第11話「湿っている」
アキツキは眼鏡をかけ直し、村の中央を見渡した。視線が速い。家の並び、井戸の位置、社の方角、北の山。その全部を一度で頭へ入れようとしている顔だった。
「中尉」とシラセが呼ぶ。
「はい」
「血の匂いがあります」
「ええ。川辺の残り香ではありません」
アキツキはそれだけ答え、最寄りの家へ向かった。ブルナイはその横を歩いていたが、歩幅が一定しない。道の泥を見たり、軒先の影を見たり、急に立ち止まって鼻を鳴らしたりしている。犬か。いや犬の方がもう少し落ち着きがある、とアキツキは思ったが口には出さなかった。
「なんかやだ」
ブルナイが言った。
「そうでしょうね」
「やだって言ってるのに、なんでそんな平気そうなの」
「平気ではありません。あとでまとめて嫌がる予定です」
「気持ち悪い予定だな」
最初の家は、戸が半分開いたままだった。
シラセが先に入り、アキツキがその後に続く。ブルナイは入ろうとして、敷居の手前で止まった。靴先だけ中へ入れて、そこで顔をしかめた。
「湿ってる」
その一言のとおりだった。
床板が黒ずみ、壁際の箪笥の下までじっとり濡れている。外より暗く、空気が重い。窓は閉じていないのに、井戸の底に入ったような息苦しさがある。
シラセは寝具を見た。畳んでいない布団が三組、部屋の隅に寄せてある。その全部が濡れていた。水をこぼした斑ではない。芯まで染みた湿り方だった。
アキツキは台所へ回った。まな板の上に包丁が置かれたままになっている。刃は乾いているが、板の表面に細かい筋が残っていた。魚を刻んだ跡だ。だが鱗の量が多すぎる。小魚を数匹さばいた跡ではない。もっと粘る肉を、急いで叩いたような傷だった。
甕の蓋を開ける。水気の抜けた底に、鱗が何枚も貼りついていた。
井戸端へ出る。釣瓶は上がったままだ。縄を引き、桶を少しだけ持ち上げて中を覗く。水面に陽が差し込んでいる。その底にも、銀白色の薄いものが沈んでいた。
「……ちなみに」
アキツキの口が動いた。
シラセは無言で顔だけ向けた。
「まだ何も言っていません」
「言う顔をしていました」
「顔で止めないでください」
ブルナイが家の中へ入ってきた。歩き方がさっきより遅い。珍しい。いつもなら勝手に棚を開け、戸を引き、何かを拾って怒られるところなのに、今日は違った。鼻を鳴らしながら、濡れた寝具の前でしゃがみ込む。
「ここで寝たんだな」
冗談のない声だった。
アキツキとシラセは一瞬だけ目を合わせた。
ブルナイが寝具に触れた。指先で布の端をつまみ、しばらくそのまま黙る。
「まだ冷たい」
そう言って手を離した。
*
シラセは帳面を見つけた。柱際の小机の引き出しに、古びた綴じ冊子が何冊か入っていた。湿気で端が波打っている。表に年号と家の名が書かれている。家計簿ではない。村の記録帳だ。
アキツキが受け取り、頁を繰る。村の人数、家ごとの構成、納め物、祭礼の日付。書式は簡素だが、系統立っている。数十年単位で継いできた記録だとわかった。視線が速くなる。二頁、三頁、四頁。指先が止まった。
「おかしい」
「何がです」
「減り方です。病や飢饉なら年によって波が出る。ですがこの村は、ある年代ごとに不自然に人数が抜けています。家が丸ごと消えている箇所もある」
「死んだという記録ではなく」
「記録の上から消えている」
頁をさらに繰る。
「近年になると、数が合わない」
「何の数がです」
アキツキは答えず、次の頁を見た。唇が少しだけ動く。数えている。書いてある語をそのまま口にしないあたりが、この人の嫌なところであり、頼れるところでもあった。確定前に広げない。
外から合図が上がった。短く二回。兵のひとりが戸口まで走ってくる。
「軍曹。井戸のある家、全部同じです」
「何がだ」
「底に鱗があります。あと、水が……」
兵が言葉を選びかねている。
「言え」
「ぬるいです」
朝の井戸水が、ぬるい。
アキツキが顔を上げた。
別の方向からも合図が上がる。今度は三回。二人目の兵が駆け込んできた。
「寝具が全部濡れています。どの家もです。あと、床下で音がします」
「何の音だ」
「……水かと。ですが家の下を流れるような場所ではありません」
その報告を聞いて、ブルナイがすっと立ち上がった。
「床」
アキツキが止めるより早く、ブルナイは部屋の中央へ歩いていった。靴の踵で床板を一度、二度、軽く踏む。耳を澄ます。子どもっぽい落ち着かなさが顔から抜けていた。
三度目に踏み込んだ瞬間。
床下から、ぐ、と何かが擦る音がした。
家の中の全員が止まる。湿ったものが板の裏を撫でて、そこで止まった。それだけだった。
兵が息を呑む気配がした。
ブルナイは床を見たまま言った。
「いる」
「開けないでください。今は」とアキツキが即座に言う。
「わかってる」
言いながら、目を離さない。
「……でも、ここだけじゃない」
「ええ」
「村全体です」




