第16話「もう泣かない形にした」
それも、つい昨日まで誰かに祝詞を上げ、村の名を呼び、子どもの額へ手を置いていただろう声だった。そこへ水が混じっている。喉がもう人の形だけで保たれていない。だが声の芯だけは不思議なほど澄んでいた。壊れているのに濁っていない。そのことが、かえって気味が悪い。
ブルナイの顔から、いつもの散らかった軽さが消えていた。
「出てこい」
短く言う。
霧の向こうで、何かがぬめる音がした。
「出てる」
その返事だけで、兵の列のどこかが震えた。見えていないのに、見られている。しかも向こうは、こちらを一人ずつ数えている。そんな感じがした。
シラセが低く命じる。
「前列、銃口を上げるな。鳥居の下だ。影が出た瞬間だけ撃て」
「は、はい」
「声に引かれるな」
その一言が少し遅かった。
右端の若い兵が、無意識に一歩、石段へ寄った。自分でも気づいていない顔だった。耳を傾けるように首を伸ばし、鳥居の奥を見ようとしている。
ブルナイが動くより先に、アキツキがその襟を掴んで引いた。
「下がれ」
兵がはっとしてよろめく。
「す、すみません」
「謝罪は後です。今は耳を使うな」
使うな、というのも無茶な話だが、そう言うしかなかった。あの声は耳から入るのに、足を動かす。しかも断っても勝手に来る。
鈴が三度、鳴った。
からん。からん。からん。
*
音の間隔が等しい。誰かを呼ぶ手順そのものだった。そのたびに、村の方角からかすかに水音が返る。家の床下、井戸、甕、濡れた寝具の下。さっき見てきた村全体が、この鳥居へ繋がっている。そう思わせる返り音だった。
アキツキのこめかみに冷たい汗が浮いた。
理屈は揃ってきている。だが揃えば揃うほど、言葉にしたくなくなる。言葉にすると、本当に起きたこととして立ってしまう。
「中尉」とシラセが呼ぶ。
「はい」
「来ます」
その瞬間、霧が裂けた。
鳥居の左柱の内側。さっきまで何もなかった空間から、水をまとった白いものが半歩だけ現れる。顔が先に見えた。老人の顔だった。濡れた前髪が額に張りつき、目だけが妙に澄んでいる。首筋から鱗が光り、肩には薄い膜。白装束の名残が肌へ貼りつき、腕には注連縄の切れ端が巻きついている。手に鈴と、濡れた御幣。
人間の顔のまま、崩れていた。
ブルナイが一拍だけ止まった。
怪物なら、そのまま斬っていたはずだ。その一拍があった。
宮守の口が開く。
「ちゃんと、上げた」
水がこぼれた。次の瞬間、姿が消える。
「右!」
アキツキが叫んだ。考えるより先に出た声だった。
右の石段脇、根の影が膨らむ。ブルナイがそちらへ飛ぶ。抜刀の鞘走りが霧をまっすぐ裂いた。
だがそこにはもういない。
紫の一閃が空を斬り、石段の端を削る。火花と一緒に、下から水が噴いた。遅れて、別の位置で鈴が鳴る。
からん。
宮守の声が、鳥居の真上から落ちた。
「もう泣かない形にした」
兵の何人かが顔を歪める。意味がわかるからではない。意味がわからないまま、嫌なところだけが伝わる声だった。
ブルナイが紫の目で鳥居を睨んだ。
「お前」
低い声だった。
「それを救ったと思ってんのか」
返事はすぐには来なかった。霧の奥で、水だけが動く。それから、途切れ途切れに声がした。
「……泣いてた」
「飢えて」
「遅くて」
「だから」
会話にならない。だが、ならないままの方が重い。説明しない。言い訳だけが残る。人間が壊れると、こういう順番で崩れるのかもしれない、とアキツキは思った。考えたくはなかったが、思ってしまった。
「中尉。声に合わせて位置が変わります」とシラセが銃を構えたまま言う。
「ええ。鳥居の内と外で、移動そのものを混ぜています。境界を踏んでずらしている」
「短く」
「厄介です」
「十分です」
ブルナイの指が、柄の上でまた鳴った。コキ。紫の炎が、刀に薄く灯る。
「アキツキ」
「はい」
「もういいか」
斬っていいか、だ。
アキツキは眼鏡を押し上げ、鳥居と石段と霧の流れを見た。今斬っても、たぶん終わらない。壊すべき場所がまだ見えていない。
「まだです」
ブルナイが舌打ちした。
「やだ」
「却下します」
「うるさい」
言い合っている場合ではない。だがこの二人がこういうときほど平常運転なので、逆に兵の緊張が少し戻る。妙な効能だった。
鳥居の向こうで、宮守がまた言った。
「乾く前に返した」
その声に重なって、村の方から水音がいっせいに返った。家々の床下で何かが擦り、井戸の底で水が撫で、甕の中で鱗が触れ合う。村全体が、返事をしたように聞こえた。
そのとき、ブルナイの顔色が変わった。
「下がれ!」
兵が反射で伏せる。
次の瞬間、鳥居の真下の石段が内側から割れ、水が槍のように噴き上がった。さっきまで何もなかった空間から、宮守が這い出る。人の顔のまま、首から下だけが濡れた鱗に覆われ、白装束を引きずり、手の鈴を鳴らしながら。鳥居の境をまたぐ瞬間だけ、その輪郭がぶれた。内側と外側で、形の見え方が変わる。
ブルナイが地を蹴った。
紫の火が走る。
鳥居の手前、儀礼の声だけが先に来た時間は、そこで終わった。




