第18話「一太刀」
宮守が膝をついた。だが崩れない。
割れた祭具から黒い水が落ち、石段の溝を伝って鳥居の内へ戻っていく。切れたはずのものが、まだ帰り道だけ覚えている動きだった。
「まだいる」とブルナイが低く言う。
「ええ」
答えながら、アキツキは鳥居を見た。柱の刻み傷が濡れていた。さっきまでただの古い傷に見えた線が、今はどれも細く黒い。左右の柱に、ほぼ同じ高さ、ほぼ同じ刻み。数えてはいない。だが数のために付けられた傷だとわかる。
鳥居が鳴った。木の軋みではない。濡れた喉の奥で空気が擦れるような音だった。
床下も鳴る。社だけではない。家々の縁の下、石段の隙間、泥の浅い窪地。村じゅうの薄い水が一斉に揺れた。そこに顔が混ざる。老人の顔、若い女の顔、子どもの丸い額。どれも水に崩れて輪郭が曖昧なのに、顔だとわかってしまう。見たことがあるわけではない。なのに、村の中で見た背丈の線や、小さな茶碗や、寝具の大きさが勝手に結びついてしまう。
兵のひとりが動きを止めた。
「……子ども」
「見るな!」
シラセの怒声が飛ぶ。兵の肩が跳ね、足が戻る。戻った瞬間を待っていたように、床下から濡れた腕が何本も突き出た。人の指だ。だが関節の曲がり方が、長く石の下を這ってきた虫じみた角度になっている。
宮守の口が開く。
「返した」水が唇から垂れる。
「乾く前に」
その断片を聞いた瞬間、アキツキの中で散っていたものが一つの形になった。
返した。送った、ではない。埋めた、でもない。返した。村から山へ。人から別の側へ。
「ちなみに」
口が先に動いた。シラセが半歩ぶんだけこちらへ顔を向ける。今度は止めない。
「古い供犠で人を"渡す"形を取るものは、人数の記録を門や柱に残すことがあります。墓ではなく通路の記録です。送り先が山や水の向こう側に設定される場合、境を示すものと、渡す役の持つ祭具が対になりやすい。通り道を開けた印と、通した証拠が両方いる。つまり祭具は鍵で、鳥居は口です。片方では足りない」
「要するに」とシラセが言う。
「両方壊せば止まります」
「最初からそう言え」
吐き捨てるように言って、軍曹は走った。
宮守がそれを見た。白い装束の裂け目から鱗がのぞく。顔だけが妙に人に近い。その顔で、ひどく静かな声を出した。
「まだ足りない」
石段の下から黒い水が噴いた。社の床板が内側から持ち上がる。家々の戸がまとめて鳴る。鳥居へ向かって、村の湿り気すべてが流れ始めた。溜まった水、床下のぬめり、井戸の底の気配。そこに混ざっていた顔まで引きずられてくる。
七百人。その数が、今度は重さになって胸に乗る。宮守は一体ではない。村そのものがこいつの後ろにある。
「下がるな!」とシラセが叫ぶ。「線を保て!」
兵が撃つ。火薬の匂いが一瞬だけ湿りを押し返す。だが弾は水を散らすだけで、その奥からまた顔が浮く。
宮守が跳んだ。石段を割り、鳥居の残骸と一緒に前へ出る。人の跳躍ではない。濁流が白い装束を着て襲ってくるような形だった。
ブルナイだけが動かなかった。いや、止まって見えただけだと次の瞬間にわかる。宮守の方を見ていない。
鳥居の上。笠木の傾き。霧の流れ。石段の縁。水の寄り方。そういうものをまとめて見ている。山側に立っている。見えてから斬るのではなく、出てくる前にどこへ来るかを知っている立ち方だった。
宮守が迫る。床下から腕が噴く。水たまりに顔が増える。
その中に、老人の顔がひとつだけ妙にはっきり浮いた。祈りの言葉の断片が口からこぼれる。
「冷えぬように」
ブルナイが一拍だけ止まった。怪物なら迷わず斬る。だが老人の顔のまま祈りの切れ端を吐く相手に、その一拍が入る。
「これは人間がやったことだ」ブルナイの声は低かった。
「しかも、善いことのつもりでな」
アキツキの喉が詰まる。その一拍を潰したのはシラセだった。
軍曹は左の柱へ踏み込み、軍刀を刻み傷へ叩き込む。刃が入った瞬間、柱の中から黒い水が噴き出した。血ではない。だが血より嫌な臭いがした。長く閉じ込められたものが、ようやく腐りきった臭いだ。
鳥居が震える。注連縄がぶち、と鳴る。
宮守が身を捩る。シラセを止めに行く。その進路へブルナイが入った。速い、ではない。いるべき位置に、最初からいたみたいだった。
宮守の腕が落ちる前に白い装束の袖が裂ける。鱗が散る。だが宮守は水ごと形を変え、右へ流れる。
「もう一本!」とアキツキが叫ぶ。
シラセは返事をしないまま走る。右柱へ向かう。兵が二人、反射で前へ出て宮守の流れに発砲する。水が弾ける。顔が崩れる。床下の腕が一人の脚を掴みかけ、もう一人が襟首を引いて戻す。隊列がぎりぎりで保たれる。その上をブルナイが行った。
石段の縁、折れた柱、社の屋根の残り。水には一度も足を入れない。踏み込む場所が人間の勘ではない。山の獣が枝を選ぶように、そこだけ確かに死なない足場を踏んでいく。
シラセの軍刀が右柱へ入る。鳥居が悲鳴みたいな音を出した。そこへ宮守が戻ろうとする。白い装束の裾に、村じゅうの黒い湿りがまとわりついていた。床下や水面に見えた顔まで巻き込み、七百人ぶんの流れそのものになっている。
アキツキは思わず一歩下がった。壊しただけでは足りない、遅かったのではないか。その弱気が一瞬だけ頭を掠める。
その瞬間、ブルナイが踏み込んだ。
地面が沈んだ。次に見えたのは、村の景色がずれたことだけだった。斬撃だと理解するまでに半拍いる。
鳥居の残骸、石段、社、左右の家、床下の黒い水、顔の浮いた泥、宮守の身体。全部がまとめて持ち上がり、遅れて割れた。
轟音が来た。山そのものを板で叩いたような音だった。空気が潰れ、家が横から裂け、柱が弾け飛ぶ。石段の半分が消え、社の屋根が宙を舞う。宮守は中心から断たれたのではなく、村の景色ごと何枚にも裂かれて散った。
土煙と水煙が一緒に噴き上がる。兵が伏せる。アキツキも腕で頭を庇ったが、衝撃で息が止まった。
顔を上げたとき、村の中央は抉れていた。
鳥居のあった場所から社の奥まで、一直線に深い裂け目が走っている。左右の家は半ばから崩れ、床下は露出し、黒い水は泥へ戻っていた。さっきまで顔を浮かべていた薄い水は、どこにも残っていない。宮守も、いない。残っているのは切れた白布と、焼けたみたいに黒い泥だけだった。
だが終わりきらない。
統率を失った床下の腕が、最後の癇癪みたいにあちこちから伸びた。兵が撃つ。シラセが怒鳴って線を立て直す。ひとりが引かれかけ、二人がかりで引き戻す。そこでようやく、最後の水音が途切れた。
村中が黙る。
その静けさの中で、川の方からごぼりと一度だけ音がした。アキツキが振り向く。遠い水面に見えていた影が、いくつかほどけるように沈んでいく。ゼロではない。だが明らかに減っている。
人間には戻らない。その言葉が、まだ誰の口からも出ていないのに、先に事実としてそこにあった。
「残存確認!」
シラセの声で兵たちが動き出す。アキツキは返事をしかけて、止まった。裂け目の向こうに、さっきまであの一撃の中心にいたはずの姿がない。
「……いない」
シラセが一度だけこちらを見る。
「またか」
呆れでも心配でもない、いつもの確認の声だった。
「見えません」
「探せ」
それだけで十分だった。兵たちへ負傷確認と周囲警戒の指示が飛ぶ。その声を背に、アキツキは抉れた村の中央へ走った。
崩れた柱を越える。吹き飛んだ屋根板をまたぐ。泥の中には白布の切れ端と、砕けた鱗と、もう何の形も残していない黒い塊が散っている。鳥居のあった場所から谷のように抉れた地面の先、山肌が剥き出しになっている。こんなものを一太刀で作る方がおかしい。おかしいのに、いまさらそこに驚いている場合ではない。
「……ちなみに」また口が動く。こんなときにまで。
「こういうのは勝った方を探す手順ではなくて、災害の中心点を確認する手順に近いのでは」
自分で言って、自分で嫌になる。だが少しだけ、息が戻る。考えることは、怖さに名前をつけるよりましだった。
霧の向こうを見る。
どこかにいる。たぶんまた、何でもない顔で村の外れにいる。そうでなければ困る。困るのに、そう思っている自分が少しおかしい。
山の奥は静かだった。もう水音はしない。もう返事もしない。
それでも、探しに行く足だけは止まらなかった。




