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本能型天才と、理性型軍師と、板挟み中間管理職の帝国奇譚  作者: 青羽 イオ


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第17話「これは、人間がやったことだ」

 紫の火が走った。


 だが一太刀目は、深くは入らなかった。


 宮守の輪郭が鳥居の内と外でずれたからだ。斬ったはずの位置から、半拍遅れて水だけが散る。白装束の裾が裂け、濡れた鱗が数枚はじけ飛ぶ。それだけで、宮守本体は石段の横へ滑るように逃れていた。


 鈴が鳴る。からん。からん。


 乾いた祭具の音ではない。濡れた金属の内側で水が揺れ、その重みごと鳴っている。


「飢えさせなかった」


 宮守が言った。


「溺れさせなかった」


 言いながら口から水をこぼす。その水が石段を伝い、段の縁から糸のように落ちる。落ちた先の土が、ひと息で黒く濡れた。


 ブルナイが追う。岩を蹴る。鳥居の柱を踏む。次の位置へ入るまでが早い。山の理で動いている。見えてからではなく、出る瞬間の気配に先回りしている動きだ。


 宮守の肩が裂けた。鈴緒の切れ端が飛ぶ。だが次の瞬間には、社殿の床下から水が噴き、別の位置で白装束が立ち上がる。ひとつを斬っても、仕組みが後ろで繋いでいる。そういう移り方だった。


「中尉!」とシラセが叫んだ。「位置が固定しません!」


「ええ。固定していないのではなく、通しています」


「短く!」


「床下です!」


 その答えと同時に、社の床板が下からどんと持ち上がった。兵が二人、反射で飛び退く。遅れた一人の足首を、割れ目から伸びた濡れた腕が掴んだ。鱗のある手だった。人の指の長さに、水かきだけがついている。


「引くな! 切るな、引け!」とシラセが怒鳴る。


 兵が銃を捨てて仲間の胴へ組みついた。もう一人が脇から肩を掴む。三人がかりで引いた瞬間、床下の腕がずるりと戻った。残ったのは泥と鱗と、床板の裏を走る何かの気配だけだった。


 そのとき、水面が揺れた。


 社殿の縁下、石段のくぼみ、踏み荒らされた泥の窪地。その薄い水という水に、顔が浮いた。


 ひとつではない。


 年寄りの顔があった。若い女の顔があった。子どもの丸い額が、揺れる水膜の下からこちらを見た。


 どれも輪郭が定まらない。目鼻の位置が水に崩れ、浮かんでは沈む。それでも顔だとわかってしまう。見たこともない他人のはずなのに、家の中で見た寝具や、柱の背丈の線や、湿った囲炉裏の前にいたはずの人間として、わかってしまう。


 兵のひとりが吐いた。別の兵が銃口を下げた。


「見るな!」とシラセが怒鳴る。「足元だけ見ろ! 撃つ相手は上だ!」


 声に叩かれて、何人かの視線が戻る。


 戻らなかったのはブルナイだけだった。


 ブルナイは宮守を見ていた。いや、宮守の向こうに混ざった顔ごと見ていた。刀を持つ手は動いている。だが踏み込みがわずかに遅れた。怪物なら迷わず斬る。そのはずの一拍が、そこにあった。


 宮守が笑ったのか、水がこぼれただけなのか、見分けがつかなかった。


「ここにいる」


 鈴が鳴る。


「ちゃんと上げた」


 床下の水が、返事をするようにざわつく。


 アキツキの中で、別々だったものが一気に並んだ。石段の磨耗、柱の刻み傷、欠けた戸籍、湿った寝具、床下の擦過音。乾く前に返した、という言い方。返すという動詞。上げたという言い方。これは埋葬ではない。避難でもない。通している。村から山へ。人の形から、別の側へ。


「ちなみに――」


 シラセが反射で「中尉」と言いかけた。今度は止まらなかった。


「ちなみに供犠を水と山の境で扱う古い祭祀では、人数そのものを数えて刻む場合があります。通した数を柱や門に残す。戻るためではなく、渡した数を忘れないために。そういう場所では門そのものか、渡す役の持つ祭具が核になります。通り道を維持する記号だからです。逆に言えば、そこが切れれば儀礼は続かない」


 言い切ったあとで、自分でも少し驚いた。初めて最後まで言えた。こんな最悪の場面で達成することではない。祝いようがない。


 だがシラセは、もう動いていた。


 軍曹の目は宮守ではなく、その右手を見ていた。濡れた指に握られた鈴。注連縄の切れ端が巻きつき、振るたびに水を散らす祭具。


「少佐!」とシラセが叫ぶ。「手です。そっちを押さえてください!」


 ブルナイの反応は早かった。遅れていた一拍が消える。紫の火が横へ走り、宮守の足を止める。首ではない。胴でもない。逃がさないための一閃だった。石段の縁で宮守の体勢が崩れ、右腕がわずかに開く。


 シラセが踏み込む。柄で叩き落とす方が早いと判断した距離だった。


 金属と骨と鈴が、まとめて鳴った。


 宮守の手から祭具が飛ぶ。地面へ落ちる前に、シラセは左足で踏みつけた。


 鈴がひしゃげる。それでもまだ鳴ろうとして、濁った音を一度だけ漏らした。


「戻らないんですね」


 シラセが言った。誰に向けた声かはわからない。宮守か。七百人か。自分自身か。


 次の瞬間、軍曹はためらわず軍刀を振り下ろした。鈴と御幣の柄を、まとめて断つ。


 祭具が割れた。乾いた破片ではなかった。中から黒い水と、細かい鱗と、髪のようなものがどっとこぼれた。地面に落ちた途端、それらは一斉にただの汚れへ戻る。


 村中で鳴っていた水音が、止まった。


 本当に、ぴたりと。


 家々の床下も、井戸の底も、甕の中も。返事をしていたものが、まとめて黙った後の静けさだった。


 宮守が膝をついた。白装束の肩から水が落ちる。濁っていない目だけが、まだ人の顔に残っている。


「遅かった」


 そう言って、宮守は自分の割れた祭具を見た。


「もう、泣かない形にした」


 ブルナイがそこで止まった。刀を振り上げるでもなく、下ろすでもなく、ただ一歩ぶんだけ近い場所で。


 そして低く言った。


「これは、人間がやったことだ」


 アキツキは何も言わなかった。シラセも言わなかった。


 その言葉の後では、足すものがない。


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