの底が踏み込むたびに沈む。遠くで川が低く鳴っている。木々の葉ずれが風に揺れる。それ以外は、静かだ。静かすぎる。
五本の林道が交差する地点に、朽ちた漁師小屋があった。
傾いた壁板、腐った軒先。その脇に、重傷の兵士が一人、倒れていた。
衛生兵が駆け寄るより先に、私は指示を飛ばす。
「直ちに包帯を。出血を止めろ」
「了解、中尉」
男は混乱状態だった。質問に答えられない。辛うじて聞き取れた単語は一つ。
「魚」。
私は眉を寄せた。魚。この状況で、魚。
意味がわからない。とりあえず記録しておく。
「なんか臭い! 生臭いよ、これ!」
背後から、突き抜けるような声が飛んできた。
ブルナイだ。中隊長、ブルナイ・クラウディア少佐。帝国陸軍最高クラスの魔学戦闘員にして、私のこめかみ寿命を最速で削る元凶が、鼻をひくひくさせながら私の横に立っていた。
「隊長、それはこの場所の自然な臭いです。川魚の残り香ですよ」
「えー、でもなんか変じゃない? どうする? なんか出てきたらどうするの? 戦う? 逃げる? それとも食べちゃう?」
私は深く息を吸った。
「『なんか』とは何を指していますか。敵性勢力ですか。それとも幻の魚でも想定していますか」
「わかんない、なんか、なんか変な感じ!」
「具体的に説明してください」
「だからなんかって言ってるじゃん!」
会話になっていない。いつものことだ。
そのとき、気づいた。
ブルナイの指が、コキコキと鳴り始めていた。本人が意図して鳴らしているわけじゃない。勝手に音がする。これは知っている。興奮か、直感か、何か嫌なものを察知したときの彼女のサインだ。
私は素早く判断した。斥候を出す。
「隊長、ここで一旦停止します。村方面に斥候を派遣し、状況確認を優先します」
ブルナイは肩をすくめた。
「ふーん、好きにしなよ。わたし暇だからいいけど」
私はシラセ軍曹を呼んだ。トウヤ・シラセ軍曹。私の副官にして、この中隊で最も常識的な人間。中間管理職の鑑みたいな男だ。
「軍曹、歩兵二名を選抜。斥候として村方面へ進め。異常発見時は即時報告」
シラセは直立し、敬礼した。
「了解しました、中尉。直ちに実行します」
その背中を見送りながら、私は地図を広げた。現在地、林道の交差点。川が右手。村まで直線で1キロ、ただし林道は二度屈曲する。偵察小隊が消えたのはおそらく——
「見て見て、アキツキ! これ、城みたいじゃない!?」
顔を上げると、ブルナイが川辺で石を積み上げていた。
……いつの間に。
「ほら、塔できた! ……あ、崩れたっ! もう一回!」
私は地図から視線だけをブルナイに滑らせた。
――また始まった。
この瞬間だけ、隊長は完全に戦場を忘れる。衝動が彼女を別の世界へ連れ去り、石積みに全神経を注ぐ。無防備すぎる笑顔、無邪気すぎる集中力。
(この無邪気さが、いつか私たち全員を殺すかもしれない)
胸の奥で苛立ちと諦めが、静かに混ざった。
「隊長、現在位置はここです。村まで1キロ。斥候を派遣中です」
地図を差し出す。ブルナイは首を傾けて目を細めた。
「え、どこ? 全然わかんない。てかさむい、さむい! 外套ちゃんとしないと」
「見てください、地図を」
「でも寒いし」
「地図です」
「外套のボタンかたい」
「地図!」
ブルナイは外套のボタンをいじりながら、大げさに震えてみせた。朝の冷え込みは確かに骨まで染みる。湿気を孕んだ空気が首筋を冷たく撫で、じわじわと体温を奪っていく。だがそれを差し引いても、この人の行動は予測不能すぎる。
私はこめかみを押さえた。
「隊長、斥候はシラセ軍曹が率いています。帰還まで待機です」
「あれ? シラセが斥候に出たの? いつ?」
「さっき説明しました」
「あ、聞いてなかった! もう一回教えて」
「……聞いてなかったんですか」
「石が崩れたとこだったから」
私は湿気でまとわりつく前髪を結い直しながら、もう一度説明した。感情を殺した声で。
「斥候は村方面へ。二名派遣。シラセ軍曹が指揮。異常なしなら合図が来ます」
「ふーん」
ブルナイは大木の根元に腰を下ろした。装備の剣がガチャリと鳴る。金属の冷たい響きが朝霧に溶けた。
「ねえアキツキ、なんかワクワクしない? 魚出てきたら釣っちゃおうかな」
「釣らないでください」
「なんで」
「任務中だからです」
「釣りも任務にならない?」
「なりません」
ブルナイはつまらなそうに唇を尖らせた。そしてまた石を拾い始めた。
私は頭の中で地形を再構築する。川の流れ、林道の配置、偵察小隊が消えた方角。何かが潜むとすれば、どの方向から来るか。風が川から吹いてくる。湿気が、生臭さを運んでくる。
嫌な予感が、胸をじわじわと侵食する。
偵察小隊が言い残した単語は「魚」。重傷の兵士が言った単語も「魚」。
一致している。
意味はまだわからない。だが偶然ではないはずだ。
「シラセ軍曹」
私は彼を呼んだ。
「斥候帰還まで、兵の配置を見直せ。周囲警戒を強化。特に川側に注意」
「了解、中尉。陣形を再編します」
シラセが動き始める。無駄のない指示、迷いのない動作。本当に頼りになる。
「ねえ、何かあった?」
背後からブルナイが声をかけてきた。石積みの手を止めて、こちらを見ている。
「……念のための対応です」
「アキツキが念のためって言うときって、大体念のためじゃないよね」
私は答えなかった。
川が鳴っている。霧が渦を巻く。肌に張りつく冷気、鼻を突く生臭さ、風がはこぶ湿った静けさ。
すべてが、何かを予感させる。
ブルナイの指が、また、コキコキと鳴り始めていた。




