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本能型天才と、理性型軍師と、板挟み中間管理職の帝国奇譚  作者: 青羽 イオ


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第16話「もう泣かない形にした」

 それも、つい昨日まで誰かに祝詞を上げ、村の名を呼び、子どもの額へ手を置いていただろう声だった。そこへ水が混じっている。喉がもう人の形だけで保たれていない。だが声の芯だけは不思議なほど澄んでいた。壊れているのに濁っていない。そのことが、かえって気味が悪い。


 ブルナイの顔から、いつもの散らかった軽さが消えていた。


「出てこい」


 短く言う。


 霧の向こうで、何かがぬめる音がした。


「出てる」


 その返事だけで、兵の列のどこかが震えた。見えていないのに、見られている。しかも向こうは、こちらを一人ずつ数えている。そんな感じがした。


 シラセが低く命じる。


「前列、銃口を上げるな。鳥居の下だ。影が出た瞬間だけ撃て」


「は、はい」


「声に引かれるな」


 その一言が少し遅かった。


 右端の若い兵が、無意識に一歩、石段へ寄った。自分でも気づいていない顔だった。耳を傾けるように首を伸ばし、鳥居の奥を見ようとしている。


 ブルナイが動くより先に、アキツキがその襟を掴んで引いた。


「下がれ」


 兵がはっとしてよろめく。


「す、すみません」


「謝罪は後です。今は耳を使うな」


 使うな、というのも無茶な話だが、そう言うしかなかった。あの声は耳から入るのに、足を動かす。しかも断っても勝手に来る。


 鈴が三度、鳴った。


 からん。からん。からん。



 音の間隔が等しい。誰かを呼ぶ手順そのものだった。そのたびに、村の方角からかすかに水音が返る。家の床下、井戸、甕、濡れた寝具の下。さっき見てきた村全体が、この鳥居へ繋がっている。そう思わせる返り音だった。


 アキツキのこめかみに冷たい汗が浮いた。


 理屈は揃ってきている。だが揃えば揃うほど、言葉にしたくなくなる。言葉にすると、本当に起きたこととして立ってしまう。


「中尉」とシラセが呼ぶ。


「はい」


「来ます」


 その瞬間、霧が裂けた。


 鳥居の左柱の内側。さっきまで何もなかった空間から、水をまとった白いものが半歩だけ現れる。顔が先に見えた。老人の顔だった。濡れた前髪が額に張りつき、目だけが妙に澄んでいる。首筋から鱗が光り、肩には薄い膜。白装束の名残が肌へ貼りつき、腕には注連縄の切れ端が巻きついている。手に鈴と、濡れた御幣。


 人間の顔のまま、崩れていた。


 ブルナイが一拍だけ止まった。


 怪物なら、そのまま斬っていたはずだ。その一拍があった。


 宮守の口が開く。


「ちゃんと、上げた」


 水がこぼれた。次の瞬間、姿が消える。


「右!」


 アキツキが叫んだ。考えるより先に出た声だった。


 右の石段脇、根の影が膨らむ。ブルナイがそちらへ飛ぶ。抜刀の鞘走りが霧をまっすぐ裂いた。


 だがそこにはもういない。


 紫の一閃が空を斬り、石段の端を削る。火花と一緒に、下から水が噴いた。遅れて、別の位置で鈴が鳴る。


 からん。


 宮守の声が、鳥居の真上から落ちた。


「もう泣かない形にした」


 兵の何人かが顔を歪める。意味がわかるからではない。意味がわからないまま、嫌なところだけが伝わる声だった。


 ブルナイが紫の目で鳥居を睨んだ。


「お前」


 低い声だった。


「それを救ったと思ってんのか」


 返事はすぐには来なかった。霧の奥で、水だけが動く。それから、途切れ途切れに声がした。


「……泣いてた」

「飢えて」

「遅くて」

「だから」


 会話にならない。だが、ならないままの方が重い。説明しない。言い訳だけが残る。人間が壊れると、こういう順番で崩れるのかもしれない、とアキツキは思った。考えたくはなかったが、思ってしまった。


「中尉。声に合わせて位置が変わります」とシラセが銃を構えたまま言う。


「ええ。鳥居の内と外で、移動そのものを混ぜています。境界を踏んでずらしている」


「短く」


「厄介です」


「十分です」


 ブルナイの指が、柄の上でまた鳴った。コキ。紫の炎が、刀に薄く灯る。


「アキツキ」


「はい」


「もういいか」


 斬っていいか、だ。


 アキツキは眼鏡を押し上げ、鳥居と石段と霧の流れを見た。今斬っても、たぶん終わらない。壊すべき場所がまだ見えていない。


「まだです」


 ブルナイが舌打ちした。


「やだ」


「却下します」


「うるさい」


 言い合っている場合ではない。だがこの二人がこういうときほど平常運転なので、逆に兵の緊張が少し戻る。妙な効能だった。


 鳥居の向こうで、宮守がまた言った。


「乾く前に返した」


 その声に重なって、村の方から水音がいっせいに返った。家々の床下で何かが擦り、井戸の底で水が撫で、甕の中で鱗が触れ合う。村全体が、返事をしたように聞こえた。


 そのとき、ブルナイの顔色が変わった。


「下がれ!」


 兵が反射で伏せる。


 次の瞬間、鳥居の真下の石段が内側から割れ、水が槍のように噴き上がった。さっきまで何もなかった空間から、宮守が這い出る。人の顔のまま、首から下だけが濡れた鱗に覆われ、白装束を引きずり、手の鈴を鳴らしながら。鳥居の境をまたぐ瞬間だけ、その輪郭がぶれた。内側と外側で、形の見え方が変わる。


 ブルナイが地を蹴った。


 紫の火が走る。


 鳥居の手前、儀礼の声だけが先に来た時間は、そこで終わった。

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