第15話「遅かった」
鳥居の向こうから、水音がした。
川の音ではない。もっと近い。木の根の下を、濡れたものがゆっくりと擦ってくる音だった。山の中なのに、水だけがこちらへ上がってくる。霧が一段低くなり、石段の一番下を舐めるように流れた。
シラセが手を上げる。
「全員下がれ。石段から三歩」
兵が一斉に動いた。銃床が服に触れる音、靴底が砂利を噛む音。その全部がやけに大きく聞こえる。誰も喋らない。喋ると、向こうへ届く気がした。
ブルナイだけが動かなかった。
鳥居を見上げたまま、口もきかず、指だけが小さく鳴っている。コキ、と一回。コキ、ともう一回。本人はそれを気にしていない。嫌なときの癖だ。いや、癖ですむならもっと可愛げがある。これはだいたい何かが始まる前触れだった。
「隊長」
アキツキが呼ぶ。返事はない。
もう一度呼ぶ前に、声が来た。
「……遅かった」
老人の声だった。
鳥居の向こうから聞こえた。近いのか遠いのか、まったくわからない。耳で聞いているのに、石段の裏から響いたようにも、頭の中に落ちたようにも聞こえる。声の終わりに水が混じり、言葉の最後だけ崩れ、ぬるいものがこぼれる音になって消えた。
兵のひとりが小さく息を呑んだ。
「撃つな。まだだ」
シラセの声が低く飛ぶ。正しい。まだ位置がない。声だけを撃っても、こちらの居場所を知らせるだけだ。
アキツキは石段を見たまま、眼鏡を押し上げた。
「……声が先に来るのは、境界で反響がずれているのか、それとも」
「中尉」
「はい。黙ります」
自分で止まれるなら最初からやってほしい、とシラセは思ったが言わなかった。今はそれどころではない。
霧がもう少し降りてきた。鳥居の柱の内側に沿って、白いものが糸のように流れる。その向こう、山道は見えない。見えないはずなのに、誰かが立っている気配だけがある。目で見たのではない。そこにいると、空気がそう言っている。
ブルナイがぽつりと言った。
「いるな」
「見えますか」
「見えない。いる」
理屈はない。いつものことだ。いつものことなのに、この人がそう言うときはだいたい当たる。腹立たしいほどに。
また声がした。
「返しただけだ」
今度は少しだけ近い。水を含んだ喉で、祈るように、言い訳するように、同じ重さで吐かれた声だった。言葉の区切りが妙だ。相手へ届かせるための喋り方ではない。自分へ言い聞かせる方の声だ。
アキツキの背筋を冷たいものが下りた。
帳面、欠けた家、濡れた寝具、井戸の鱗、石段の磨耗、柱の傷。そこへ今の一言が乗る。事故ではない、で止まっていた線が一段先へ進んだ。誰かが数えて通した。その上で、返したと言っている。
ブルナイが低く言った。
「これ、人間だな」
シラセが横目で見る。
ブルナイは鳥居の奥を睨んだまま続けた。
「魚なら、こんな言い訳しない」
兵の何人かが顔を上げた。その一言は、妙に真ん中へ落ちた。
霧の奥で、鈴が鳴った。
からん、と一度。
*
祭の鈴ではない。乾いた音ではなく、濡れた金属を揺らしたような重い響きだった。余韻の方が長く尾を引き、その余韻に混じって、石段の下のどこかで水が返す。村中の床下から聞こえたのと同じ、水の擦れる音だった。
兵の列がわずかに強張る。
「隊列維持」
シラセが言う。それだけで何人かの肩が戻った。恐怖は放っておくと勝手に増える。雑草より増える。しかも刈ってもまた生える。
「もう乾いた者は、村に置けない」
声がまた落ちてきた。今度は上から聞こえた気がした。鳥居の貫か、枝の間か、それとも真後ろか。方向が定まらない。兵のひとりが思わず振り返る。そこには誰もいない。
「……ちなみに、境界儀礼において"乾く"という語は、人の側へ固定されることを指す場合があります。湿りと乾きの対立で変化の途中を――」
鈴が、もう一度鳴った。
からん。
今度は近い。アキツキの声が止まった。止まったというより、切られた。音に。霧に。鳥居の下へ満ちた気配に。
石段の四段目、中央の磨かれた部分に、水がにじんだ。誰も踏んでいない。雨も降っていない。石の奥から透明なものがじわりと浮き、細い筋になって流れた。筋はまっすぐ中央を下る。左右へ逸れない。まるで、いつもそこを通っていた水が道を思い出したようだった。
ブルナイの手が刀の柄にかかった。
「まだです」とアキツキがすぐに言う。
「……うん」
返事はした。だが手は外れない。
声が、今度は笑ったように崩れた。
「飢えさせなかった」
祈りの言葉だった。同時に、ぞっとするほど具体的な言葉でもあった。兵の後列で誰かが小さく「なんだそれ」と漏らす。シラセは振り返らない。視線を外した瞬間に来る類の相手だと、もうわかっていた。
霧の中に、白いものが揺れた。
人影ではない。布だ。細長い、濡れた白装束の端のようなものが、鳥居の左脇を掠めて消える。見えたのは一瞬だけ。それでも十分だった。向こうにいる。しかも、人の形をまだ残している。
アキツキは喉の奥で言葉を選んだ。
「……宮守」
呼びかけというより、確認だった。
霧の向こうで、水がひとつ落ちた。返事の代わりだった。
「ここにいる」
今度の声は、はっきりと鳥居の内側から来た。
老人だった。




